ナポレオンの妻と女達というテーマで、3人の女性を見ていきます。最初の妻ジョゼフィーヌ、愛人となったマリア、そして二番目の妻となったもう一人のマリアの生涯を確認してみましょう。
ナポレオン・ボナパルトは歴史上最も偉大な軍事指導者の1人であり、ヨーロッパ史に独自の足跡を残した人物です。
その生涯のピークではフランス皇帝に即位し、そしてヨーロッパの大部分を支配下に収めました。
一方で、その偉大な軍事史と並行して、複数の恋や愛の物語も進んで行きます。ナポレオン・ボナパルトの生涯の中には、彼が愛した3人の女性が登場するのです。
その女性達とは、最初の妻ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ、愛人で結婚はしなかったものの真にナポレオンを愛したマリア・ヴァレフスカ、そして2番目の妻で正式な後継者を残すこととなったマリア・ルイーザ。
この記事では、そんなナポレオンの二人の妻と一人の愛人となった女性達について、その生涯を見ていきたいと思います。
ナポレオン一番目の妻「ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ」
1795年、ナポレオンは自身の指導者であり事実上のフランス統治者であったポール・バラスが主催するパーティーで、将来の妻となるジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと出会いました。
(出典:wikipedia)
この時、ジョゼフィーヌはポール・バラスの愛人で、彼らが初めて出会ったとき、ナポレオンは26歳、ジョゼフィーヌは32歳でした。
ジョゼフィーヌの元々の名はマリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリと言い、ギャンブル中毒の父の下、3人姉妹の長女として貧しい家庭に生まれるといった、生家は貴族といっても名ばかりの困窮した幼少期を過ごします。
他の男性とも恋歴を重ねてきたジョゼフィーヌ
ジョゼフィーヌは16歳で貴族のアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵と結婚。
彼らは長男ウジェーヌ、長女オルタンスをもうけましたが、結婚生活はジョゼフィーヌが20歳の時、1783年に破綻。
しかし、フランス革命中の1794年、彼女はアレクサンドルと共に反逆罪でパリに投獄されます。
この時、アレクサンドルは裁判にかけられてギロチンで処刑されてしまいましたが、ジョゼフィーヌは幸運にも刑を免れ、その後、1795年から1799年までフランスの実質的な権力を握った総裁政府のリーダー格「ポール・バラス」の愛人となったのです(ちなみに、ジョゼフィーヌは獄中でルイ=ラザール・オッシュ将軍と恋人同士となったとも言われます)。
ジョゼフィーヌにとっては渡りに船だったナポレオン・ボナパルト
1795年にジョゼフィーヌとナポレオンが最初に出会ったとき、ポール・バラスはジョゼフィーヌに飽きていたらしく、代わりに新たな愛人を見つけたがっていたため、どうにかしてジョゼフィーヌから離れる方法を画策していたと言います。
そのような状況に置かれていたことから、ジョゼフィーヌにとって若き英雄ナポレオンとの出会いは、フランス社会で生き残る手段を獲得するチャンスだったようなのです。
また、ナポレオンも妻となる女性を探しており、年上の女性と結婚をすればさらに社会に受容されると考え、ジョゼフィーヌの年齢は気にしなかったようです。
ジョゼフィーヌは男性を誘惑するのが巧みなまさに「女優」で、堕落した女性が持つたしなみを全て持ち合わせていました。
二人が初めての出会った時、彼女はナポレオンを誘惑することに全力を注いだのです。
その努力の甲斐もあり、ナポレオンとジョゼフィーヌは1796年3月に結婚、ジョゼフィーヌは晴れてナポレオンにとって最初の妻となったのです。
結婚から数日後、ナポレオンは新妻をパリに残し、イタリア軍とオーストリア軍との戦闘の指揮に赴いていきました。
ナポレオンの愛と妻ジョゼフィーヌの浮気
ナポレオンは妻となったジョゼフィーヌを心底愛していたとされ、ジョゼフィーヌに沢山のラブレターを送って彼の真剣な気持ちを表していました。
しかしジョゼフィーヌは、この結婚を彼女自身と子供たちが良い暮らしを送るための便宜と捉えていたようです。
彼女はナポレオンがパリを離れている間、これまでと同様に社交界の人間との浮気(不倫)を繰り返していたのです。
それにも関わらず、ナポレオンのラブレターに返事を書く時にジョゼフィーヌは、夫婦として二人が深い関係であることを示すため、夫が遠くに行って1人取り残されてしまった状況に対する嘆きを綴っていました。
