ソ連崩壊|原因と崩壊後までをわかりやすくまとめて解説

ソ連崩壊について原因や崩壊後の出来事までをわかりやすくまとめて解説していきます。国際情勢へ大きな影響を与えた歴史的な出来事について理解を深めましょう。

1991年の冬、それまで世界の超大国として大きな影響力を持っていたソ連が崩壊するという事件が起き、世界中に衝撃を与えました。

この出来事は、2つの勢力が世界を分けたそれまでのパワーバランスを大きく変え、また、世界の外交戦略が、軍事的なものから現在の国際情勢で重要視される経済的なものへよりシフトした、大きなきっかけとなったものでした。

では、そのソ連崩壊は何が原因となって起こったのでしょうか?

また、ソ連崩壊後にはどのような出来事が起こったのでしょうか?

この記事では「ソ連崩壊とは何か」を定義した後、歴史を追いながら原因を明確にし、最後には崩壊後に起きた3つの大きな出来事について紹介していこうと思います。

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ソ連崩壊とは何だったのか?

ソ連崩壊とは、1922年にユーラシア大陸に建国された共和制国家であった社会主義共和国連邦(ソ連)が、1991年12月25日、当時の最高指導者であったミハイル・ゴルバチョフが辞任すると同時に解体された出来事

または、1980年代後半から実際の解体までに起こった一連の流れのこと。

このソ連の崩壊後、

  • CISの誕生
    • CISは独立国家共同体のことで、ソ連を構成していた15ヵ国のうちバルト3国を除く12ヵ国による緩やかな国家連合体が誕生した
  • ロシア連邦の誕生
    • ロシアはソビエトをロシア帝国の後継国家と捉えており、ソ連崩壊後にも大部分の地域を国土とし、ロシア連邦(CISの一つ)が誕生した
  • 超大国としてのアメリカ単独覇権の時代が始まった

といったことにつながる歴史的な事件でした。

ソ連崩壊の特徴

歴史の中で帝国が崩壊する際や、社会構造に大きな変化が起こる時は、しばしば激しい暴力が伴なうことに気づきます。

例えば、かつて栄華を極めたローマ帝国が衰退して行った時、ゲルマン系の民族によって幾度もの占領を経験したり、最近の例で言うと、1940年代、ホロコーストを終わらせてベルリンに君臨していた独裁者アドルフ・ヒトラーを倒すために、何百万もの連合軍兵士が犠牲になりました。

一方、1980年代後半から1999年代前半にかけてソ連が衰退して崩壊するまでの期間は平和なものだったと言えます。

唯一1991年8月19日に8月クーデターが起こったものの失敗に終わり、結局は平和なうちにソ連は崩壊したのです。

何十年もアメリカと核戦争の危機にあった大国ソビエト連邦の崩壊が比較的平和な形で起こったのは、驚くべきことだと言えるでしょう。

ソ連崩壊の原因とは何か?歴史のダイジェストを追って確認していこう

では、ソ連の崩壊を招いた原因とは何だったのでしょうか?

ソ連の歴史を簡単なダイジェストに変えて追いながら、その原因について理解していこうと思います。

スターリン後のソ連

上述したように、ソ連の解体は歴史的に見てもとても平和に行われましたが、それまでのソ連の歴史は暴力に満ちたものでした。

1920年代半ばから死去する1952年まで、ソ連共産党の指導者であったヨシフ・スターリンが恐怖政治を敷いたのです。

何百万もの外国人、右翼系活動家、政敵、そして多くの罪のない人々が逮捕・追放され、その中の多くは然るべき手続きもなしに処刑され、またソ連の辺境にある強制労働収容所に送られました。

スターリンの死後、ソ連の共産党は、

  1. 「脱スターリン化」を掲げて、スターリン下で作られた軍事組織や刑務所などを解体
  2. スターリンの敷いた厳しい規制も若干緩める

といった取り組みを行います。

しかし、ソビエト連邦は相変わらず、

  • 経済の全てと、国民の日常生活のほとんどを管理下に置く
  • 世界に共産主義を広める活動を行う
  • ソ連の従属国に対して厳しい統制と支配を取る
    • 例)1968年、チェコスロバキアで検閲や個人経済に関する規制を弱める政治運動が勃発すると、ソ連はこれを軍隊を用いて暴力的に鎮圧している

