アルメニア人虐殺|アルメニアとトルコの間に影を落とす人道的悲劇

20世紀初頭に起きたアルメニア人虐殺をわかりやすく簡単に理解するために、9つのポイントに分けて見ていきます。アルメニアとトルコの間で未だに解決されていない人道的な悲劇です。

アルメニア人虐殺(アルメニアジェノサイド)とは、20世紀初頭、第一次世界大戦中にオスマン帝国(オスマントルコ)内で始まり、非常に多くのアルメニア人が命を落とすことになった一連の人道的悲劇。

大規模な虐殺行為が行われると同時に、オスマン帝国領から国外へ強制移住させられた過程で、当時オスマン帝国内に住んでいたアルメニア人の大半が命を落としてしまったと言われます。

一方で、このアルメニア人虐殺関しては異なる見方が存在したり、未だにオスマン帝国の後継国家とされるトルコとアルメニア共和国の間で解決を見ていないことから、アルメニアとトルコの関係に暗い影を落とし続け、さらに、国際社会においても議論され続けています。

アルメニア人虐殺とは何だったのか?その裏側ではどういったことが起こっていたのか?

アルメニア人虐殺を、9つのポイントに分けて解説していきます。

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アルメニア人虐殺の話1:ジェノサイドと言う言葉誕生以前に起こった

オスマン帝国内で約100年前の1915年から始まったアルメニア人虐殺は、「アルメニア人ジェノサイド(Armenian Genocide)」と言う名前で呼ばれることもありますが、実は「ジェノサイド」という単語が誕生するよりも前に起きた20世紀最初のジェノサイドでした。

と言うのも、

一つの人種・民族・国家・宗教などの構成員に対する抹消行為

または

ある民族集団を絶滅を目指し、その集団の必要不可欠な生活基盤の破壊を目的とした様々な計画的で組織的な行為

を指す「ジェノサイド」という言葉は、ギリシャ語の「genos(民族・人々)」という単語と、ラテン語の接尾辞「-cide(殺す)」を合わせた単語で、1944年にユダヤ系ポーランド人の法律家「ラファエル・レムキンによって作られ、その後間もなく国際法上で禁止行為として採用された造語だから。

そのため、アルメニア人の一連の虐殺行為に関して「ジェノサイド」という言葉を用いるかどうかという点は、被害者の子孫であるアルメニア人と、オスマン帝国の末裔であるトルコ人との間で感情的な議論を呼んでいます。

双方にとっては単なる歴史的事実としてだけではなく、国としてのアイデンティティに関わる問題となるからです。

  • アルメニア人の中には
    • 自分たちの祖先に起きたことを明らかにし、認められない限りは国家として認められないと感じる人がいる
  • トルコ人の中には
    • アルメニア人の存在は戦時下にあった当時のオスマン帝国にとって脅威だったと主張し、アルメニア人以外の民族、トルコ人も含めて多くの人々が戦争の混乱の中で殺害されたとする人々が一部いる
    • 指導者のなかにはジェノサイドを認めると、賠償問題に発展すると懸念する人々もいる

といった様に、「ジェノサイド」と言う単語を用いるかどうかは、民族的なアイデンティティや国のあり方に影響する複雑な問題なのです。

アルメニア人虐殺の話2:犯罪行為なのか?ジェノサイドなのか?

「ジェノサイド」という言葉が生まれ、国際法上で禁止行為とされたのが20世紀半ばであったため、20世紀初頭に起こったアルメニア人虐殺は、法的には犯罪行為として認められていませんでした

そしてこのことがまた、アルメニア人虐殺を難しい問題にしている一つの要素となっています。

実際、ジェノサイドという言葉が生まれる前に起きたこの一連の事件を、「ジェノサイド」として認めるかどうかに関しては、国際社会の中でも意見が大きく分かれているのです。

例えば、それぞれの立場として、以下のような国々を挙げることが出来ます。

  • アルメニア人虐殺はジェノサイドだと主張する国
    • アルメニア、バチカン市国、フランス、ロシア、カナダ、ドイツ、アルゼンチン、ブラジル、ギリシャ、イタリア、スイス、オランダ、シリア、アメリカ合衆国(2019年後半に下院と上院の両方で認定。しかし政府は否定している)、など
  • アルメニア人虐殺はジェノサイドだと主張していない(または認めていない)国
    • トルコ、イギリス、中国、サウジアラビア、アゼルバイジャン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、など

この問題に関しての諸外国による立場表明は、外交上の理由、民族や人種的な理由、宗教上の理由、内政上の理由などが複雑に絡み合っており、国際舞台でもなかなか進展し辛い状況となっています。

また、多くの国はその虐殺の肯定・否定に関して、最終的な声明を出すのを拒んでいます。

ちなみに、オスマン帝国の後を引き継いだトルコは、1915年に始まったアルメニア人虐殺が計画的に組織されたことを常に否定し続けてきました。

また、トルコ人と人種・民族的に共通のルーツを持ち、またアルメニアとはナゴルノ=カラバフを巡る領土問題を抱えているアゼルバイジャンは、トルコ以外に政府がその虐殺の事実を強く否定している唯一の国です。

アルメニア人虐殺の話3:一連の出来事の前には何が起きていたのか?

