スレイマン1世|オスマン帝国最盛期の皇帝でスレイマン大帝として知られる名君

オスマン帝国を最盛期に導いた当時の皇帝、スレイマン1世(スレイマン大帝)について詳しく見ていきます。彼の生涯やその他にも知っておきたい知識などを確認していきましょう。

スレイマン1世(スレイマン大帝)は26歳で王位を継承し、1520年から1566年まで46年もの間、オスマン帝国の皇帝として君臨した人物です。

そして彼の統治時代にオスマン帝国がその歴史上で最も栄えたことから、後世においては「壮麗帝スレイマン1世」や「立法帝スレイマン1世」としても知られています。

この記事では、そんなスレイマン1世について詳しく見ていこうと思います。

まずスレイマン1世に関しての基本的なまとめから始め、その後にスレイマン1世の生涯に関するダイジェスト、そして、3つの知っておきたい知識を紹介していきます。

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スレイマン1世(スレイマン大帝)とは?

スレイマン1世とは、当時のオスマン帝国(オスマントルコ)の最盛期(16世紀中頃)に、オスマン帝国第10代スルタン(皇帝)となった人物。

(出典:wikipedia

1520年9月30日にスルタンの座につき、1566年9月6日または7日に、ハンガリーのシゲトヴァール近郊で死亡するまで、およそ46年間もの間オスマントルコを統治し、その間に13回もの大胆な対外遠征を行って領土を拡大させた名君

具体的には、スレイマン1世の在位中に、オスマン帝国の領土はそれ以前と比べておよそ2倍に拡大したのです。

またそれだけでなく、後世において最もオスマン帝国らしいと評される法律、文学、芸術、建築などを発展・整備してオスマン帝国を最盛期に導いたことから「壮麗帝」や「立法帝」としても知られ、他にも「オスマン大帝」と呼ばれることがあります。

スレイマン1世(スレイマン大帝)の生涯を駆け足で見ていこう

スレイマン1世はスルタン即位から6年でいくつもの外征を成功させる

スレイマン1世は、オスマン帝国の9代目スルタン「セリム1世」の唯一の男児として生まれ、1520年に父の後を継いで第10代目スルタンとなります。

そして、スルタンとなると同時に、オスマン帝国軍を率いて積極的に中央ヨーロッパと地中海のキリスト教勢力に対する遠征を開始するようになり、

  • 1521年にハンガリー王国からベオグラードを奪い取る
  • 1522から1523にロドス島を奪う
    • ロドス島はらく聖ヨハネ騎士団の統治下にあった
  • 1526年8月にモハーチの戦いでハンガリー軍を破る
    • ハンガリー王ラヨシュ2世はこの戦いで敗死した

など、スルタンに即位してから6年間で、目を見張る軍事的功績を立て続け、オスマン帝国最盛期につながる礎を築きます。

中央ヨーロッパのハンガリー王国へ影響力を広げることに成功する

傀儡をハンガリーの王として立てようとするが失敗

ハンガリー王国は、当時の中央ヨーロッパに比較的大きな領土を有するヨーロッパの中でも有力な王国でした。

しかし、1526年のモハーチの戦いの結果、このハンガリー王国の王座が空位になってしまいます

そこでスレイマン1世は、ハンガリー王国の間接統治を目的として、トランシルヴァニアの領主「サポヤイ・ヤーノシュ」を王に推薦します。

これは、当時のトランシルヴァニアはオスマン帝国に服属していたため、傀儡であるヤーノシュを通してオスマン帝国がハンガリー王国を統治出来ると考えたからです。

サポヤイ・ヤーノシュ出典:wikipedia

これに対して、ウィーンのハプスブルク家出身で当時のオーストリア大公であったフェルディナント1世(後の申請ローマ帝国ローマ皇帝)」がハンガリー王の継承を宣言します。

その結果、ハンガリー王と名乗る人物が、

  • フェルディナント1世
    • 他のヨーロッパの国によっても正式な王と認められた
  • サポヤイ・ヤーノシュ
    • 他のヨーロッパの国から正式な王とは認められない対立王となった

の二人が存在する状況が生まれたのです。

これに対してスレイマン1世は、ハプスブルク家を排除してヤーノシュを唯一のハンガリー王と認めさせるため、1529年に第一次ウィーン包囲を行いました。

しかしキリスト教軍の抵抗だけでなく、長期化、距離、悪天候、補給の欠如などが重なり包囲は失敗してしまいます。

ちなみに、スレマン1世はオーストリアへ向けて1532年に二度目の大遠征を行いましたが、オーストリアの辺境地域に進出しただけで終わりました。

これは、当時のスレイマン1世には東方遠征という重要事項があったことと、オーストリアを一度の戦いで打ち破ることはできないと考えたため、1533年にフェルディナント1世と休戦条約を結ぶことに方向転換したのが理由です。

