インティファーダとは何をさすのでしょうか?イスラム圏での抵抗運動を指す言葉として度々使われる、「インティファーダ」について詳しく解説していきます。
インティファーダという言葉を知っていますか?
この言葉は国際関係や世界史を勉強する上で遭遇する言葉で、稀に世界のニュースなどにも登場します。
最近では2018年5月にアメリカ大統領のドラルド・トランプが、「アメリカ政府はエルサレムをイスラエルの首都として認め、在イスラエル米大使館をテルアビブからエルサレムへ移転する」と発表した結果、イスラム原理主義組織ハマスの指導者が「第3次インティファーダ」を呼びかけたことで注目されました。
「インティファーダ」とは一体どういった意味を持ち、どのような出来事を指すのでしょうか?
この記事では、インティファーダとは何かを具体的な例を出しながらわかりやすく解説していきます。
インティファーダとは?
インティファーダとは、アラビア語で「振る」または「振り落とす」という意味を持つ概念で、「隆起」や「反乱」を意味し、一般的には「イスラエルに対する蜂起」を意味するもの。
ただし、場合によっては、
- より狭義の意味として
- イスラエルの占領地に住むパレスチナ住民達によって組織された占領支配へ抵抗する運動またはパレスチナ解放運動
- より広義の意味として
- イスラム圏で起こる抵抗運動(イスラム教徒によるキリスト教国支配への抵抗運動や、民主主義を求めたり政治腐敗に対する抵抗運動など)
を、それぞれ意味することもあります。
ただし、日本においては、より狭義の意味である「イスラエルの占領地に住むパレスチナ住民達によって組織された占領支配へ抵抗する運動」を指して使われることがほとんどです。
また、近現代において一般的なインティファーダの概念自体は20世紀半ば頃から確認出来ますが、より狭義の意味としてのインティファーダに当てはまる「第1次インティファーダ」と「第2次インティファーダ」と呼ばれる事件は、インティファーダの具体的な例としてよく取り上げられます。
第一次・第二次インティファーダ
ここからは、狭義の意味でのインティファーダの具体例として知られる、2つの歴史的出来事について見ていきましょう。
第1次インティファーダ(1987年)
第1次インティファーダは1987年、現在のパレスチナ国(パレスチナ自治政府)の行政区画である「ガザ地区」の検問所において始まったインティファーダです。
同年12月8日、イスラエル国防軍のトラックとパレスチナ人のバンが起こした衝突事故によって4人のパレスチナ人が死亡。
12月9日には、これに対して抗議活動をしていたパレスチナ人に対しイスラエル軍兵士が発砲し、その中で17歳の若者が銃殺されてしまいました。
このことが引き金となり、抗議活動は加速度的にヨルダン川西岸地区や東イスラエルにも広がり、第1次インティファーダと呼ばれる抵抗運動が開始。
この運動の中では若者が中止となり、イスラエル軍の拠点をゴミのバリケードで囲ったり、軍用車のタイヤを燃やしたり投石を行ったりしました。
一方で、イスラエル軍は殺傷能力の高い武器を用いて取り締まりを行いました。
この抵抗運動の結果、イスラエル政府とパレスチナ解放機構(PLO:イスラエル支配下にあるパレスチナを解放することを目的とした諸機構の統合機関)は、1993年8月にオスロ合意を調印。
これにより、パレスチナ自治政府が設立され、イスラエルがヨルダン川西岸地区(ウエストバンク)から撤退した1993年、第1次インティファーダは終結しました。
第2次インティファーダ(2000年)
第2次インティファーダは、2001年から2006年までイスラエルの首相を務めたアリエル・シャロンが2000年9月、ユダヤ教徒にとっては神殿の丘、イスラム教徒にとってハラム・シャリーフ(高貴なる聖域)と呼ばれる聖域を訪れたことにより始まりました。
パレスチナ側から多くの反対の声があったにも関わらず、シャロン首相は警護にあたる1000人の武装警官と共にこの場を訪れたのです。
結果、パレスチナ人の多くは、ウマイヤ朝時代に創建されたイスラム教徒にとっては重要な寺院「アル=アクサー・モスク」があるこの聖地を、イスラエル側が回復しようと準備しているのではないかと恐れました。
シャロン首相の訪問から2日後、ガザ地区でイスラエル軍とパレスチナ人との間に銃撃戦が勃発。
当時12歳だった少年が巻き込まれて殺害された一件により、パレスチナ人達の怒りがさらに高まり、第2次インティファーダと呼ばれる大きな抵抗運動となっていったのです。
