ヴィクトリア女王|イギリスの女王で大英帝国繁栄の歴史的象徴に関する10の知識

ヴィクトリア女王は大英帝国繁栄の象徴として知られます。彼女の治世下においてイギリスは、歴史上稀に見る繁栄を誇ったのです。

イギリスの歴史上で最も象徴的な女王の1人と考えられるヴィクトリア女王の治世下において、大英帝国は経済を発展させ、また同時に、領土を圧倒的に拡大させていきました。

そのため、彼女が統治した時代のイギリスは、ヴィクトリア朝と呼ばれることがあるなど、ヴィクトリア女王は今日になっても世界史で大きな存在感を残しています。

一方で、63年間にも渡ってイギリスを統治したヴィクトリア女王の名前は聞いたことがあっても、彼女についてよく知らないといった人も多いでしょう。

そこでこの記事では、ヴィクトリア女王について少しでも理解を深めるために、ヴィクトリア女王に関する基本的な概要から始め、その後に、知っておきたい10の知識を紹介していこうと思います。

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ヴィクトリア女王とは?

ヴィクトリア女王(1819年5月24日〜1901年1月22日)とは、イギリス・ハノーヴァー朝(1714年から1901年まで続いたイギリスの王朝)の第6代の王(女王)で、また「グレート・ブリテン及びアイルランド連合王国」の女王であり、初代インド皇帝(女帝)にもなった人物

その在位は63年7ヶ月と、女王エリザベス2世に抜かれるまでは、イギリスの国王または女王の中で、最長の在位期間を誇ったことでも有名です。

また、彼女の治世は大英帝国(イギリス帝国)における最盛期にあたり、産業革命を終えて世界をリードしていたこともあり、経済が急速に発展。

加えて、経済力を付けた大英帝国は、当時の世界において各地を植民地化・半植民地化していくなど領土の拡張が進めるなど、ヴィクトリア女王はまさに大英帝国の繁栄を象徴する女王としても知られているのです。

ちなみに、大英帝国が繁栄を極めたこともあり、彼女の治世は「ヴィクトリア朝」や「ヴィクトリア時代」と呼ばれることもあります。

さらに、彼女の子どもや孫はヨーロッパ各国の王室に嫁いでおり、また、現在(2019年2月現在)のイギリス女王「エリザベス2世」にとっては高祖母にあたります。

大英帝国を繁栄の象徴「ヴィクトリア女王」にまつわる10のこと

ヴィクトリア女王に関しての基本知識を確認したところで、ここからは早速、イギリスの歴史において重要人物である彼女について、知っておきたい10の知識を見ていきたいと思います。

ヴィクトリア女王の帝国主義においては領土が10倍に拡大した

大英帝国の最盛期となったヴィクトリア女王の治世時代、大英帝国の領土はなんと10倍にまで拡大したとされています。

その規模を別な数字で表すと、

  • 地球の全陸地面積の4分の1
  • 世界全人口の4分の1(当時でいう4億人)

を支配するほどの大帝国となり、これは、人類史上最大の帝国だとと言われるほど。

(出典:wikipedia

ヴィクトリア女王とイギリス政府は、大英帝国の領土を維持するだけには留まらず、積極的な拡大政策を取り、オーストラリア、カナダ、インド、アフリカ諸国の一部、世界にある島々の一部などが、ヴィクトリア朝時代に大英帝国に組み込まれたのです。

ちなみに、文化背景や民族背景が異なる各国を一つに結びつけるにあたって、ヴィクトリア女王の存在は非常に重要だったとされます。

これは、

  • 女性であったヴィクトリア帝国の母
  • 被支配地域の人々 その母の子供
  • だからこそ、「ヴィクトリア女王は植民地の臣民たちへ慈愛を注ぐ存在である

というイメージが広がり、各植民地において大英帝国支配への抵抗心を和らげることになったから。

さらに、女王自身も非白人達の国王やその子息を、後見したり、支援したり、自分の名前を与えるなどし、自らを中心として各地を緩やかにまとめあげていったのです。

つまり、女性であるヴィクトリア女王だったからこそ大英帝国統合の象徴になりえたのかもしれないということなんです。

大英帝国拡大の影響力を語る各地の名前

ヴィクトリア時代における大英帝国の拡大については、現在でも各地にヴィクトリア女王の名前が残っていることからも、その影響力が計り知れます。

例えば、イギリスにはヴィクトリア通りという名前の道が33本存在し、香港にはヴィクトリアパークがあり、ニュージーランドにはヴィクトリア山があるなど、世界各国にヴィクトリアの名前を冠する場所がたくさん残っています。

ヴィクトリア女王はただの飾りにすぎなかったのか?

