百年戦争(100年戦争)と呼ばれるジャンヌダルクが活躍したことでも有名な、中世ヨーロッパの戦争についてわかりやすくまとめていきます。
百年戦争または100年戦争と表記される中世ヨーロッパに起きた戦争は、100年を超える非常に長期間続いた戦争で、現在のフランスとイギリスの形成に大きな影響を与えました。
また、有名なジャンヌダルクが活躍したとしても知られています。
一方、期間が長いため、全体像を理解するには非常に複雑そうですが、ポイントさえ抑えれば理解も簡単になります。
そこで、百年戦争に関して、その原因から主な戦い、そして時系列や抑えておきたいポイントなどを、出来る限りわかりやすくまとめてみました。
百年戦争について早速見ていきましょう。
100年戦争/百年戦争とは?
百年戦争とは、フランス王国の継承権を巡って、ヴァロフ朝フランス王国と当時のイングランド王国プランタジネット朝の王エドワード3世との間で始まり、その後100年以上にも渡り散発的に続く一連の紛争のこと。
(出典:sciencesource.com)
1337年にエドワード3世がフランス王国へ挑戦状を送った時点から、1453年のボルドー陥落までの期間を指し、その間にイングランド王国はプランタジネット朝からランカスター朝に代わり、また、5世代をまたぐ中世ヨーロッパを代表する戦争です。
また、この壮大な戦争によって、現在に繋がるフランスとイギリスの国境線が決定したり、現在まで語り継がれる中世ヨーロッパにおける「騎士道」の発展が見られたり、さらに、それまで薄かった国民意識が強固に発達することになりました。
なぜイングランドとフランスの間で百年戦争が始まったのか?
百年戦争の始まりを理解するには、はるか昔、1066年にイングランド王となったウィリアム1世まで遡り、1328年に百年戦争のきっかけを作ったエドワード3世までの流れを簡単に見ていく必要があります。
まず、ウィリアム1世は、フランス国内のノルマンディーとイングランドを統合し、両方の領地を支配しました。
彼は、フランス王の臣下であるノルマンディー公でしたが、当時イングランドにいたサクソン勢力を追い出し、ノルマン朝イングランド王国の開祖になります。そしてここに、イングランドの土地と同時に、フランス国内のノルマンディーも治めることになりました(※イングランド王はフランス王国側からは臣下として見られていた)。
そして時は流れ、ヘンリー2世がイングランドの国王になります。
ヘンリー2世の父親はフランスの有力貴族であったこと、フランス王ルイ7世の王妃であったアリエノール・ダキテームと結婚したことなどから、ヘンリー2世の統治下ではフランスにおける領土は大きく拡大します。
そして時はさらに流れてき、エドワード3世の統治下にあった1327年までに、イングランド王国は、フランス国内に所有していた領地のほとんどを管理できない状態となっていました。
(エドワード3世)
ここで、百年戦争に繋がる最初の事件が起こります。
当時のフランス王シャルル4世が1328年に死去した時、シャルル4世には男子の後継者がいなかったのです。
実はエドワード3世の母はシャルル4世の妹であるイザベラであったため、エドワード3世は、自らがフランス王になるべきだと考えます。
一方、シャルル4世にはフィリップという名の従弟がおり、フィリップもまたフランス王を継承するのは自分だと考えます。
一旦はフィリップ6世が1328年にフランスの王位を継承して、エドワード3世もこれを認めますが、その後両者は対立。
エドワード3世に対してフランス領土の一部没収が宣言されたことで、亀裂は決定的となり、1337年11月にイングランド側がフランス側に挑戦状を叩きつけ、百年戦争が始まることとなります。
百年戦争の原因をわかりやすくまとめると
つまり百年戦争とは、イングランドとフランス王国の間で起きたというよりも、わかりやすく簡潔に述べるならば、親族の中で領地の権利を争っておきた揉め事。