ちなみに、第2次インティファーダはハマス(イスラーム主義を掲げるパレスチナの政党)によって主導され、銃撃や自爆行為をはじめとする致死的な暴力行為が特徴で、また、アル=アクサー・モスクをきっかけにして始まったことから「アル=アクサー・インティファーダ」とも呼ばれます。
この第2次インティファーダは、当時のパレスチナ自治政府大統領であり、パレスチナ解放運動の指導者であったヤーセル・アラファトが2004年11月に死去してから数か月後、終結しました。
インティファーダと称される事件一覧
狭義の意味でのインティファーダの具体例としてよく挙げられる、第1次インティファーダと第2次インティファーダについて見てきましたが、より広義の意味まで含まれば、インティファーダと呼ばれる歴史的な出来事は他にもたくさん存在します。
以下では、解釈を拡大した場合のインティファーダと呼ばれる出来事を一覧として紹介しておきます。
- イラクのインティファーダ
- 1952年にハーシム家による王国支配に対抗して起こった一連のストライキや暴動
- 1964年10月革命
- 1964年、スーダンのアッブード軍事政権の崩壊と二度目の民衆の手による統治の始まりで終結した一連のストライキ、暴動、デモ行為
- 3月インティファーダ
- 1965年3月、バーレーンでイギリスの植民地支配に対抗して発生した急進左派の暴動
- ゼムラ蜂起
- 1970年6月、当時のスペイン領サハラで起こったスペインの植民地支配に対抗して発生したインティファーダ
- レバノン内戦
- レバノン内戦中に発生した2月6日インティファーダ(1984年)
- 2005年のラフィーク・ハリーリー暗殺事件後、レバノンで発生した杉の革命「独立のためのインティファーダ」
- イスラエル・パレスチナ紛争
- 第1次インティファーダ:1987年12月から1993年まで続いたイスラエル支配に対抗して発生したパレスチナ人による蜂起
- 第2次インティファーダ(アル=アクサ・インティファーダ):2000年9月末から2005年ごろまでのイスラエル・パレスチナ紛争が激化した期間
- 2014年エルサレム騒乱:「インティファーダ」とよばれることもある2014年にエルサレムで発生した一連の暴力行為や攻撃
- イスラエル・パレスチナ紛争(2015年):2015年のイスラエル・パレスチナ紛争の激化、「アル・クドゥスのインティファーダ」、「エルサレムのインティファーダ」、「ナイフのインティファーダ」とよばれることもある
- 1990年代のバーレーン蜂起
- 民主政権による支配回復を要求した蜂起で「1990年代のインティファーダ」としても知られる
- 1991年のイラク蜂起
- サッダーム・フセイン政権に対抗して発生した武装蜂起で「1991年のイラクインティファーダ」としても知られる
- 西サハラ紛争
- 第1次サハラインティファーダ:モロッコの南、西サハラで発生したサハラ人活動家による抗議行為(1999年~2004年)
- 第2次サハラインティファーダ:2005年5月に始まった、モロッコの南、西サハラのデモ行為や暴動
- 第3次サハラインティファーダ:グデイム・イジク抗議とも呼ばれる
- 2005年フランス暴動
- 「フランスインティファーダ」とよばれることも多い
- アラブの春
- 2010年12月18日、チュニジアで始まった革命の波で「インティファーダ」とよばれることもある
- 2018年~2019年アラブ抗議行動
- 2019年レバノン抗議行動:政府が導入を試みたSNSでの会話に対する新規課税に対する抗議・反対運動のため、タックスインティファーダとも呼ばれる
- 2019年10月イラク抗議行動:政治不信によって起きた抗議活動で別名イラクインティファーダと呼ばれる
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インティファーダとは?わかりやすくイスラム圏での抵抗運動を解説のまとめ
世界情勢を知る上で度々登場する「インティファーダ」という言葉の意味について、具体的な歴史的出来事を挙げながらわかりやすく解説してきました。
狭義の意味ではイスラエルの支配下にあるパレスチナ人達による抵抗運動を指し、広義の意味ではイスラム圏で起こる様々な抵抗運動までを含める「インティファーダ」は、国際情勢を理解する上では確実に理解しておきたい言葉でしょう。