ラスプーチンとは?「グリゴリー・ラスプーチン」ロシアの怪僧について語っていく!

ロシア
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ロシアの怪僧という異名で知られるグリゴリー・ラスプーチンを知っていますか?

ロシアがまだ帝政を敷いていた時、どこからともなく突然現れてロシアの皇帝に近づき、政治にまで影響力を与えた、奇妙で奇怪で、様々な逸話が残る特異稀な人物です。

歴史的な評価が非常に低いため、世界の表立った歴史では語られることはありませんが、とても強烈なキャラクターであったため、未だに一部では人気があり興味をそそられます。

そのラスプーチンの人となりや人生を知るために、ラスプーチンが権力を握るまでの人生や、今でも語り継がれる逸話までをまとめていきます。

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目次
  1. ロシアの怪僧「グレゴリー・ラスプーチン」とは?
  2. 何者でもないラスプーチンが権力の頂点を極めた人生を振りかってみよう
    1. ラスプーチンの生い立ちから改宗まで
      1. 当時のロシア
      2. 元々ラスプーチンは何者でもなかった
      3. ラスプーチンの改修
    2. ますます奇怪的な行動が増していくラスプーチン
      1. 徐々に家族との時間も疎かになると同時に行動も変わっていった
      2. 家族以外にも対象を広げるラスプーチン
    3. 影響力を持ち始めるグリゴリー・ラスプーチン
      1. 徐々に人々がラスプーチンの下に集まり始める
      2. 影響力のある人物と関係を築き始めたラスプーチン
    4. サンクトペテルブルクに辿り着いたのが運命だった!ついに帝政ロシアで権力を握るグリゴリー・ラスプーチン
      1. アレクサンドラ皇后との面会が実現する
      2. さらに皇室と密接になり皇帝に進言まで始めるラスプーチン
      3. ラスプーチンの有名な巨根による宮廷貴族の子女の信仰を集める
      4. 訴えられる怪僧、しかし追放されず逆に権力を増す
    5. 最後は暗殺されたラスプーチン
  3. ロシアの怪僧ラスプーチンにまつわる興味深い話
    1. 実は第一次世界大戦にロシア帝国が参加することに反対していた
    2. 自分が殺されれば帝室も滅ぶと予言していた
    3. 基本的にはいつも不潔だった
    4. ありえないぐらいの巨根だったらしい
    5. ラスプーチンという曲が存在する
  4. 合わせて読みたい世界雑学記事
  5. ラスプーチンとは?「グリゴリー・ラスプーチン」ロシアの怪僧について語っていく!のまとめ

ロシアの怪僧「グレゴリー・ラスプーチン」とは?

ロシアの怪僧と形容されるラスプーチンことグレゴリー・ラスプーチンは、1869から1916に実際に存在した人物。

(出典:wikipedia

自らを聖なる人物や祈祷僧と名乗り、ロシア帝国最後の君主であるニコライ2世の家族に近づくことでロシア帝国への影響力を高めて政治に関与した結果、ロシア帝国崩壊の一因を招いたともされています。

また、奇怪な逸話や容姿から「怪僧」と呼ばれることになり、その独特な特徴から、現在では様々なストーリーにおいて悪役キャラの題材として使われることもあり、良い意味でも悪い意味でも人々の脳裏に焼きついています。

何者でもないラスプーチンが権力の頂点を極めた人生を振りかってみよう

ラスプーチンの生い立ちから改宗まで

当時のロシア

370年に及ぶ帝政時代を通して、ロシアは人口が希薄になり、事実上、これといった工業製品の生産も無い国として帝国としての終焉を迎えつつありました。

1861年になってようやく農奴制が廃止され、1900年にはロシア革命へ向かう政治的動揺が生じ、ロシア帝国内の至る所に広がります。

そのような時代のロシア帝国において、1869年、グレゴリー・ラスプーチンはこの世に生を受けます。

元々ラスプーチンは何者でもなかった

ラスプーチンは、小さな田舎町とさえ言えないような規模の町から、さらに数百マイル離れた西シベリアの小さな農村、ポクロフスコエ村に生まれました。

(出典:Factinate

ラスプーチンの生涯については、その初期に関する記録が少なく特筆すべきことはないものの、1887年頃に地元の農家の娘、プラスコヴィアと結婚し、夫婦は数人の子宝にも恵まれていたことが分かっています。

