ペレストロイカとは?簡単にゴルバチョフやソ連崩壊との関係などを解説

ペレストロイカとは何だったのでしょうか?簡単に、だけど十分に詳しく解説していきます。ゴルバチョフが主導した理由や、ソ連が崩壊に向かった背景などを見ていきましょう。

今日でも、ソビエト連邦(ソ連)の崩壊と、その結果である冷戦の終結が話題に上ることがありますが、この出来事は外部の影響よりも、ソ連内部で起こったことが決定的な原因となり、引き起こされたであろうことが、当時のソ連について調べていくと分かります。

なかでも、ソ連の崩壊に最も大きな影響を及ぼした一つが「ペレストロイカ」と呼ばれる改革政策でした。

このペレストロイカとは、一体どのような政策だったのでしょうか?

ペレストロイカを主導したゴルバチョフはなぜ、この改革政策を実行したのでしょうか?

この記事ではペレストロイカについて出来る限り簡単に、ただし、十分詳しく解説していこうと思います。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

ペレストロイカとは?簡単に解説するとこうなる

ペレストロイカ(Perestroika)とは簡単に言うと、1986年以後、当時のソ連最高指導者の立場にあったミハイル・ゴルバチョフのもとで開始され進められた「大規模なソ連の政治体制の改革運動」のこと。

1980年代になるとソ連国内は停滞し、西側諸国の発展と比べると、その差は歴然としていました。

そこで、ゴルバチョフがソ連の政治体制を改革して、経済を立て直すために出した政策が「ペレストロイカ」。

つまり、ペレストロイカ(ロシア語で「立て直し」や「改革」と言う意味)は、ソ連経済の成長を促し、西側諸国(特にアメリカ)と対抗できるレベルにまで経済を浮揚させるための改革政策だったのです。

そして、その主な内容は、

  • ソ連の計画経済の中に一部、自由市場を導入する

というもの。

それまでのソ連が採用していた完全な計画経済下では、ソ連は全ての生産手段を中央で管理します。

つまり、事業がどれだけモノを生産するのか、その価格はいくらに設定するべきか、といったことを政府が管理するため、普通だったら儲からないビジネスも成り立つことが出来たのです。

しかし、本来は成り立たない事業を延命させ続けるだけでは、経済が発展することは出来ないばかりか、むしろ停滞を招いてしまいます

一方、ペレストロイカの下では、ソ連は今まで通り経済の大部分を管理下に置きますが、そこに少しだけ資本主義的な特徴が導入されていきます

例えば、協同組合法の下でゴルバチョフは、一部、民間による事業を許可するようになりました。

これは、一切の個人所有を認めない共産党のイデオロギーとはかけ離れた政策です。

また、ペレストロイカは海外からの投資に関する規定を緩め、さらに利益を生まない産業を手放していきました。

このように自由経済の戦略を少しでも導入すれば、共産主義経済がもっと効率的なものになるとゴルバチョフは考えたのです。

ペレストロイカ導入の背景とは?

レオニード・ブレジネフが最高指導者の地位にあった時(1964〜1982)、ソ連高官の中には共産主義体制に疑問を抱くと同時に、西側諸国が採用している資本主義が共産主義より先に崩壊することはないだろうと考える人も一定数いましたが、ソ連の状況を打破するまでには至っていませんでした。

結果、ソ連国内は停滞を続け、西側諸国と比べると明らかに経済力に差が生まれてきました

1985年、ソビエト連邦の最高指導者に就任した時点で、ミハイル・ゴルバチョフも以下の2点をはっきりと自覚していました。

  1. 資本主義体制が崩壊することはない
  2. ソ連の計画経済は、アメリカの自由経済に対抗するにはあまりにも弱く非効率的である

そこでまず、ミハイル・ゴルバチョフは「ソ連を発展させるため」に「新思考」を導入します。

新思考(または新思考外交)とは、

西側との相互依存の重視、他の社会主義国との対等の関係などを掲げた新しい外交方針

(引用:世界史の窓

という概念。

1)アメリカとソ連の間の軍拡競争は、すでに弱っていたソ連の経済をさらに疲弊させ続け、ソ連国内での抗議の声は一層強さを増していたこと、2)アメリカのレーガン大統領がソ連に対して今までよりも一層強硬な姿勢を取るようになっていったというのが、新思考の導入の主な理由です。

それに加えて、人々は弱り切った経済と、共産党内ではびこっていた汚職に不満を募らせていたのです。

このような状況下にあり、ソ連の指導者達はもはや冷戦に勝つことではなく、ソ連を何とかして政治的そして経済的に存続させることが優先だと考え始め、この状況の中でゴルバチョフが出した答えが「ペレストロイカ」そしてグラスノスチと呼ばれる二つの内部政策の導入でした。

グラスノスチは「情報の公開」の意味で、情報の開放と透明化を目指したもので、これによりソ連の国民はソ連内部だけでなく西欧やアメリカ、そしてその他の国々で起こっていることについての情報をより簡単に手に入れることが出来るようになります。