といった姿勢を続けていったのです。

さらにソ連は、最大の敵であった資本主義国アメリカとの軍拡競争に、多額の資金を費やすようになります。

宇宙に人工衛星を打ち上げたり、原子爆弾搭載可能な大陸間弾道ミサイルをいくつも開発したりと、アメリカに対する科学的・軍事的優位を確立するために、非常に巨額の予算を注ぎ込むようになっていたのです。

ミハイル・ゴルバチョフの登場とソ連崩壊の直接的原因となったグラスノスチとペレストロイカの断行

このようなソ連の状況下で、ミハイル・ゴルバチョフが1985年、最高指導者の椅子に座ります。

但しそれは、ゴルバチョフにとって様々な困難が待ち受けているという意味でした。

軍産共同体の構築に多額の資金を費やしたため、政府や経済など他のセクターの活動が停滞し、また、ソ連中央政府による厳しい管理体制下で生じた深刻な経済的失敗が、次々と明らかになっていきます。

一方で、ソ連の政治を形作っていた秘密主義的な雰囲気、そして厳しい階層的な組織のせいで、政府を大幅に改革することは非常に難しいことだったのです。

その結果、ゴルバチョフは、現在の経済と政治の体制のままではソ連を維持することは不可能であると痛感。

ソ連を救済して力を取り戻させるために、いくつかの改革を実行することとなり、その改革のうち後世に名前が残るほど大きなものとして、また、ソ連崩壊の原因となったものとして有名な、「グラスノスチ」と「ペレストロイカ」を実行したのです。

グラスノスチ

グラスノスチは日本語で「情報公開」などと訳されるもので、この政策によって、スターリン時代とその後の期間にソ連で作られた「政治的自由の障害となる多くの規制撤廃」を実現しました。

また、共産党以外の政党が選挙に出馬することも可能になり(それ以前は共産党以外の政党は存在すら許されていなかった)、政治犯が釈放され、検閲も撤廃されたのです。

また、ソ連国内で自由な思想や発言が可能になり、政治のありかたなどの議論が活発化していきます。

ペレストロイカ

一方でペレストロイカは「改革」や「再構築」と訳されるもので、「政治体制を改革してソ連が直面していた数多くの経済的問題を解決しようとするもの」でした。

これにより、労働者の団結と組合の結成が可能になり、私的な経営を許される人も一握りですが誕生します。

共産主義ソ連の終焉

グラスノスチとペレストロイカは元々、ソビエト救済という目的のもと実行されたものでしたが、結果的には、全体主義的な共産主義を敷いていたソ連の強力な支配が緩められると同時に、経済や国民に対して悪影響を及ぼすことになり、ソ連崩壊の直接的原因となります。

具体的には、

  • 自由な思想や言論が可能になったためにソ連に対して批判的な声が高まった
    • 国内には長年存在していたものの、今までは強権で鎮圧されていた共産党に対する批判的な声が大きくなった
  • ソ連の経済はさらに深刻な状況になってしまった
    • 何十年も中央政府によって管理された経済体制にあったために、新しく出来たソ連の市場は発展が非常に遅く、人々は今までになかったほど深刻な食糧不足を経験することとなった

といった状況が生まれてしまったのです。

結果、80年台後半になると、ソ連の従属国は自治や独立を求めるようになり、1987年、エストニアを筆頭に、リトアニアとラトビアのバルト諸国が続けて独立を宣言。

この運動は中央アジア、東ヨーロッパ、コーカサスの国々にも波及し、今日のカザフスタン、ジョージアウクライナまでもが独立を宣言したのです。

加えて、1989年にはポーランドの労働組合が始めた「連帯」運動によってソ連から独立した自由選挙が行われ、ポーランドはソ連の支配から距離を置いた名ばかりの従属国となり、また、ソ連が支配した東ベルリンと、西側諸国が支配した西ベルリンを分けた「ベルリンの壁」はその年後半に崩壊します。