当時のオスマン帝国は、第一次世界大戦に参戦したばかりで、ドイツやオーストリア=ハンガリー帝国を中心とした「中央同盟国」側にいました。

一方で対するのは、フランス、イギリス、ロシア帝国を中心として連合国でした。

このような状況の中でオスマン帝国は、帝国内の領土にいるアルメニア人が、ロシアに戦争協力を要請することを懸念していた様なのです。

ロシアは長年、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)を、黒海への足掛かりとして、また、一年中ずっと凍ることのない不凍港として狙っていました。

アルメニア人虐殺の話4:どのようにして虐殺は始まったのか?

1914年の時点で既に、オスマン帝国の支配者層は、帝国の安全を脅かす存在としてアルメニア人を危険視していたと言われます。

そうした中、1915年4月23日夜から24日にかけ、帝国の首都であるコンスタンチノープルにおいて、約250人のアルメニア人知識層や地域社会のリーダーらが捕らえられ、後に彼らは国外に追放されるか、殺害されたのです。

約250人にのぼるアルメニア人コミュニティーのリーダー達が、コンスタンチノプールからアンカラへ強制的に移住させらたのが1915年4月24日であったために、この日はアルメニア人虐殺が始まった日とされ、「血の日曜日」とも呼ばれる「ジェノサイド記念日(ジェノサイド追悼記念日)」として世界中のアルメニア人が悼みます。

アルメニア人虐殺の話5:帝国内のアルメニア人人口と犠牲者

多くの歴史研究家の一致している点として、アルメニア人虐殺が起きた時、帝国内にはおよそ200万人のアルメニア人がいたと考えられています。

一方で、1914年から1923年(※いつまで続いたかに関しては異なる見解がある)まで続いた一連のアルメニア人虐殺による犠牲者の数は、30万人から200万人と幅があり、最大推定数はオスマン帝国内に居住していた全てのアルメニア人の人口数と一致してしまいます。

これは、犠牲者となったアルメニア人は、オスマン帝国領に限定されていたわけではないからです。

アルメニア人虐殺による犠牲者のなかには、当時ロシア支配下にあったコーカサス地方に住んでいた180万人のアルメニア系住民のうち、オスマン帝国の軍勢が1918年に東アルメニアとアゼルバイジャンを襲った際に殺害された人々もいたと考えられているのです。

ただし、実際のところ最大数の200万という数は多すぎるという説が主流で、60万から150万という数が妥当という主張が一般的です(オスマン帝国の公式発表では1915年と1918年の間で80万人)

ちなみに、オスマン帝国内アルメニア人の人口数は、1914年に200万だったのが、1922年の時点では40万に激減していたと考えられています。

アルメニア人虐殺の話6:アルメニア人は如何にして殺害されたか?

アルメニア人虐殺において当時のオスマン帝国側は、人が想像できるあらゆる方法を用いてアルメニア人を殺害したようです。

この虐殺事件に関しては通常、その犠牲者数が問題になりますが、当時の写真などを見てみると、人間の残虐性が非常に強く表れているのが分かります。

Armenian Genocide photos

例えば、オスマン帝国の兵士が、如何にも誇らしく、アルメニア人の首が並ぶなかでポーズをとっていたり、泥にまみれた頭蓋骨に囲まれて立っていたりする姿で写真に収まっているのです。

また、銃器による殺害以外にも、犠牲者の死因として、

  • ひどい火傷
  • 溺死
  • 拷問
  • 毒ガス
  • 服毒
  • 疾病
  • 餓死

なども挙げられており、幼いアルメニア人の子どもたちはボートに乗せられ、そのまま海に投げ入れられ、(未婚か既婚か、子持ちかどうか、また年齢に関係なく)女性に対しては強姦も頻発したと言われます。

さらに、大半のアルメニア人はシリア方面に追放され、砂漠に追いやられた結果、飢えと渇きで死んでいったとされます。

大半のアルメニア人が命を落とした砂漠の行進について

1915年4月24日を境にしてアルメニア人虐殺が本格的に始まっていくわけですが、これ以前、最終目的であったアルメニア人虐殺を行い易くする為にオスマン帝国は、軍隊に所属していた全てのアルメニア人を、既に非武装の労働部隊へ移動させました。

そして、オスマン帝国に住んでいた健康で丈夫なアルメニア人男性の多くが殺害されると、女性、子供、病弱な人々、そしてお年寄りは、移住と言う口実の下で砂漠を行進させられたのです。