ちなみに、ナポレオンの同僚や部下の多くがジョゼフィーヌの不倫に気付いていたようですが、ナポレオンは自分に対するジョゼフィーヌの愛を決して疑わなかったと言います。
浮気がばれた後からナポレオンを愛し始めるも他界してしまうジョゼフィーヌ
ナポレオンは勝利を収めてパリに戻り、1798年には35,000人から成る軍隊を率いてエジプト遠征を行いました。
このエジプト遠征の最中、ジョゼフィーヌと騎兵大尉イッポリト・シャルルとの浮気がついにナポレオンにばれ、その浮気を嘆くナポレオンの手紙がことあろうことかイギリス側の手に渡り、新聞に掲載されたことで大恥をかいたナポレオンは、ジョセフィーヌと離婚することを決意します。
しかし、この時はナポレオンがジョゼフィーヌをまだ愛していたこと、さらにジョゼフィーヌが懇願したことから、離婚にはなりませんでした。
そして1799年10月、ナポレオンは無制限の権力を持つ政府統領に就任。
また、オーストリア軍に勝利し、再びイタリアをフランス支配の下に収めました。
ナポレオンはフランス銀行を設立し、ナポレオン法典として知られている新たな法「フランス民法典」を施行して国内の法制度を改革。教育制度の見直しも行いました。
さらに、1804年5月には「ナポレオン1世」として「フランス皇帝」に即位し、妻であったジョゼフィーヌには「フランス皇后」の称号が与えられます。
一方で、ナポレオンは自分の後継者となる子供を非常に欲しがっていましたが、ジョゼフィーヌは彼の子を産むことはできませんでした。
そして、エジプト遠征中に起きた離婚騒動以降、急速にジョゼフィーヌへの関心を失っていったこともあり、ナポレオンはついに彼女を愛することを止めてしまいます。
それに対して、理由は良く分かっていませんが、この頃から不思議にもジョセフィーヌは、ナポレオンを心から愛し始めていきました。
最終的に、ナポレオンはジョゼフィーヌへの一切の関心を失ったため、二人は1810年3月に離婚、しかしナポレオンは、彼女が女帝の肩書きを保持することと、彼女とその子供たちを扶養することには同意しました。
そしてジョゼフィーヌは、1814年に亡くなるまでナポレオンを愛し続けたと言います。
ナポレオンの愛人となった女性「マリア・ヴァレフスカ」
ジョセフィーヌへの愛を失ったナポレオンは次々に愛人を持ち始めました。
1807年、ナポレオンはポーランドのワルシャワで、ポーランドの名門貴族アナスターシィ・ヴァレフスキ伯爵の妻であったマリア・ヴァレフスカと出会います。
伯爵夫人はたいへんな美貌と若さを兼ね備えていました。
(出典:wikipedia)
当時マリアは20歳だったのに対して、ヴァレフスキ伯爵は既に71歳で、この結婚はそもそも、マリアの生家ウォンチニスキ家の借金をヴァレフスキ伯爵が肩代わりする代わりに組まれたものでした。
また、ナポレオンも当時、最初の妻であるジョゼフィーヌに愛想をつかしていたため、両者にとって不倫関係になることは、全くもって大きな障害ではなかったのです。
マリアはナポレオンと共に、多くの時間をパリとウィーンで過ごすようになりました。
愛人女性マリアとナポレオンの間には息子が生また
1810年3月にナポレオンとジョゼフィーヌが離婚してから間もなく、1810年5月にはマリア・ヴァレフスカとナポレオンの間に、婚外子となる息子が誕生しました。
この赤ん坊につけられた名前は、アレクサンドル・フロリアン・ジョゼフ・ヴァレフスキで、ナポレオンの姓名ではなく、ヴァレフスキ伯爵の姓名が付けられます。
これは、息子が誕生した時、マリアは法的には伯爵と結婚していたのが理由です。
(出典:wikipedia)
一方で、アナスターシィ・ヴァレフスキ伯爵もアレクサンドルを後継者として認知し、後にこのナポレオンの子は、ヴァレフスキ伯爵の称号を継ぎます。
ナポレオンを愛するも正式に結婚をすることはなかったマリア・ヴァレフスカ
マリアはナポレオンを心から愛しており、彼女の献身的な愛は完璧で誠実なものでした。
1812年にはヴァレフスキ伯爵と離婚し、その後はナポレオンだけを愛するために誰とも結婚しようとしませんでした。
また、1814年、ナポレオンがエルバ島に追放された時には、そこまで会いに行ったと言われます。
さらに、ワーテルローの戦いで敗れ、セント・ヘレナ島へ島流しにされることになったナポレオンがマリアへ二度と会えないことを伝えると、マリアは涙ながらにセント・ヘレナ島へ一緒に連れていって欲しいと懇願し、また、別れた後は食事も一切喉を通らなくなってしまったほどだったと言います。