実質的な意味ではスレイマン1世のオスマン帝国が勝利した

一方で、ハンガリーを攻めてヤノーシュを王へ即位させようとした努力は、実質的な意味でオスマン帝国の勝利だったと言えるでしょう。

と言うのも、サポヤイ・ヤノーシュはハンガリー貴族をまとめるリーダシップが非常に強かったらしく、ハンガリーの貴族たちの大多数が対立王であるヤノーシュ側へ付き、正当な王であるフェルディナント1世に付いたのはわずかな貴族しかつかなかったとされるから。

(出典:wikipedia

その結果、ハンガリー王国領の大部分がヤノーシュ側によって実行支配され、1540年にヤノーシュが亡くなってからは息子のヤーノシュ・ジグモンドが継いだことで、ハンガリーでは150年ほど以下のような分割統治が続いていきます。

  1. 王領ハンガリー
    1. 元のハンガリー王国の北部と西部のごく一部をハプスブルグ家が支配
  2. 東ハンガリー王国(後のトランスヴァニア公国)
    1. ブダ(ハンガリーの首都ブダペストの西側部分)とハンガリー中央部を支配
    2. ヤノーシュ側が支配していたためオスマン帝国の間接的な領土とも言える
  3. オスマン帝国領ハンガリー
    1. 上記以外の元ハンガリー王国の領土

このように、ハプスブルク家側を落としてヤーノシュをハンガリー王国の唯一の王とすることは叶わなかったものの、オスマン帝国は実質的にハンガリーの大部分に勢力を広げる結果となり、当時のヨーロッパへ強烈な衝撃を与えたのです。

東方遠征(対ペルシア遠征)

またスレイマン1世は当時のペルシア(サファヴィー朝:オスマン帝国にとっては驚異の存在だった)に対して、3回の大規模な遠征を行いました。

(サファヴィー朝の旗)

第一回遠征(1534〜35)の結果、オスマン帝国は小アジア東部のエルズルム地方を支配下に置き、さらにイラク征服に成功します。

第二回遠征(1548〜49)では、ヴァン湖(現在のトルコ東側にある湖)周辺地域のほとんどがオスマン帝国の支配下に入りました。

しかし、第三回遠征(1554〜55)は、どちらかといえばサファヴィー朝ペルシアを征服することの難しさを知らしめるものとなりました。

結果、オスマン帝国とサファヴィー朝の間でアマスィヤの講話が行われ、初めての和平協定が1555年に結ばれて国境線が決められましたが、オスマン帝国の東部辺境に関する問題の具体的な解決とはなりませんでした。

地中海や北アフリカにも攻め入ったスレイマン1世

一方、オスマン帝国海軍はスレイマン1世の治世の下で、当時のヨーロッパ人たちから「バルバロス」と言われて恐れられた「バルバロス・ハイレッディン」を提督に据え、世界最強と言っても良い存在となります。

その結果、1538年に起きたギリシャの「プレヴェザ沖の海戦」で、ヴェベツィアとスペインの連合艦隊に勝利し、地中海の制海権は1571年のレパントの海戦までオスマン帝国のものとなります

また、北アフリカに侵攻したオスマン帝国によって、トリポリ(現在はリビアの首都)は1551年に征服されました。

一方で、1565年に聖ヨハネ騎士団が守るマルタ島を攻略出来ないで失敗するなど、遠征が毎回上手くいったわけでなかったのも事実です。

晩年は息子たちの抗争に悩まされた

非常に多くの武勲を上げてきたスレイマン1世ですが、晩年には家庭内の問題で幾度となく悩まされていきます。

その問題とはスレイマン1世の後継を狙った息子たちの抗争

そのなかで、1553年には長男のムスタファが小アジア起こった政府に対する離反の中心になったとして、スルタンの命で処刑されます。

続いて1559年から1561年にかけて、二人の息子セリムとバヤズィトの間で後継者争いが起きた際には、バヤズィトが争いに負けて処刑されるなど、晩年におけるスレイマン1世の家庭事情は決して良くありませんでした。