そして1991年、保守派の共産主義者らによる8月クーデターが失敗に終わると、同年12月25日にゴルバチョフは共産党の指導者を辞任し、ソ連の解体を公式に発表

同時にソ連の解体が行われ、ついにソ連崩壊が起こってしまったのです。

ソ連崩壊の原因とゴルバチョフの関係の裏側

ゴルバチョフによるソ連の経済システムを近代化する試みが失敗したのは先述した通りですが、その原因の一端は、ゴルバチョフが小規模な改革を繰り返すにとどまり、抜本的な経済見直しを実行できなかったことにもあります。

例えば、ゴルバチョフは酒類の製造と販売を停止しようとしましたが、それにより酒類業界では密造酒の製造販売が増加するに至りました。

この他、ゴルバチョフは農民への国有地の貸付を開始し、軍事費を削減。

この経済改革により生活水準が劇的に向上すると宣言し続けていましたが、その公約が実現しなかったため、国民感情はゴルバチョフから離れてしまったのです。

また、1990年9月、ゴルバチョフはロシアの経済学者であり政治家のグリゴリー・ヤブリンスキーが作成した経済改革プログラム「500日計画」を受け入れず、それによりソ連内部の人間からかろうじて受けていた支持を失うこととなり、味方はほとんどいなくなってしまいました

支援者の多くを失ってしまったこと、そして、ゴルバチョフ主導の経済改革はスピード感に欠け、段階的なものであり失敗に終わってしまったことによって、経済改革の成果に成り得たかもしれないプラス要素もすべて否定されることとなり、ソ連経済は完全に崩壊することとなったのです

ソ連崩壊後に起きた大きな3つの出来事

ソ連崩壊は国内の停滞を解決しようとして断行された、グラスノスチとペレストロイカが直接的な原因となって起こったことが分かりました。

では、ソ連が崩壊したことで、ソ連を形成していた国々や世界にはどのような影響があったのでしょうか?

ここからは、ソ連崩壊後に起きた出来事の中でも知っておきたい3つのことについて詳しく見ていきます。

ソ連崩壊後の出来事① 旧ソ連諸国の経済崩壊

1985年、ゴルバチョフが共産党書記長に就任した時、ソ連経済はすでに20年もの間、停滞状態にあり、経済改革の必要性に迫られていました。

ソ連の国民総生産(GNP)は1940年の5.8%から、1970年の2.6%にまで落ち込んでいたのです。

食料品スーパーの陳列棚は空っぽであることも多く、食糧を求める長蛇の列ができていました。

また、ソ連経済は国内に豊富なエネルギー資源と原料調達の基盤を有していたため、歴史的にみて外国貿易への依存度は低く、1985年、ソ連のGNPにおける輸出と輸入の割合は、わずか4%にすぎませんでした。

ソ連はソ連を構成している国々の間で経済が回っており、また、貿易が必要な場合もその相手国のほとんどは共産主義国で多くは東ヨーロッパの国々であった、つまり、ソ連の国々または衛星国は、ソ連があってこそ経済が成り立つ状況だったのです。

ところがソ連崩壊によって、それまでアクセス出来た市場が突然なくなり、東ヨーロッパを中心とした旧ソ連の国々の経済は一気に落ち込み、東ヨーロッパや中央アジアの経済全体に暗い影を長く落とすことになります。

そして崩壊後は旧ソ連の各国で政治的腐敗が蔓延し、それがまた経済を停滞させることになりました。

ロシアはウラジーミル・プーチンが大統領に就任した2000年以降、ようやく経済的な回復が見え始める一方、旧ソ連の一つアルメニアは、2018年前半まで一党独裁の状態が続き、2018年3月に起こったアルメニアビロード革命によって野党の党首ニコル・パシニャンが首相につき、ようやく改善の兆しが見えてきました状況です。