その後、自らが衰弱していく様や、子供の将来のことを考えた結果、ナポレオンへの思いを断ち切るためにも、マリアはナポレオンの又従姉妹であるドルナノ伯爵と1816年に結婚。
しかしマリアは、1817年に息子を出産した後に亡くなってしまい、この結婚は長く続かなかったのです。
ちなみに、セント・ヘレナ島へ追放されたナポレオンも、自分の部屋へマリアの肖像画を飾り、マリアから貰った指輪を最後まで指にはめていたと言われることからも、二人は結婚していなかったにも関わらず、両者の愛は紛れもなく本物だったことが分かります。
ナポレオン二番目の妻「マリア・ルイーザ」
ナポレオンは自分の血を引く、正当な後継者を持つことに非常に頑なでした。
以前の妻ジョセフィーヌはナポレオンの子孫を残すことが出来ず、マリア・ヴァレフスカとの間に生まれた息子は婚外子でした。
よってナポレオンは、法的に後継者資格のある子供を得るため、新たに正式な結婚相手を探し始めていたのです。
当初ナポレオンは、ロシアのアレクサンドル皇帝の妹との結婚を申し込んでいましたが、皇帝の母は自分の娘をナポレオンに預けることに反対。
(出典:wikipedia)
その結果、オーストラリア皇帝フランツ1世の娘だった、オーストリア皇女マリア・ルイーザに白羽の矢が立ったのです。
ちなみに、マリア・ルイーザは元々、マリア・ルドヴィカと言う名前で、過去にはナポレオンの侵略によって二度も宮殿を追い出された経験を持ちます。
そのため、マリア・ルドヴィカはナポレオンとの結婚が決まったと聞かされた時、心底絶望して泣き続けたと言われます。
マリア・ルイーザとナポレオンに子供が出来る
1810年4月に結婚した後、ナポレオンは自分が呼びやすいようにマリアの名前をマリー・ルイーズと変えさせます。
また、結婚前こそナポレオンに対して憎悪を抱いていたマリア・ルイーザですが、ナポレオンがとても優しかったこともあり、ナポレオンと時間を過ごすうちにマリア・ルイーザは、ナポレオンに心を開き、愛するようになっていったと言われます。
そして、ナポレオンの望み通り、1811年、二人の間に男の子が生まれました。
(出典:wikipedia)
ナポレオンはこの息子に、ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルトと名付けました(後のナポレオン2世でローマ王)。
ナポレオンとマリア・ルイーザの別れ
1813年、妻がオーストリア皇帝の娘であるにもかかわらず、オーストリアはナポレオンに戦争を宣言しました。
当時は、ナポレオンが率いるフランス帝国の覇権に挑戦するために、「対仏大同盟」と呼ばれるヨーロッパ諸国の対フランス同盟が築かれていました。
そして1814年3月、イギリス、プロイセン、スウェーデン、オーストリアの連合軍によってパリが陥落すると、ナポレオンは退位させられてエルバ島へ島流しにされてしまいます。
この事件の後、ナポレオンの2番目の妻マリー・ルイーズは、息子を連れてオーストリアの父のもとへ戻り、その後生涯に渡ってナポレオンと会うことはありませんでした。
オーストリアの将軍伯爵フォン・ナイペルクとの新たな生活
エルバ島へ追放されてから10ヶ月後の1815年2月、ナポレオンはフランスへ戻って復権しますが、再び対仏大同盟が組まれ、復権から3ヶ月後にワーテルローの戦いが勃発。
1815年6月にナポレオンは同盟の前に敗北を喫し、南大西洋のセントヘレナ島へ島流しにされました。
この知らせを聞いたマリア・ルイーザは、自らも新しい人生を始めるため、1816年頃からオーストリアの将軍で伯爵だったフォン・ナイペルクとの関係を始め、1817年5月には娘アルベルティーナを秘密裏に出産。
1819年には二番目の子供をまた秘密裏に出産します。
そして、1821年5月5日にナポレオンがセント・ヘレナで亡くなったことを知ったマリア・ルイーザは、翌年の1822年9月にナイペルク伯爵と正式に結婚し、二人は4人の子供を授かり、この結婚生活はナイペルク伯が亡くなる1829年2月まで続きました。
それから月日が経った1934年2月、マリア・ルイーザはシャルル・ルネ・ド・ボンベルという男性と結婚し、1847年12月7日にその生涯を閉じています。
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ナポレオンの妻と女達|ジョゼフィーヌと二人のマリアの生涯の話のまとめ
フランスの歴史上に突如として現れた軍事的天才で英雄のナポレオン・ボナパルトが、生涯の中で愛した二人の妻と一人の愛人について見てきました。
これら三人の女性達は、ナポレオンについて理解する上では無視できない存在だと言えるでしょう。