ラスプーチンの子供たちのうち3人が早くして亡くなったため、この体験が、1892年にヴェルコチュヤにある修道院への巡礼に出る動機づけになったものと思われます。

この修道院で過ごす間は他の巡礼者と同じく、ラスプーチンも形だけは労働や祈りに励むふりをしていたようですが、ほとんどの時間は修道院の外で、ある宗教的隠者と共に過ごし、その人物に影響を受け、菜食主義と延々と続く懺悔を含むロシア正教の原理主義に改宗していったとされます。

ラスプーチンの改修

ラスプーチンは改宗したのち、数年間はこの隠者と共にロシア国内を放浪していましたが、植え付けと収穫の季節には農作業に間に合うように、家族の元に戻ってきて畑仕事の手伝いをすることもよくありました。

(出典:EXPRESS

その道中で、ラスプーチンは出会った人々に上手く取り入る術を覚え、家に泊めてもらい、説教をする間、無償で食糧を分け与えてもらっていたのです。

そして、そのような日々を送る中で、グリゴリー・ラスプーチンが神秘的な力を持つ祈祷師であるとの噂が広まり始めます。

ラスプーチンはその噂に上手く乗っかり、信仰療法や祈り、聖書の教え、時には十分な休養と水分を摂るというような常識的な助言も融合させて、負傷者や病気の農民たちの治療にあたっていきます。

ますます奇怪的な行動が増していくラスプーチン

徐々に家族との時間も疎かになると同時に行動も変わっていった

月日が経つにつれて、ラスプーチンが自宅に戻る機会はどんどん減っていきます。

そして、グリゴリー・ラスプーチンは家族の元に戻ったときも、芝居がかった振る舞いを止めることはありませんでした。

自宅に一時帰宅する時には必ず、義務的な祈りと何時間にもわたって続く宗教的儀式を行うことを譲らなかったと言われます。

ラスプーチンが自宅に戻っていた間、家族にとってはおそらく毎日が試練の連続だったことでしょう。

例えば、ラスプーチンは、祝祭日、聖人の祝日、誕生日、記念日そして特別な機会になると必ず「お祀り」し、家族皆に断食と毎晩ひざまずいて祈りを捧げるように強制していたようなのです。

また、安息日にはすべての労働を禁止し、ラスプーチン自身も農作業を行うかわりに、村の広場で宗教的な集まりを召集し、長時間にわたって祈祷を行いました。

家族以外にも対象を広げるラスプーチン

宗教者にそぐわないラスプーチンの振る舞いは、ますます奇妙さを増していきます。

ラスプーチンはまた、顔面や身体に不穏なチック症状(瞬きや咳払い、声などが、本人の意思に関係なく突然、繰り返し出てしまう症状)が出ることがよくあり、周囲の人々を動揺させ始めます。

気が散っている時や会話の最中、ラスプーチンの両腕が急に痙攣して、両手を荒々しく振り動かすこともよくあったとされています。

他にも、何か特定の物事を強調して話しているとき、一瞬、体全体が硬直して動かなくなることもありました。

さらに、グリゴリー・ラスプーチンは、自分が嘲笑されたと感じると群衆の中に突進していき、村人を捕まえては地獄に落ちろなどと叫びながら殴りつけることもあったそうです。

影響力を持ち始めるグリゴリー・ラスプーチン

徐々に人々がラスプーチンの下に集まり始める

西シベリアでは宗教的な活動があまり盛んではなかったため、グリゴリー・ラスプーチンの下には徐々に信奉者が集まり始めます。

(出典:Pinterest

また、地元には教会がなかったため、ラスプーチンは自宅で礼拝を行い始め、偶然にも病気が治療されたり、その他の奇跡的な出来事がいくつか起こります。

その結果、宗教儀式に集まる村人がラスプーチンの自宅には収まりきらなくなり、1902年、ラスプーチンは再び村を出て宗教活動を続けることを決意。

その後、二度と帰郷することはありませんでした。

およそ3000kmも離れたキエフにある修道院を、陸路でめざす巡礼の旅に出ることになったのです。

影響力のある人物と関係を築き始めたラスプーチン

キエフの修道院で1年間の修行(宗教教育を受けることも施すこともあったとされる)を終えた後、ラスプーチンは再びロシアの大草原を横断してカザンへ向かい、そこで司教や貴族といった人々と会う活動を始めることになります。

