グラスノスチ|情報公開の意味でゴルバチョフペレストロイカの一貫

グラスノスチは「情報公開」を意味する言葉で、ゴルバチョフ政権下においてペレストロイカと一緒に推し進められた改革政策の一つです。

ソビエト連邦(ソ連)末期に誕生したゴルバチョフ政権は、ペレストロイカとグラスノスチという2つの主な改革政策を推し進めていきました。

中でもグラスノスチは、それまで抑圧されていた人々の声を大きくし、ソ連国内が民主化に向かう流れを加速させた政策でした。

そのため、民主主義のイデオロギーを持つ西側諸国からは評価が高い政策であった一方、ソ連崩壊を招いた元凶の一つとして、社会主義を主張していた人々や、当時ソ連国内にいた人々からは批判されることがあります。

そんなグラスノスチについて詳しく見ていきたいと思います。

まずは、その意味を明確にすることから始め、グラスノスチが採用された経緯、そしてグラスノスチ下で起こったソ連国内の変化の具体例までを確認していきましょう。

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グラスノスチの意味

グラスノスチ(glasnost)とは一般的に、ソビエト連邦末期のゴルバチョフ政権下で実施された改革「ペレストロイカ」に伴って展開された改革のこと。

低迷したソ連経済を立て直すために必要な政治体制の再建(再構築)を目指した「ペレストロイカ」を推し進めるに当たっては、

  • 言論
  • 思想
  • 集会
  • 出版
  • 報道

などを自由に、そして活発に行える環境を整えると同時に、それまでのソ連で抑圧されていた改革派の知識人や学者も巻き込む必要があったために、「情報公開」の意味を持つ「グラスノスチ」が提唱され、実際に政策として取り入れられたのです。

(豆知識)歴史に見るグラスノスチの意味

一方で、グラスノスチ(гласность)という言葉は、ゴルバチョフ政権下で初めて使われた言葉ではなく、少なくとも18世紀の後半からロシアで用いられていた言葉だと考えられます。

例えば、19世紀後半のロシア帝国において、この言葉はしばしば、

  • 記者や一般人が裁判を傍聴することが出来るようにする
  • 判決が公に読み渡されるようにしたりする

といった司法制度の改革を指すために用いられました

また、グラスノスチという言葉は、ロシア帝国の最も古い辞書や法律文書にも記載され、一般的でよく使われる言葉であり、政治や司法が公にオープンな形で執り行われることを指す言葉でした。

そのため、グラスノスチは「開放性」または「透明性」といった意味を含む言葉として、ソ連以前から使われてきたと言えるのです。

そして1980年半ばになると、ミハイル・ゴルバチョフがソ連の政治の透明化を指すスローガンとして「グラスノスチ」を用い、この言葉は世界中で有名になったというわけです。

グラスノスチがゴルバチョフのソ連に採用された経緯

グラスノスチと反体制派

1965年12月5日、ソ連の市民権運動の先駆けと知られる重要な出来事がモスクワで起こります。

「グラスノスチ・ミーティング(Glasnost Meeting)」として知られるこの運動は、ユーリー・ダニエルとアンドレイ・シニャヴスキー(両者ともロシアの作家でソ連を中傷する作品を海外で出版したとして逮捕された)の裁判の公開を求める数百人もの抗議者が、アレクサンドル・エセーニン=ヴォルピン(数学者で人権活動家)の主導のもと、プーシキン広場に集まったことが発端となりました。

この集会で人々は狭い意味でのグラスノスチ(一般傍聴者、プライベートオブザーバー、海外記者が裁判を傍聴できるようにすること)を求めたのです。

新しく発行された刑事訴訟法の第111条は、いくつかの例外を除いて「ソ連におけるいかなる裁判、または尋問は公に行われるべきである」と規定していましたが、実際には一般人が裁判に参加するのは大変難しいことでした。

このように、司法の秘密主義に対する抗議運動は、スターリン後の時代に非常に多く見られました。

例えば、アンドレイ・サハロフ(物理学者で政治家で人権活動)が、1976年に行われた、当時の著名な人権活動家であったセルゲイ・コバレフの裁判へアクセスを求める抗議運動に参加するために、ノーベル平和賞の授賞式を欠席したのは有名な話です。

ソ連が直面していた経済の構造的弱さ

一方、ゴルバチョフがソ連の最高指導者に上り詰める1980年代以前の1970年代から、ソ連経済の構造的な弱さが問題になっており、特に政治的・イデオロギー的な対立関係にあった西側諸国との経済力の差は非常に大きくなっていました。

ソ連経済の特徴として、

  1. 生産性よりも総生産高に対して報酬を与えた
  2. 政府の中枢が計画を握っていた
  3. 生産技術や生産管理を改善する意欲を削ぐ仕組みになっていた

という3点を挙げることが出来、さらに、

  • 需要と供給のバランスによって市場が働くのではなく
  • 中央政権が何を生産し、いくらで販売するかを決めていた

という状況が起こっていたため、経済の発展を阻害し、経済成長が思うように起こらなくなってしまっていたのです。

ペレストロイカに併せてグラスノスチを実施

そこで、ミハイル・ゴルバチョフが1985年に共産党書記長に就任すると、この経済状態を建て直すための改革「ペレストロイカ」を提唱します。

しかし、

  1. 当時のソ連ではセクショナリズム(注)や秘密主義によって、ペレストロイカを推し進めるにあたって鍵となる、国家運営に携わる各機関が硬直していた
  2. そして、自由主義を取り入れるペレストロイカでは、社会主義的イデオロギーに縛られることのない発想が必要だったため、抑圧されてきた改革派の知識層を巻き込む必要があった