一方のペレストロイカは、ソ連の経済停滞を打破して弱り切った経済を回復させることを目的とした政策でした。

ペレストロイカの影響

このように、本来のペレストロイカはソ連を再び強くし、ソ連を存続させるための政策でしたが、その本来の目的を前提に一言で言うならば、ペレストロイカは失敗しました。

ペレストロイカとその他の小規模な経済改革が導入されてから2年後、ゴルバチョフは、ソ連が必要としているのは、より深いレベルでの体制の改革であることに気が付きます。

そこで彼はより大規模な改革を実行し、自由経済をさらに推し進めました。

しかし、このことはソ連経済をより不安定な状態にし、ソ連全体が混沌とした状況に陥ってしまったのです。

崩壊する産業が続出してソ連経済は不況に陥り、状況がさらに悪化するにつれてソ連では食料の配給制を導入しなければいけないまでになってしまい、もちろんソ連国民の不満は増大。

その結果、抗議運動や独立運動が東ヨーロッパ諸国で多発するようになります。その一つとして、有名なチェコスロバキアのビロード革命が含まれます。

ソビエト連邦の崩壊

「一体何がソビエト連邦の崩壊と冷戦の終結に一番大きな影響を与えたか?」という議論は今でも尽きませんが、政治改革であるペレストロイカとグラスノスチが大きな引き金となったことについては、多くの人が賛成しています。

経済が崩壊していく中で、グラスノスチのおかげでソ連の外の情報を入手出来るようになった人々は、ソ連の外の状況に目を向け、新しい政策を考えたり求めたりと議論出来るようになり、ソ連体制に対する疑問の声が強まったのです。

しかし、停滞した経済によって、国家を支えるだけの力と十分な資金がないソビエト連邦には、抗議運動を鎮圧するなどとても不可能なことでした。

1989年に東ヨーロッパで始まった抗議運動は現地の共産主義体制を次々と覆していき、ついに1991年、ソ連は完全に崩壊しました。

このように、ソビエトを立て直すために導入されたグラスノスチとペレストロイカは、真逆の結果を生み出してしまい、本来の目的に対して成功したかどうかを問われた場合は失敗だったと言えるのです。

ペレストロイカ導入によってソ連に現れた2つの現象

ペレストロイカについて、その概要からペレストロイカ導入に至った原因、そして結果までを簡単に見てきましたが、ここでは最後に、ペレストロイカによって現れた2つの現象を紹介しておきましょう。

海外旅行が出来る!だけど手続きが不快過ぎた・・・

ペレストロイカ以前のロシアでは、国民が入手できる情報は国によって制限されていたため、特に「共産主義の敵」として見なされていた西洋諸国の文化に触れることは基本的に無理でした。

しかし、ペレストロイカとグラスノスチが導入された結果、ソ連の人々は西洋に関する情報を国内にいながらも入手出来るようになり、憧れを抱くような人も出てきます。

また、自由経済を導入するということは、「輸出入などの貿易業を営む者が出てくる→海外へ出かける必要が出てくる」という意味で、加えて、先述した「新思考外交」も後押ししたことで、今まで閉ざされていたソ連は、言ってみれば「開国」し、国民の旅行が可能になったのです。

その結果、西洋に憧れを抱いた人の中には海外旅行する人も現れました。

ただし、国を出るためには外務省所属の専門課「OVIR(査証登録課)」から許可を得なければならず、このOVIRへの申請というのが非常に不快だったそう。

というのも、ペレストロイカや新思考外交が導入されたと言っても、今まで西洋諸国を敵だと教えられていた人達の考えがそんなすぐに変わるはずもなく、OVIRで働いている人の中にはそのような「古い」人達が多かったため、とにかくビザの申請にいくと犯罪者のように扱われ、無礼な態度を取られることが当たり前だったから。

ペレストロイカによってソ連の国民は海外旅行が出来るようになったものの、実際に外へ出るのは大変な労力を必要としたようです。

不動産が個人の所有物になった!

ペレストロイカ以前のソビエト連邦では、不動産を個人が所有することは基本的に難しく、1936年に制定された「ソビエト社会主義共和国連邦憲法」では、「他人からの労働搾取」から逃れ、自らの労働力を使って生計を立てる小作人や職人達にしか、個人の不動産所有は認められていませんでした。

また、1977年の制定された最後のソビエト憲法では、個人の不動産所有について全く触れられていませんでした。

このように、ソ連時代では元々、不動産を個人の物として所有することは基本的に出来なかったのです。

しかし、ペレストロイカが導入されると、個人でも不動産を所有する権利が認められるようになります。

それ以降(ソ連崩壊後に出来たロシア連邦も含め)、旧ソ連時代に与えられていた不動産はその時に住んでいた人の個人所有物となり、現在でも多くの人々にとって、不動産は最も価値のある資産の一つになっています。

合わせて読みたい世界雑学記事

ペレストロイカとは?簡単にゴルバチョフやソ連崩壊との関係などを解説のまとめ

ペレストロイカとは、ミハイル・ゴルバチョフが1985年にソ連において導入した経済政策。

ペレストロイカとは「立て直し」の意味で、本来は疲弊した共産主義の計画経済を立て直すために導入されました。

自由経済を部分的に導入することで、ソ連の経済の効率化を図ったのです。

しかしペレストロイカは失敗して経済をより弱めてしまう結果となり、この結果、ソ連国内で市民による抗議運動が多発して、ソ連の崩壊と冷戦の終結の大きな要因となったのです。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

error:Content is protected !!