ヴィクトリア女王がイギリス・ハノーヴァー朝第6代の王に即位した時、彼女はまだ18歳でした。

そのため、彼女は多くの相談役を積極的に雇い、その相談役から必要な知識を学ぶと同時に、彼らから国の運営に関して多くの助言を得ていました

例えば、当時のイギリスで首相を務めていたメルバーン子爵「ウィリアム・ラム」は、様々な問題に関してヴィクトリア女王の相談に乗っていたことで知られています。

また、1840年に夫のアルバートと結婚して以降、正式にはヴィクトリアが女王でアルバートは王配殿下(王の配偶者である夫)という地位であったにも関わらず、政治の役目はほとんど平等に分担され、事実上の共同統治をアルバートが亡くなるまでのおよそ20年間していきます。

そして、共同統治と言っても、実際のところアルバートの意見に頼る、またはそれによって行動することも多く、ヴィクトリア女王のイギリスの内政また外交に対する立ち位置は、多くの場合、単なる飾りのようなものに過ぎなかったという見方もあります。

しかし、仮にそれが正しかったとしても、彼女の治世が「ヴィクトリア朝」と呼ばれることは事実であり、また、上でも述べたように、彼女が君主だったからこそ各植民地の抵抗心が薄らぎ、大英帝国は圧倒的な領土を支配出来たのは事実でしょう。

ヴィクトリア女王は自ら夫アルバートにプロポーズした

17歳の誕生日パーティーの少し前、まだ女王に即位する前のビクトリアは、従兄であり「ザクセン=コーブルク=ゴータ公子」であったアルバートに出会います。

それ以後、二人は文通を続けていきました。

そして20歳の時、アルバートがイギリスに戻ると、女王となっていたヴィクトリアは、とても美形で知的な印象を持つアルバートに対してぞっこん

なんと、ヴィクトリアの方からアルバートへプロポーズしたほどで、1840年2月10日、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿のチャペルロイヤルにおいて二人は晴れて結婚したのです。

ちなみにヴィクトリアはアルバートを深く愛し、結婚した後、「人生で初めて本当に幸せを感じた」と言ったそう。

また、結婚初夜を過ごした後にヴィクトリア女王が書いた手記には、

I never never spent such an evening!!…My dearest dearest dear Albert sat on a footstool by my side, and his excessive love and affection gave me feelings of heavenly love and happiness, I never could have hoped to have felt before!

今までこんな夜を過ごしたことはなかった!!(中略)大好きな、大好きなアルバートが私の側へ座り、彼の深い愛と優しさは、私に天にも昇る愛と幸せを感じさせてくれた。こんな気持ちになるなんて思ったこともなかった!

(引用:International Business Times

と書かれていたんだとか。

9人の子供を産んだパワフルお母さん

20歳の時にヴィクトリア女王がアルバートと結婚してから間もなく、1840年11月21日には、「ヴィクトリア・アデレイド・メアリ・ルイーズ」という最初の子供(女子)が生まれます。

続いて1841年には、後のイギリス国王「エドワード7世」となる、アルバード・エドワードが誕生。

その後、さらに3人の息子と4人の娘を出産するなど、ヴィクトリア女王は合計9人の子宝に恵まれたパワフルお母さんでした。

また、子どもたちは皆健康に生まれ、大人になるまで成長しましたが、これは、当時としては非常に珍しいことだったと言われます。

ちなみに、この9人の子供達はその後にヨーロッパの王室へ嫁ぎ、 ヴィクトリア女王は最終的に42人の孫に恵まれました

バッキンガム宮殿を住居とした初のロイヤルファミリー

女王に即位してほどなく、ヴィクトリアは亡くなった叔父で国王であったウィリアム4世が所有していたバッキンガム宮殿に移り住みます。

これにより、ビクトリア女王が在位中にバッキンガム宮殿で暮らす初めての君主となりましたが、生活するにあたって様々な問題が露わになりました。

イギリスロイヤルファミリーページには、

Her marriage to Prince Albert in 1840 soon showed up the Palace’s shortcomings.

