ロシア帝国と歴史|帝政ロシアの台頭や鍵を握るツァーリなどを見ていこう

ロシア帝国の歴史を見ていきます。「帝政ロシアを作り上げる上で大きな貢献したツァーリは誰なのか?」「その歴史上の転換点は何なのか?」などを確認してみましょう。

ロシア帝国(帝政ロシア)は長い人類史においてさえ、最も強大な力と領土を手にした帝国の一つ。

現在のロシアにつながる国家で、日露戦争で日本が戦った当時のロシアはこのロシア帝国です。

ロシア帝国はどのような歴史を辿って、当時の世界で頭角を表してきたのでしょうか?

ロシア帝国が台頭してくるまでの歴史を見ながら、鍵となる何人かのツァーリ(君主)や、帝政ロシアにおける興味深いいくつかの話までを紹介していきたいと思います。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

ロシア帝国(帝政ロシア)とは?

ロシア帝国または帝政ロシアとは、首都をサンクトペテルブルクに置いて、ユーラシア大陸を中心に存在した帝国。

1721年に当時のツァーリ(君主)であったピョートル1世が皇帝(インベラートル:諸侯に超越する王)を宣言したことで、世界に数多く存在した王国の一つに過ぎなかった「ロシア・ツァーリ国」を「ロシア帝国」に昇格させたのが始まり。

そして、第一次世界大戦中の1917年に民衆が中心に起こした二月革命で、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世が退任して終焉するまで、およそ200年間存在した帝国です。

(出典:youtube

その帝国領土は非常に大きかったとされ、最盛期にはヨーロッパとアジア、そして北アメリカの一部(現在のアラスカ)まで広がり、帝国領土の面積は2000万㎢超。

人類の歴史上で3番目に大きな領土を持った帝国であり(大英帝国とモンゴル帝国の次に大きい)、地球全体でまだ12~13億人ほどの人口しかいなかったにも関わらず、1億人超の人口規模を抱えていたと言われます。

また、この偉大なるロシア帝国は、今日のロシア連邦のナショナルアイデンティティにも繋がっていると考えられ、非常に大きな影響力を持った帝国でした。

ロシア帝国誕生までの歴史ダイジェスト

ロシア帝国の概要を見てきたところで、ここからは早速、ロシア帝国誕生までの歴史について見ていきたいと思います。

キエフ大公国の出現

ロシアがあるユーラシア大陸ならびにその地域には様々な民族が昔から住んでいたため、歴史上、国家として何度も統一に失敗してきました。

(出典:wikipedia

そんな中、ロシアが国家として初めて統一されたのは880年頃。複数の部族のリーダーたちが集まって緩い連合国として統一したのがきっかけです。

そして、この時に成立した国がキエフ大公国(Kievan Rus)。

Kievan Rusの「Rus」からも分かる通り、現在のロシア(Russia)のルーツにもなった国です。

モンゴルの支配下で頭角を表してきたモスクワ

キエフ大公国は1237年にモンゴル帝国によって、ジョチウスル(金帳汗国とも言われる、当時のモンゴル帝国を形成していたウルスの一つ)に併合され、その後しばらく(1480年まで)、モンゴルはこの地域の政治や経済に深く関わっていくことになります。

また、ロシア側はモンゴルへ年貢を収めるなどしていました。

(出典:wikipedia

モンゴル帝国は大規模な国際取引を行なっていたため、東と西の貿易交渉が行われた場所では金銭的に豊かな新都市が生まれるようになりました。

そのような都市の一つが、現在のロシアの首都としても有名なモスクワ

そして、この地域で一大勢力となっていたモスクワはその後、同地域において実質的に、ロシア諸州のリーダー的な立場に成長していったのです。

イヴァン3世の出現とロシア・ツァーリ国の建国

1462年、イヴァン3世がモスクワ大公の座につくと、政治的な駆け引きや戦争など、様々な手段によって、モスクワの領土を4倍にまで拡大。全ての権力を手中に収めることに成功します。