(出典:wikipedia

カザンでは、それまで隠者として小才をきかせて世渡りしてきた中で磨かれた、自信家としての態度で虚勢を張り、神学校での宗教教育担当となります。

この時、ラスプーチンは何者かの重要人物に気に入られたに違いありません。

1年も経たずして、有力な紹介状の数々を手に、ラスプーチンはロシア帝国における支配層の人々と接触することになる、首都サンクトペテルブルクへと向かうこととなったのです。

サンクトペテルブルクに辿り着いたのが運命だった!ついに帝政ロシアで権力を握るグリゴリー・ラスプーチン

ラスプーチンがサンクトペテルブルクに辿り着いた当時、街はその長い歴史上、とても混乱していました。

ロシアは1904年、日露戦争に大敗します。

ロシアの国中の男たちは徴兵されており、皇帝の関心が特に高かったといわれる極東での戦いを支えるために、不動産は高い税金が課されていました。

そんな状況下において対馬沖海戦でロシア艦隊が撃滅すると、ロシア国内では暴動が起こります。

過激な革命派の民衆たちは食糧暴徒と化し、ゼネスト(労働争議)は帝政に対する本格的な反乱へと発展します。

しかし、日露戦争から帰還した軍隊の一斉射撃で直ちに鎮圧されたため、ロシア帝国はもう少しの間延命されることになるのです。

ちなみに、グリゴリー・ラスプーチン自身はこれらの動乱にほとんど気づいていなかった可能性があります。

この時期、ラスプーチンは地元の貴族や王族に取り入るのに忙しかったのがその理由です。

アレクサンドラ皇后との面会が実現する

当時、ロシア帝国に使える臣下や貴族達は、貧しい階級のこの毛深く奇妙な男をよく思っていないようでした。

特に、生涯続いたチック症状や、帝室であるロマノフ家に明らかに取り入ろうとする行動が、サンクトペテルブルクの貴族を苛立たせていたのです。

(出典:BIOGRAPHY

しかし、そのような反感にも関わらず、グリゴリー・ラスプーチンはニコライ皇帝の妃である、アレクサンドラ皇后と面会する機会に恵まれます。

その時、アレクサンドラ皇后は妊娠中でした。

そして、質素な振る舞いと生まれてくる子供に好ましい予言をした結果、ラスプーチンは皇后に気に入られることになります。

一方で、このことで貴族たちのラスプーチンに対する嫉妬は高まり、それが後々の暗殺につながる陰謀計画のきっかけにもなったと考えられます。

さらに皇室と密接になり皇帝に進言まで始めるラスプーチン

ニコライ皇帝に跡継ぎであるアレクセイ・ロマノフが誕生し、その王子が患っていた血友病に対処するため、母親であるアレクサンドラがラスプーチンのアドバイスを仰いだことで、ラスプーチンと帝室の関係はさらに強固になっていきます。

ラスプーチンのアドバイスは、乳児であるアレクセイへのアスピリンの投与をやめるというものでしたが、これが多少なりとも効果をもたらしたため、怪僧ラスプーチンに対する皇帝と皇后の信頼は確たるものとなります。

そして、1907年にはラスプーチンは王宮に定期的に訪れるようになり、国政に関して皇帝に進言するまでになっていくのです。

ラスプーチンの有名な巨根による宮廷貴族の子女の信仰を集める

さらに、この当時ラスプーチンは、アレクサンドラだけでなく、その他の宮廷の女性や貴族の子女達からも熱狂的な信仰を集めるようになっていたと言われています。

その理由というのが、グリゴリー・ラスプーチンの代名詞とも言える、稀に見る「巨根」と圧倒的な精力であり、当時のラスプーチンの生活は「醜態の限りを極めた、淫乱な生活」と秘密警察が記録したほどだとされています。