そして、1566年に王領ハンガリーのフェルディナント1世の後継者マクシミリアン2世が和睦を破ってオスマン帝国側のハンガリー領を攻撃したため、スルタン1世は人生で最後となる王領ハンガリーに向かって遠征し、シゲトヴァール包囲戦を展開しているなかで9月6日または7日に病死してしまいます。

その後、シゲトヴァール包囲戦は結局オスマン軍側が勝ち、また、スルタンは後継者争いで最後まで残った息子のセリム2世が継ぐことになりました。

スレイマン1世(スレイマン大帝)をもっと深く知るための興味深い3つの話

スレイマン1世の生涯を駆け足で見てきましたが、オスマン帝国を最盛期に導いたこの名君をもっと良く知るためにも、次の3つのことも知っておきましょう。

皇帝は国内においても優れた業績を残した

外旋や領土拡大が注目されるスレイマン1世ですが、国内政治においても優れた手腕を発揮した皇帝である点が、スレイマン1世が他の多くの名君と異なる点。

スレイマン1世は人の強みを見極める能力が非常に高かったと考えられ、臣下に極めて有能な行政官や政治家を配したとされます。

その代表が大宰相であるイブラヒム・パシャ、リュステム・パシャ、ソコルル・メフメト・パシャなど。

彼ら有能な部下や、その分野に関して優れた能力を有する専門家の協力によって、スレイマン1世は、

ノートテキスト

  • キリスト教徒から奪った土地に堅牢な要塞を建築
  • モスク、橋、水道橋の建築と整備
  • その他の公共事業の実施
  • 法律や帝国の制度の整備
  • 文学・芸術を推進

などを行っていき、帝国の領土拡大だけでなく国内の発展という点においてもオスマン帝国を当時の世界における最高水準にまで導いたのです。

また、スレイマン1世はそれまでのビザンチン(東ローマ帝国)様式の都市コンスタンチノープルをイスタンブールへと造り替え、偉大なトルコそしてイスラム教帝国の首都の中心として相応しい都市の礎を築いた人物だとも言えるのです。

皇帝スレイマン1世の壮麗なる遺産

皇帝スレイマン1世が亡くなった時、オスマン帝国は世界で最も強大な国の1つになっていました。

スレイマン1世の遠征により、

  • イスラム教の主要な都市
    • メッカ、メディナ、エルサレム、ダマスカス、カイロ、バグダットの大部分
  • バルカン地方の大部分
  • 中央ヨーロッパの一部
  • 北アフリカの大部分
  • 西アジアの一部

まで領土を拡大したことで、当時のヨーロッパ諸国の力関係的に、オースマントルコ帝国はヨーロッパの地で非常に大きな存在感を持つに至っていたのです。

またその結果、オスマン帝国は1299年から第一次大戦が終了して数年後の1922まで、およそ600年の長期に渡って続いた帝国となったのです。

スレイマン1世と妻のヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)

オスマン帝国の皇帝は伝統的に結婚をしてきませんでしたが、スレイマン1世はその帝国の慣習を破ってロクセラーナという女性と結婚します。

ロクセラーナはロシア人かウクライナ人であったと言われており、スレイマン1世はこの美しい奴隷に恋をして結婚することを決めたのです。

そして当時としては珍しく、25年間もの結婚生活の間、スレイマン1世は一夫一妻制を貫きました

(出典:CAOBO

また、スレイマン1世の妃になった結果、ロクセラーナはオスマン帝国において歴史上最も権力を持ち、影響力のあった女性の1人になったと考えられています。

巨大な権力を得て、夫であるスレイマン1世を通してオスマン帝国の政治に影響を与え、国政に積極的に関与したと言われます。

ちなみに、当時のオスマン帝国を代表する建築家ミマール・スィナンは、長年スレイマン1世に仕え、スレイマン1世と彼の最愛の妻ロクセラーナが永眠する場所として、スレイマニエ・モスクを建築しています。

このスレイマニエ・モスクは、イスタンブールの旧市街にある7つの丘の上にあり、イスタンブールを代表する建築物として有名で、夫婦は礼拝堂の北側の墓地に埋葬されているそうです。

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スレイマン1世|オスマン帝国最盛期の皇帝でスレイマン大帝として知られる名君のまとめ

オスマン帝国を最盛期に導いた名君スレイマン1世について見てきました。

スレイマン1世は、オスマン帝国の前皇帝であるセリム1世にとっては唯一の男子であったため、苦労することなくオスマン帝国皇帝の座につきました。

そのことが逆に、皇帝としての肩書きと実力を周囲に証明するために、若き皇帝のスレイマン1世を駆り立てたのかもしれません。

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