同時に、モスクワの力が十分強くなったことをきっかけに、イヴァン3世はジョチウルスに対して年貢を納めることをやめ、地元領主達に対して、モスクワの中核貴族にする代わりに軍事的貢献を求め、モンゴルの干渉を一切断ち切ります。

モスクワの力はイヴァン3世の統治下でますます強まり、それはイヴァン3世が統治が終わる1505年まで続きました。

イヴァン3世の後継者ヴァシーリー3世の後、イヴァン4世がモスクワ大公になった頃には、モスクワはすでに巨大な力を持った王国と言って良いほどまでに成長していたのです。

そのため、1533年にイヴァン4世がモスクワ大公に即位してから少し経った1547年、イヴァン4世は自らを「ツァーリ」と名乗るようになり、ここにロシア・ツァーリ国(モスクワ・ロシア)の建国が宣言されます

イヴァン3世を後押ししたビジョン

イヴァン3世はロシア諸国を1つの王国に統一し、後に帝国にすべく取り組んだ結果、モスクワの支配領域を4倍にすることに成功したわけですが、それはキリスト教世界を統一するという大きな野望があったからかもしれません。

当初、キリスト教の中枢、教皇の居住地でもあるローマは、古代キリスト教の世界で中心的な力を持っていました。

そして、キリスト教会がカトリックと正教会とに分離した後、ローマの政治的権力は一部失われ、コンスタンチノープルがビザンチン帝国の中枢として、西洋世界において新たな権力を持ちます

そして当時信じられた予言では、そのコンスタンチノープルでさえ、より大きな勢力「第3のローマ」に取って代わられ、その第3のローマがキリスト教世界を統治すると言われていたのです。

(コンスタンティノープルの陥落)

しかし1453年、イヴァン3世が権力を握る直前に、コンスタンチノープルはあろうことかイスラム教のオスマン帝国によって陥落してしまいます。

その結果、キリスト教世界は新たな中央権力を求め始め、イヴァン3世は正教会のモスクワがその立場「第3のローマ」にふさわしいと考えたのです。

モスクワを第3のローマにするというビジョンは、帝国への道にロシアを推し進める大きな原動力となったと考えられるのです。

ロシア帝国の台頭

ツァーリが台頭してからは、ロシアは実質的に、すでに「帝国」と言っても良いような国になっていましたが、世界はそのように扱ってくれませんでした。

アジア各国はロシアをアジアの一部とみなしておらず、ヨーロッパ各国もロシアをヨーロッパとは考えていなかったため、国際政治においてロシアは置き去りにされていたのです。

しかし、17世紀後半に後にピョートル大帝と呼ばれるピョートル1世が新たなツァーリになってから、状況は一変します。

ピョートル1世がツァーリに即位してからというもの、ロシアはヨーロッパの国々のように近代化し、ヨーロッパ諸国から帝国として認められるための大改革を推し進めます。

例えば、ピョートル1世はロシアの政治、軍部、経済に変革をもたらすだけでなく、ロシア人のアイデンティティを、

「中央アジアや東ヨーロッパの様々な民族が入り混じった人々」

から

「ヨーロッパ人」

へ考えるように教育改革を行いました。

またピョートル1世は、代々のツァーリがそうしてきたように、ロシアの領土を拡大し続けましたが、目的は別なところにあったと言われます。

その目的とは冬でも海面が凍らない「不凍港」へのアクセスを得ること

近代ヨーロッパの経済競争へ参加するためには、不凍港へのアクセスが必要だと理解していたピョートル大帝は、黒海へのアクセスを手に入れるためにオスマン帝国と戦ったのです。

そして黒海へのアクセスを手に入れたピョートル1世は、北部の港をさらに掌握するため、「大北方戦争(スウェーデンの覇権を巡る戦い)」を開始

1721年に戦争が終結した時には、ピョートル1世はフィンランド湾沿いの4つの地域を手に入れていたのです(※この勝利以降ピョートル1世はピョートル大帝と呼ばれることになった)