それがいつの間にか100年を超える中世ヨーロッパ最大の戦争になってしまったのです。
ちなみに当時、イングランドにおいて王位は、母方または父方の血筋どちらでも継承される一方、フランス王国において王位継承できるのは、父方の血筋のみとされていた違いがありました。
そのため、イングランド人の王の誕生を拒んだフランス貴族は、「女性は王位継承権を所有しないので母親を経由した男子の継承権は認められない」として、エドワード3世が王になることを拒んだ経緯があります。
百年戦争で起こった主な合戦
百年戦争の中で、フランスとイングランドは数多くの戦いを行いました。ここでは、いくつか重要な決戦をみていきたいと思います。
百年戦争の主な合戦①:クレシーの戦い
1346年、ノルマンディー近くで勃発した戦い。
エドワード3世は1万前後の兵を率いてフランスに攻め入ったのに対して、フランス軍はおよそ3〜4万の群を率いて応戦。
フランス軍は幾度となくイングランド軍を攻撃しましたが、戦いはイングランド軍の勝利に終わったことで有名です。
(出典:wikipedia)
この戦いの鍵は、イングランド軍の長弓(ちょうきゅう:ロングボウ)部隊の活躍が大きかったと言われます。
フランス軍の攻撃は、弩(ど:クロスボウ)に頼っており、フランスはクロスボウがイングランド軍にとって、脅威になるだろうと考えていたのです。
しかし、クロスボウは射るのに時間を要し、1分間に1回か2回しか弓を射ることが出来なかったため、イングランド軍のロングボウ部隊に対し劣勢となってしまったのです。
百年戦争の主な合戦②:ポワティエの戦い
1356年、ポワティエの戦いと呼ばれる2つめの決戦が起こります。この戦いはエドワード3世の息子がフランス軍を襲撃したことから始まりました。
そして、またしてもイングランド側が勝利することになります。
(出典:wikipedia)
この戦いの肝となったのは、イングランド側がフランス側にしかけた罠。
フランス軍がイングランド軍の兵士を目にした時、イングランド軍兵士はまるで撤退しているかのごとく行動し、フランス軍の中に勘違いを引き起こすことに成功。
フランス軍が攻撃をしかけたところ、イングランド軍のロングボウの矢が嵐のようにフランス軍に降り注ぎました。
しかも、ロングボウ部隊の射手たちは、弓でフランス軍騎手の鎧を貫通するのは困難なことを経験上知っていたため、騎手の馬に狙いを定め、強固なフランス軍騎兵隊の隊形を混乱させたのです。
そして、両軍の兵士が至近距離での戦闘になると、近くで待ち構えていたイングランド軍がフランス軍兵士をとり囲み、側面あるいは背後から攻撃をしかけました。
結果、当時のフランス王であるジャン2世は戦いに敗北して捕虜となり、その後一旦は解放されたものの、ジャン2世は再び捕囚の身となって死去し、息子のシャルル5世が後を継ぎました。
百年戦争の主な合戦③:アジャンクールの戦い
1415年、アジャンクールの戦いが起こり、ここでもイングランド軍がフランス軍に勝利します。
戦場となったのは、2つの森林地帯に挟まれた細長い土地でした。
その地形ゆえ、採用出来る戦術は小規模な作戦に制限され、ここでもイングランド軍の長弓部隊が活躍することになります。
イングランドの長弓部隊は自らに対する攻撃を防ぐために、一列に設営した杭の柵の後ろに待機しつつ、フランス側が進軍してくると攻撃をしかけました。
その結果、狭い戦場は兵士や馬でごった返し混乱。
特にフランス軍兵士は重い鎧で武装しており、混乱状態の戦場で動き回るのは困難であり、足元も雨でぬかるんでいたため隊列は乱れ、軍隊として機能不全状態に陥ったのです。
一方、イングランドの長弓部隊の射手たちは軽量の鎧しか身につけていなかったため、乱れることなく素早い行動が可能となり、最終的には射手たちもフランス軍兵士を刀や手斧で攻撃し、フランス軍は数千人もの兵を失う大敗を喫したのです。
百年戦争の主な合戦④:オルレアン包囲戦