ソ連崩壊後の出来事② 社会的大混乱の中で生まれた犯罪や腐敗

ソ連が崩壊したことにより、多くの旧ソ連国家では大混乱が起こり、そのため犯罪率が上昇。ロシア政府内でも汚職が横行します。

ソ連政府が崩壊した時、共産主義体制下で影をひそめていたマフィアが権力を取り戻そうと動き出したのです。

政府のインフラ(基本的な公益事業から警察組織まで)はほとんどが、ソ連崩壊の最中に機能しなくなってしまいました。

それに加えて、政府の給与業務もほとんど完全に消滅してしまったことから、元KGB職員や警察官、旧ソ連軍兵士らは、安定した雇用を求めてマフィア集団へと流れていきました。

そして、オリガルヒと呼ばれる新興財閥は、ロシア国内の情報通信事業やエネルギーネットワーク産業など、旧ソ連の国有財産や国営企業の払い下げを受け、実行力のないロシア政府に代わって治安と法の施行を提供する代償として、一般市民に金銭を強要したのです。

2000年にプーチンがロシアの大統領に就任してからの現在のロシア政府は、犯罪組織の取り締まりにある程度成功しているといえますが、マフィアは今もなお権力を持っており、固い結束力で結ばれています。

ロシアのような半独裁と言って良い体制下にある社会では、政府の腐敗を批判するような物言いをすれば誰でも逮捕される可能性があり、追放されるか、秘密裏に殺害されてしまうでしょう。

このような圧力があるために、ロシアは真の民主主義国家となる機会を逃し、現在でも政治腐敗がはびこっていると考えられているのです。

またロシアだけでなく、旧ソ連の国であるアゼルバイジャンやカザフスタンなどの国々は、石油や天然ガスの輸出により富を得ていましたが、汚職も増加することになりました。

一方で、西側の思想や経済・社会モデル、そして政治的立場を採り入れ、西側寄りに国の方向転換を迅速に行った結果、劇的な改善が見られているリトアニアやラトビアなどの国々も存在します。

ソ連崩壊後の出来事③ アメリカの影響力の拡大

冷戦時代に覇権国家として君臨していた超大国アメリカとソ連のうち、ソ連が崩壊してしまったことは、アメリカが単独覇権を謳歌する時代の始まりを意味していました。

アメリカは世界に残されたたった一つの超大国となり、強力なライバルの脅威から解放されたのです。

結果、アメリカ政府は報復行為を恐れることなく、諸外国に軍事介入や経済制裁を行えるようになり、また、そのような介入を単独で決定したとしても、後についてくる諸外国が現れる状況が生まれたのです。

しかし、ソ連崩壊後、およそ20年に渡ってアメリカが享受してきた支配的かつ優越的で傑出した国際社会における地位」は、近年少しずつ弱まってきていると言えます。

ソ連後に誕生したロシア連邦政府は、旧ソビエト時代の北朝鮮債務100億ドルを免除して北朝鮮に石油を輸出したり、シリア内戦においてはアメリカが非難するアサド政権を支持するなど、国際情勢において強硬な姿勢を見せています。

また、2014年に起きたクリミア併合などを見る限り、ロシアは再び「「世界の超大国の地位を取り戻そうとしている」とも考えられます。

加えて、中国の台頭とその中国とロシアの接近は、アメリカの影響力をさらに弱める大きな原因となっています。

このように、ソ連崩壊後から2010年前後まではアメリカ単独覇権の時代が続いていましたが、それ以降はより混沌とした状況が生まれているのです。

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ソ連崩壊|原因と崩壊後までをわかりやすくまとめて解説のまとめ

ソ連崩壊は世界情勢を大きく変えた非常に影響力のあった出来事。

その直接的な原因は、ソ連を救済するためのミハイル・ゴルバチョフ主導のグラスノスチとペレストロイカであること、また、崩壊後の状況についてもある程度理解が深まったかと思います。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

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