目的を叶えて領土を十分に拡大した結果「帝国」の誕生が宣言される

この大北方戦争での勝利は、ピョートル大帝とロシアに大きな自信をもたらします。

また同時に、ロシア領土が西方へ拡大したことで、ロシアはついに地理的にもヨーロッパの国と考えることが出来るようになったのです。

そして、この「ロシアがヨーロッパの国になった」ことを象徴するために、ピョートルはフィンランド湾に「サンクトペテルブルグ」と呼ばれる都市を作り首都とします。

サンクトペテルブルグは街並み、快適さ、行政など、多くの面で完璧に近いヨーロッパ都市で、地理的にもロシアの中央部にあるモスクワより遥かにヨーロッパ寄りでした。

そしてついにピョートル大帝は、他のヨーロッパ帝国と肩を並べたことを示すため、1721年に自らをロシア皇帝とし、ここにロシア帝国の建国が宣言されて帝政ロシアが始まりました

ピョートル大帝の統治が終わる頃には、ロシアは黒海から太平洋まで広がる広範囲の領土を手に入れており、世界が無視できない圧倒的な力を持った帝国になっていたのです。

ロシア帝国に関して知っておきたい歴史的に興味深い話

ロシア帝国が世界に台頭するまでの歴史を見てきましたが、最後に、ロシア帝国に関していくつかの興味深い話を紹介しておきます。

ロシア帝国と混同されることもあるロマノフ朝

ロシア帝国または帝政ロシアを語る時、「ロマノフ朝」と言われることがありますが、ロマノフ朝は1613年からおよそ300年間続いたロシア王朝(君主の系列あるいはその系列が支配した時代を分類するための歴史用語)のことで、ロシア帝国とは同義でない点に注意。

ミハイル・ロマノフがロシアのツァーリになった1613年から始まり、それ以降、皇帝ニコライ2世までロマノフ王朝は続いたため、混同されることがあります。

あくまでも、ロマノフ王朝は1613年から1917年まで続いた王朝であり、1721年から1917年まで続いたロシア帝国とは別物なので覚えておきましょう。

ロシアに初めて印刷機が持ち込まれたきっかけ

ミハイル・ロマノフの息子アレクセイは、ロマノフ朝2番目のツァーリとなり、当初は善意ある穏やかな統治者として知られていました。

しかし、塩一揆が1648年に起こるなど国内で反乱が頻発すると、アレクセイは国家の統制を強め始めます。

その代表例が「農民土地緊縛立法」と呼ばれるもので、簡単に言えば都市民と農民は移動の自由を奪われるというものです。

そして、この新しい法典を国内に広めるために、ロシアへ初めて印刷機が持ち込まれたと言われます。

ロシア帝国が台頭する前に女性が実権を握った期間がある

1682年に当時のツァーリであったフョードル3世が亡くなると、政治的な理由から異なる派閥がそれぞれ推進した、イヴァン5世とピョートル1世の二人がツァーリとなる共同統治の期間がありました。