1428年および1429年のオルレアン包囲戦にて、フランスは決定的な勝利を収めます。
(出典:wikipedia by Jules Eugene Lenepveu)
この勝利は、フランス軍部隊を率いてイングランド軍と戦ったジャンヌ・ダルクの後援を受けてのものでした。
戦闘に加わった時、ジャンヌ・ダルクはまだ10代の少女でしたが、彼女は天使や聖人が見え、お告げを受けたと主張していました。
ジャンヌ・ダルク曰く、そのお告げはこの戦いでフランス王を助けよとの啓示だったのです。
ジャンヌ・ダルクは1429年、フランス軍部隊を率いてイングランド軍と戦いました。
ジャンヌ・ダルクはフランス軍が必要とする物資を運ぶ役割を果たし、フランス軍兵士たちの士気が挙がるよう努めた結果、1429年5月8日、フランス軍はイングランド軍に勝利したのです。
百年戦争の主な合戦⑤:カスティヨンの戦い
百年戦争の最後の戦いは1453年に起こったカスティヨンの戦いです。
(出典:wikipedia)
イングランド軍は、カスティヨンにてフランス軍を攻撃。
しかしイングランド軍は、フランス軍による大砲を使った戦法に直面することになります。
イングランド軍はこの戦いでフランス軍の大砲には歯が立たず苦戦。
そして、フランスの騎兵隊が到着してイングランド軍を側面側から攻撃し、また、当時のイングランドの主要な指揮官であるタルボットが死亡し、戦いは短期間で終結することになりました。
この戦いで百年戦争は最終的にフランス側が勝利して、ここにイングランドとフランスの間に起きた100年戦争は終わりを迎えることになります。
百年戦争の主な出来事歴史年表
- 1337年:百年戦争開始
- 1346年:クレシーの戦い
- 1356年:ポワティエの戦い
- 1360年:ブレティニー条約締結
- フランス王ジャン2世の捕虜からの解放と交換にイギリス側へ領地の拡大とフランス王国からの完全な独立を認めた仮和平条約
- 1415年:アジャンクールの戦い
- 1420年:トロワ条約締結
- フランス王位継承権をイングランド王に認めた条約。つまりイングランド王はフランス王にもなるとされたもの
- 1428〜1429年:オルレアン包囲戦
- 1453年:カスティヨンの戦い
- 1475年:ピキニー条約締結
- 百年戦争の正式な終結とイングランド側からフランス側への王位継承権返還
百年戦争に関する興味深い10個の事実
百年戦争に関して、主要な戦いなども挙げて詳しく見てきましたが、最後に興味深い10の事実を簡単に紹介しておきます。
百年戦争はアキテーヌ地方の没収が直接的な原因
アキテーヌ地方とは、フランスとイングランド双方が主権を争った主要な係争地で、この地域をフランス側が没収したことが、百年戦争争勃発の最終的かつ直接的な原因となりました。
フランス王フィリップ6世が敵とみなしていたロベール3世・ダルトワが、イングランド王エドワード3世の下で庇護を求めた結果、エドワード3世はこれを受け入れました。
(ロペール3世・ダルトワ 出典:wikipedia)
対して、1337年5月にフィリップ6世は、エドワード3世がフランス王臣下としての義務に反し、敵をかくまったとしてアキテーヌ公国を没収します。
そしてこのことが、エドワード3世がフィリップ6世に対して挑戦状を叩きつける最終的なきっかけとなったのです。
ブレティニー仮和平条約により百年戦争の第一段階が終わってイギリス王国はフランス王国から独立した存在となる
これまで収めたイングランド側の勝利とフランス側の国王不在状態(1356年に起きたポワティエの戦いでフランス王ジャン2世が捕虜にされてしまったため)により、エドワード3世はフランスの王位継承権を得ようと試みます。
しかし、この試みは失敗。
代わりに1360年にブレティニー条約が締結され、フランスはジャン2世の身代金を支払い、また、エドワード3世にアキテーヌ地方の領土を拡大譲渡して、イギリス王国がフランス王国から完全に独立した形となり決着します。