ことから、ソ連の政治組織や政治活動の開放性と透明化を目指す」グラスノスチも併せて提唱していくことになります。

また、ゴルバチョフは市民による政治の監視、指導者の批判、そしてメディアによるある程度の情報公開を奨励していきました。

特に、1986年4月に起きたチェルノブイリ原発事故の際、硬直した体制のせいで最高指導者の立場にいたゴルバチョフにいつまでも事故の様子が報告されず、最悪の結果を招いてしまった後悔から、グラスノスチは本格的に推し進められていくとになったのです。

(注釈)セクショナリズムとは同じ組織でありながら各部署が協力し合うことなく、自分たちが保持する権限や利害にこだわり、他の部署からの干渉を排除しようとする排他的主義または態度

グラスノスチ下でのソ連の変化

グラスノスチが推し進められた結果、出版前、放送前の検閲は減少し、情報の自由化が大幅に進展し、今まで検閲されていた文書や書物が図書館や本屋で手に入るようになりました。

また、グラスノスチのおかげで、ソ連と西側諸国、特にアメリカとの接触が大幅に増加。

アメリカと西欧諸国の商品や生活の質の高さに関する情報がソ連国内へ入ってくるようになり、また西側のポップカルチャーも輸入されるようになりました。

加えて、旅行の制限が緩められ、ビジネス面・文化面での交流も増加したのです。

一方で、この状況は同時に、今までソ連の強権によって抑圧されていた表現の自由や自由な討論を盛んにしていきます

その結果、ソ連体制に批判的な意見を述べるものも多くなり、スターリン時代のソ連政治は再検討され始めます

また、このことはソ連の中央集権的なコントロールが効かない状況を生み出し始め、それと同時に経済を良くするために採用したペレストロイカが機能せず、逆にソ連経済を逼迫した状況に追いやってしまったのです。

ソ連崩壊

そのような流れの中で、1980年代後半には東ヨーロッパ各国で共産主義体制の転覆が起こり、またソ連から独立する国々が現れます。

そして、ソ連内部ではグラスノスチによって自由な討論が行われていった結果、民衆が自らの権利を主張する民主化の流れが生まれ、ゴルバチョフが1991年12月25日に共産党の指導者を辞任すると同時に、ソ連も崩壊することになりました。

このように、グラスノスチはソ連崩壊を招いた元凶の一つでもあるのです。

グラスノスチが採用されたソ連の状況を具体的に見てみよう

最後に、グラスノスチが実施されたソ連で起きた「情報の自由化」に関して、どのような変化が起こったのか、いくつか具体例を挙げておきましょう。

言論の自由の具体例

過去、ロシアとソ連において検閲は何世紀にも渡り、生活の一部だったと言っても良いでしょう。

1917年、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世が退いた3月から、ボリシェヴィキ(後の共産党)が力を持った10月までの間、短いながらも検閲がほとんど無くなった時期がありましたが、それ以降のソ連時代には再び厳しい情報統制が行われます。

しかし、グラスノスチの採用された1986年には、それまで電波妨害によてソ連国内では聞けなかったイギリスのBBC放送が聴けるようになったのです。

また1988年には、それまでは合法的に出版されることはあり得なかった作品、例えば、

  • 収容所群島(著:アレクサンダー・ソルジェニーツィン)
    • ソ連における、反革命分子とみなされた人々に対しての強制収容所への投獄、凄惨な拷問、強制労働、処刑の実態を告発する文学的作品
  • ドクトル・ジバゴ(著:ボリス・パステルナーク)
    • 戦争と革命と愛を描くと同時に、ロシア革命を批判する文学作品

などが本屋に出回ることになります。

このように、グラスノスチやペレストロイカが推し進められた時代は、ロシアにおける「文化爆発」とも称されることがあるのです。

西洋文化の広がりの具体例

グラスノスチの前、ソビエトの一般人が西洋文化に触れる機会はかなり限られていました。

例えば、ゴルバチョフ以前のソ連下で西洋音楽を見聞きしたい場合は、「検閲をクリアした」音楽にのみ限られていたのです。

しかし、ゴルバチョフがグラスノスチを本格的に実践していくようになると、イギリスやドイツ、そしてアメリカで流行っていた音楽を簡単に聴けるようになります。

また、テレビやラジオだけでなく、西洋から音楽バンドが訪れてコンサートが開かれることもありました。

例を挙げると、1989年8月12日に開催された「モスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバル」にて、「ボン・ジョヴィ」や「モトリー・クルー」などがモスクワのファンたちから熱烈に歓迎されています。

他にも、本屋には翻訳された西洋のベストセラー作品が並び、また、映画館ではアメリカの映画が上映されるようになったのです。

ちなみに、この西洋のポップカルチャーは、これ以降のソビエト、そしてソビエトが崩壊してからのロシアでも定着していきます。

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グラスノスチ|情報公開の意味でゴルバチョフペレストロイカの一貫のまとめ

ソビエト末期にソ連国内を改革するために実施されたグラスノスチについて見てきました。

グラスノスチによって、ソ連国内では民主化の動きが加速し、それによってソ連は崩壊。その後にロシア連邦が生まれたのです。

そのロシア連邦では、1993年に発行されたロシア連邦憲法の第29条において、あからさまな検閲を禁止していますが、実際はロシア連邦になってからも秘密裏に検閲が続いていると言われる状況が続いています。

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