(出典:wikipedia

しかし、二人とも10代で、ピョートル1世に至ってはまだ10歳でした。

そのため、実際には彼らの姉であるソフィア・アレクセーエヴナが最高権力を保持することになったのです。

当時の貴族階級の女性は、一般的には政治とはかけ離れた存在であったため、彼女の宮廷での影響は一層印象的なものだったと言います。

ロシアが領土拡張に用いた戦略

ロシアは16世紀末に急拡大して他民族を征服していきましたが、鍵となったのがその際にとった戦略だったと考えられます。

その戦略とは、

  • 支配下に置かれた各民族は自分たちの言葉や文化を保ち続けることが出来る
  • 各民族の貴族階級は王宮に出入り出来る

といったもの。

この戦略は、モンゴルが帝国領土を広げていく時にとった戦略にとてもよく似ていて、ロシアが広大な領土一帯を占領するために一役買ったんですね。

確かに虐殺されるよりは確実に良い方法のように思えます。

大帝にふさわしい体を持ったピョートル大帝

ピョートル大帝は大北方戦争に勝利したことで大帝と呼ばれるようになったわけですが、そうでなくてもすでに「大帝」にふさわしい人物であったのかもしれません。

というのも、ピョートル大帝は203cmの身長を持った大男であり怪力で知られていたため、身体面ではすでに「大帝」だったから。

この圧倒的な肉体面での強靭さがピョートルの自信にもつながり、偉大なロシア帝国の建国に役立ったことは間違いないと思います。

皇帝は歯医者志望?

実はピョートル大帝、若い頃は歯科医になりたいと思ったことがあるそう。

かつては歯科を学ぼうと決意したことがあるらしく、その当時、彼の取り巻きだった貴族の何人かは歯の手術の練習台となることを強要されたとかなんとか。

そんなピョートルは、自らを腕の良い歯科医だと自負していたらしいです。

ちなみにピョートルの死後、小さい袋に詰められた家臣の歯(ピョートルが抜いた)がいくつも見つかっているらしく、戦々恐々としていた当時の家臣達が思いやられます。

秘密警察がいても不安になっちゃうニコライ1世

1825年から1855年までロシア皇帝の座についていたニコライ1世は、病的なほど疑り深い性格の持ち主だったそう。

(出典:wikipedia

自分のことについて悪口が言われていないかと常に気にしていたようで、当時ロシア帝国には広範囲をカバーしている秘密警察が存在していたのにも関わらず、自らも時々国内を旅して、一般市民が自分に対してどんなことを話しているのか聞き耳を立てていたんだとか。

自らの危険をかえりみず、自らの噂話をこっそりと見張っていた皇帝って・・・。

無能な男性の後に現れたスーパーウーマン

1762年にロシア皇帝となったのは、ピョートル3世と呼ばれる人物。

彼は元々ドイツ人であったにも関わらず、ロマノフ朝の血筋を引いていたため、ロシアの皇帝として即位します。

しかし、ピョートル3世はロシア語をほとんど喋れなかったばかりでなく、「無能」だとか「男性機能にも欠陥がある」などと評されていたことからも分かる通り、彼を好ましく思わない人間が数多く存在していました。

そんな中、ピョートル3世の妻であるエカテリーナ2世を支持する近衛部隊がクーデターを起こし、皇帝の座についてから6ヶ月で退任させられてしまいます(※その後殺害された)。

その後、エカテリーナ2世がロシアの皇帝の座を引き継ぎ、ロシア帝国の黄金時代として知られるスーパーウーマンの時代が到来したのです。

ロシア帝国が終焉したのはマザコンが原因???

ロシア帝国最後の皇帝として、帝国を終焉させた不名誉を得てしまったニコライ2世。

そのニコライ2世の統治下でロシア帝国が終焉する運命は、ニコライ2世が皇帝に即位した時から決まっていたのかもしれません。

ニコライ2世が皇帝に即位した当初、すでに彼は20代半ばになっていたにも関わらず、重要な政府案件への回答が求められると、事あるごとに「ママに聞いて!」とはぐらかしていたらしいんです。

合わせて読みたい世界雑学記事

ロシア帝国と歴史|帝政ロシアの台頭や鍵を握るツァーリなどを見ていこうのまとめ

長い世界史上で見ても強大な力を持つことになったロシア帝国が台頭するまでの歴史や、帝政ロシアに関するいくつかの興味深い話までを見てきました。

今日のロシア連邦のナショナルアイデンティティにも影響を与えるロシア帝国は、ロシアに関連した現在の世界情勢を読み解く上でも一つの鍵になるはずです。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

error:Content is protected !!