一方、エドワード3世はフランスの王位継承権の請求を取り下げ、以降9年間は平和な状態が続きました。
ちなみに、ジャン2世は子のルイが人質となることで解放されましたが、そのルイが脱走したため、1363年には再び捕虜としてイングランドに戻っています(ただし、捕虜といってもかなり手厚い待遇を受けていたらしい)。
シャルル5世指揮の下でフランスは譲渡した領土のほとんどを取り戻す
1369年、平和が破られます。
現在のスペインであるカスティーリャ王国の王位継承をめぐり、フランスとイングランドがそれぞれ対立する勢力についたことが主な引き金でした。
(シャルル5世)
フランスはベルトラン・デュ・ゲクラン軍事司令官のサポートを受けた有能なリーダー、シャルル5世(フランス王)の指揮の下、彼が亡くなる1380年までに、イングランド側へ譲渡した土地をほぼ全て取り戻すことに成功。
一方、ワット・タイラーの乱(1381年にイングランドで起きた農民の反乱)とスコットランドとの戦争で苦しんだイングランドは、リチャード2世の指揮の下で平和への道を探索して行きます。
さらに、フランスもまた戦争で疲弊していました。
これにより1389年から1415年までは両国間で休戦状態が続きます。
一旦はイングランド王がフランスの王位継承権を得た
1415年のアジャンクールの戦いにより、百年戦争は一気にイングランド優勢に傾きます。
ヘンリー5世は更なる成功を収め、1420年にトロワ条約(フランス国王シャルル6世の死後にイングランド国王ヘンリー5世がその後継者になると定めた条約)が締結されました。
これにより、フランス王シャルル6世からその長男シャルル7世への相続権が破棄され、シャルル6世の娘と結婚したヘンリー5世の後継者がフランスの王位を獲得することとなり、さらにシャルル6世が生きている間は摂政を務めることとされました。
(ヘンリー6世)
そして1422年にヘンリー5世が死ぬとその2ヶ月後にはシャルル6世も死に、生後9ヶ月のヘンリー6世がイングランドとフランスの国王と認定されます。
しかし、フランス人の多くが未だにシャルル6世の長男シャルル7世(または王太子)が、自分たちの王であると考えていました。
その結果、町全体としてシャルル7世に忠誠を尽くすオルレアンがイギリス軍に包囲されることになり、1428年、ジャンヌ・ダルクが立ち上がることでオルレアン包囲戦につながっていきます。
(ジャンヌダルク)
ちなみに、イングランドが最終的にフランスの王位継承権を放棄するのは、百年戦争を正式に集結したピキニー条約(1475年)によってです。
百年戦争が両国に及ぼした影響
百年戦争期間中は、戦争行為だけでなく疫病の流行などもあり、両国では劇的な人口減を迎えた期間でした。
フランスは人口のおよそ半数を失い、イングランドは20~33%の人口を失ったと言います。
一方で百年戦争は、外国人から自国を守る重要性をフランスに認識させました。
そして、海外の領土をほぼ全て失ったイングランドには島国意識が芽生え、その後の国の見解と発展に大きな影響を与えることになります。
百年戦争は、フランスおよびイングランド双方のナショナリズムにも刺激を与えたのです。
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百年戦争とは?ジャンヌダルクで有名な戦争をわかりやすく解説した100年戦争事典のまとめ
百年戦争とは、1337年から1453年にかけて、イングランドとフランスとの間に起こった長期間の紛争。
イングランド側がフランスの王位継承権とフランス国内に保有していたイングランド領の所有権を主張したことが始まりであり、その元凶となったのが両王家は親族関係にあったという点。
そして、両国において長期間続いたこの戦争は、最終的にはフランスの勝利に終わり、現在のフランスとイギリスの形成へと繋がっていく歴史的に非常に意味のある出来事だったのです。