840年にアルバート公と結婚したことで、バッキンガム宮殿の問題が浮上することになった

(引用:The home of the Royal Family

と書かれており、その問題の例として、「子供部屋が全く無かった」とか「ゲストを迎え入れる寝室がほとんど無かった」といった点が挙げられています。

その後、ヴィクトリア女王主導の下でバッキンガム宮殿は改修が進み、現在では公務の場、そしてエリザベス2世のロンドンにおける住居として使われているのです。

帝王教育を施されるために同年代の子供達とはほとんど交流出来なかった

1830年に国王であったヴィクトリアの伯父であるジョージ4世が死去すると、ジョージ4世の弟「ウィリアム4世」が国王となります。

またこの結果、ヴィクトリアは議会によって「暫定王位継承者」に認定され、将来の王になるための帝王教育も強化されていきました

(出典:wikipedia

そして、この中で母であるヴィクトワール・マリア・ルイーザ・オブ・サクス=コバーグ(ケント公妃)は、ヴィクトリアがいつの日か女王になったも大丈夫なように、後に「ケンジントン・システム(Kensington System)」と呼ばれる厳しいルールを基にした教育を施していくようになります。

その結果、ヴィクトリアは同じ年頃の子供たちと交流する時間をほとんど持てず、また、常に大人の監督下にあり、女王に即位するまで母親と同じ部屋で寝起きすることを強いられたと言います。

ヴィクトリア女王はマルチリンガルだった

若きヴィクトリア女王は語学の才能に長けており、英語とドイツ語が堪能でした。

母親であるヴィクトワールも家庭教師もドイツ系だったこともあり、ドイツ語を話して育ち、後にこれもまたドイツ系のアルバートと結婚してからは、夫とドイツ語で会話をしていたとさえ言われます。

さらに、フランス語、イタリア語、ラテン語も学んでいたらしいのです。

加えて、1887年、女王の下で使用人として働くようになったインド人のアブドゥル・カリームによって、ヴィクトリア女王はヒンドィー語ウルドゥー語によるたくさんのフレーズを覚えたとされます。

実際、ヴィクトリア女王は自らの手記の中で、「今まで接することのなかったインドの人々の言葉や彼らと接することは非常に興味深い」とも書いていたそうです。

大英帝国の女王は何回もの暗殺未遂を生き延びた

在位中にヴィクトリア女王は何度も命を狙われたと言われます。

初めて暗殺されかけたのは、1840年、18歳のエドワード・オックスフォードがロンドンで女王の馬車に向かって発砲した時。

オックスフォードは反逆罪で告訴されますが、最終的に精神異常を理由に無罪放免となったとされます。

そして、1842年には2人の男が女王を撃とうとし、また、1849年にはアイルランド人移民で無職のウィリアム・ハミルトンが女王の馬車を襲撃しようとしました。

ヴィクトリア女王に対する最後の大きな暗殺未遂は、1882年3月に起こりました。

スコットランド人の詩人ロデリック・マクリーンが、ウィンザー駅から出発した女王の馬車に向かってピストルで発砲。

ちなみに、マクリーンによるヴィクトリア女王の暗殺未遂は、これが8回目だったと言われます。

とにもかくにも、このように多くの暗殺未遂が起こったものの、ヴィクトリア女王は生き延びたのです。

クリスマスの習慣を作ったのはヴィクトリア女王

クリスマスと言えばクリスマスツリーが欠かせませんが、クリスマスツリーを飾る習慣ができたのは、ヴィクトリア女王と夫アルバートのおかげ。

特に、1948年に夫のアルバートが飾り付けをしたツリーをウィンザー周辺の学校や兵舎に送ったことが、その後、一般家庭の間でもクリスマスツリーを飾る習慣の火付け役となりました。

また同年、ヴィクトリア女王や女王の子供達が一緒にツリーの飾り付けをしている姿が写真で公開されると、多くの中産階級の間で好感が広まり、そのこともまた、「クリスマスツリーを飾る」習慣を後押ししたのです。

ヴィクトリア女王は鉄道に乗った初めての君主

産業革命を終えたことで経済発展が目まぐるしく起こっていたというのが、ヴィクトリア朝において大英帝国が拡大していった一つの理由ですが、この産業革命はイギリス全土に鉄道網を広げました。

そして、ヴィクトリア女王は、公務の中である日、鉄道に乗ることになります。

それは1842年に起こりました。

ウィンザー城近くのスラウ駅から、ロンドン西部のパディントン駅までの約30分の鉄道の旅を、当時23歳だったヴィクトリア女王は楽しんだのです。

そして、このことは「君主として初の電車の乗車記録」と言われています。

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ヴィクトリア女王|イギリスの女王で大英帝国繁栄の歴史的象徴に関する10の知識のまとめ

イギリス史に残る有名人で、大英帝国の繁栄を象徴したヴィクトリア女王について、基本知識から知っておきたい10の知識までを紹介してきました。

近代における大英帝国を理解する上でも、また、その後の国際情勢を理解する上でも、絶対に名前を耳にすることになるであろう重要人物です。

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