訴えられる怪僧、しかし追放されず逆に権力を増す

ロシア帝室との強固な関係を築き、また、多くの女性を虜にするグリゴリー・ラスプーチンの姿を横目に、貴族達によるラスプーチンを陥れようとする策略は、エスカレートしていきます。

1907年にトボリスクで開かれた教会裁判でのことでした。

怪僧と名高いラスプーチンによる聖書の解釈は、常に型破りなものであり、他の聖職者達には理解しがたい点も多かったため、偽の教義を広めたと同時に、「女性にキスし、一緒に入浴している」と訴えられたのです。

(出典:paraxeno.com

しかしすでにトボリスクを離れていたラスプーチンは、結局罰を受けることはなく、逆にその評判はますます上がる一方でした。

その結果、ラスプーチンを陥れようしていた敵の多くは、ロマノフ家と縁を切ることになったか追放され、1912年頃にラスプーチンは、帝政ロシアで最も力のある人物の一人にまでなっていたのです。

最後は暗殺されたラスプーチン

このように、帝政ロシアにおいて権力の頂点まで登りつめたグリゴリー・ラスプーチンですが、最後には暗殺されてその生涯を閉じることになります。

暗殺計画が実行された時、ラスプーチンの額には銃弾が打ち込まれたとされますが、その遺体が川に投げ込まれた時にはまだ息をしていたとも伝えられています。

これに関しては真偽のほどが疑われますが、怪僧と言われていたラスプーチンらしい逸話です。

ロシアの怪僧ラスプーチンにまつわる興味深い話

怪僧ラスプーチンが頂点に上り詰めるまでの人生をまとめてきましたが、最後にグリゴリー・ラスプーチンにまつわる興味深い話をいくつか紹介しておきましょう。

実は第一次世界大戦にロシア帝国が参加することに反対していた

外見的に奇妙で、その行動も奇怪なラスプーチンですが、実は第一次世界大戦が開始された際、皇帝に対して、ロシア帝国は戦争へ参加すべきでないと提言していたとされています。

ラスプーチンは皇帝に、「参戦すればロシア帝国は終焉を迎えることになる」と伝えていたそうですが、ニコライ2世はこの時だけラスプーチンの進言を無視し、戦争へ参戦してしまいます。

自分が殺されれば帝室も滅ぶと予言していた

また、暗殺される以前の話としてラスプーチンは、自らがロシアの貴族の手によって殺されれば、その後2年以内にロマノフ王朝は滅ぶと予言していました。

実際、彼が暗殺されてから7ヶ月後にロシア革命が起こり、また、ロマノフ家の人々はボルシェビキ革命により殺されてしまいます。

基本的にはいつも不潔だった

ラスプーチンの奇妙な容姿からそれとなく想像出来るかもしれませんが、ラスプーチンは清潔とはほとんど無縁の生活をしていたと言われています。

例えば、伸ばしっぱなしのヒゲにはパンくずがたくさんついていたり、お風呂に入ることもほとんどなかったり、また、下着を半年以上変えることなく生活していたことを周りに自慢していたなどの逸話が残ります。

さらに、体臭は野生のヤギのようであり、歯は黒くシミがついているほどだったそうです。

ありえないぐらいの巨根だったらしい

ラスプーチンの象徴とも言えるのが、その男根のサイズ。

(出典:hoaxes.org

そのサイズはなんと13インチ(およそ33cm)とも言われています(※本当にラスプーチンのものかは不明)。

また、その巨根はサンクトペテルブルクのMuseum of Eroticaにて展示されているらしいです。

ラスプーチンという曲が存在する

ロシアの怪僧として歴史的な評価は低いラスプーチンですが、キャラクターとしての存在感は高く、一部では人気。

そんな人気を示すかのように、1978年にはディスコミュージックとして「Rasputin」という曲が作られ、しかも結構なヒット曲になっています。

音楽を聞きながらラスプーチンの特徴や性格などを学べるので、ラスプーチンのことを知りたければ聞く価値ありです!

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ラスプーチンとは?「グリゴリー・ラスプーチン」ロシアの怪僧について語っていく!のまとめ

帝政ロシア時代に実在し、その奇妙な外見や行動でロシアの怪僧と言われたラスプーチン。

こんな奇妙な人物が、実はロシア帝国で権力を握ったという事実に驚かされます!

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

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