砂漠の行進中に多くのアルメニア人達は飢えと脱水によって死亡し、女性達は年齢に関係なく日常的に強姦され、そのまま死ぬべく捨てられました。

また、大量射殺、溺殺、焼殺、そして毒殺も日常的に行われ、砂漠での死の行進をなんとか生き延びた人達の多くも、その後に強制収容所へ送られ、そこで殺害されたと言われます。

アルメニア人虐殺の話7:虐殺が起きたタイミングに関する憶測

アルメニア人虐殺が、なぜ第一次世界大戦中に起きたのかに関しては、次のような憶測があります。

世界大戦の最中に、帝国存亡にとって脅威となるかもしれないアルメニア人の大虐殺を早急に実行することは、オスマン帝国の高官達にとっては重要なことだったのかもしれません。

虐殺が大戦中に起これば、諸外国は他の切迫している問題の対処に追われ、人道的危機に対処してオスマン帝国を責める余裕が無くなると考えた可能性があるからです。

実際、当時のオスマン帝国において内務大臣と大宰相を兼任していた帝国末期の政治家「タラート・パシャ」は、ドイツの大使に対して、

オスマントルコ(オスマン帝国)は、この大戦を利用して、国内にいる敵、例えば国内に住み着いているキリスト教徒達などを、外国からの干渉を一切受けずに徹底的に一掃する事ができた。

と自慢げに話したという話も残っています。

このように、アルメニア人虐殺があのタイミングで起きた理由は、オスマン帝国側にとっては第一次世界大戦を上手くカモフラージュとして利用出来たからだという説が存在するのです。

アルメニア人虐殺の話8:アルメニア人達に賠償金は支払われていない

非常に多くのアルメニア人達が、アルメニア人虐殺によってオスマン帝国に財産を奪われました。

また、オスマン帝国がアルメニア人から奪った土地や財産は現在、後継国家とも言えるトルコの領土と財産になっています。

しかし、今日に至るまで、虐殺が行われる前にアルメニア人達が所有していたものは、一切彼らに返却されていません。

広範囲に渡って行われた大量殺人や、精神的な拘束行為に対する補償も何一つされていません。

オスマン帝国が1922年11月に崩壊した為、「罪を犯した責任を負うべき権力がもう存在していない」と言う理由から、賠償を行う事に反対する多くの意見が出ているのです。

一方で、虐殺が行われた場所はトルコであるため、アルメニア人への賠償を支持する人々は、オスマン帝国が招いた事態に対しての責任は後継国家であるトルコが負うべきだと考えています。

アルメニア人虐殺の話9:ギリシャ人やアッシリア人も命を落とした

第一次世界大戦の戦時中及び周辺時期に、オスマン帝国によって最も多く殺害されたのはアルメニア人達でした。

それゆえに、この時期にオスマン帝国(またはトルコ)の領土内で起こった大規模な出来事として、アルメニア人虐殺はしばしば議論の焦点になっています。

しかし、同じキリスト教徒としてオスマン帝国領内に暮らしていたアッシリア人ギリシャ人達の多くも、実は命を奪われ、また住む場所を失いました

アッシリア人に関しては、数万から数十万約30万人の人々が殺害されたと見られていて、それはオスマン帝国とペルシャの国境付近で大々的に行われたとされます。

ただし、トルコ側ではこのアッシリア人への虐殺行為に関して、特定の民族をターゲットにしたものではなく、あくまでも反乱を起こした人を殺害したのみだとする主張が主流です。

一方で、1923年には「ギリシャとトルコの住民交換」が実施されました。

これは、住民の信仰に基づき、トルコのギリシャ正教徒とギリシャのイスラム教徒を交換したもので、その中では約200万人ものギリシャ人達が、強制的に住む場所を追われ、結果、流血の大惨事となり、多くの人々が命を落とし、また、難民となったと言います。

ただし、この200万人の中には、130万人近くのトルコ領内に住んでいたギリシャ系キリスト教徒と、35万人近くのギリシャに住んでいたギリシャ系イスラム教徒が含まれており、決してトルコによる一方的な追放ではありませんでした。

そのため、ギリシャとトルコの住民交換は、「(両国間で)合意の上で実施された相互追放または民族浄化」と考えられています。

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アルメニア人虐殺|アルメニアとトルコの間に影を落とす人道的悲劇のまとめ

20世紀初頭にオスマン帝国領土内から始まった、アルメニア人虐殺について見てきました。

アルメニア人虐殺に関しては、未だに解決していません。

しかし、2014年のアルメニア人虐殺99周年の前夜、当時のトルコ首相レジェップ・タイイップ・エルドアン氏(2019年4月時点では大統領)が、大量死に対して「非人道的な結末」として哀悼の意を表明しました。

トルコとしては「ジェノサイド」という言葉を激しく拒否しているものの、歴代のトルコ指導者として初めてアルメニア人の受難を認めたのです。

これは、アルメニアとトルコ両国間にとっては画期的なことであり、少しずつでも前進していくことが望まれます。

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