イギリスとフランスの関係について見ていきましょう。過去には幾度も戦争をした両国間の仲は良いのか悪いのか?二つの国の不思議な関係について理解を深めたい人は必見です。
西ヨーロッパに位置するイギリスとフランスは、細いドーバー海峡に隔たれているだけの隣国同士で、両国の歴史は非常に長くて動乱の激しいものでした。
互いに数え切れないほど戦争をし、政治的な対立や緊張を数多く経験してきたイギリスとフランスは、ヨーロッパ諸国の中でも特に独特な関係性にあると言えるでしょう。
一方で、イギリス人とフランス人はいつも敵対していたのでしょうか?
お互いに戦争をしたのはどうしてなのでしょうか?
イギリスとフランスの仲を表現するとしたら、「不思議で複雑な関係なんです」と答えるのが最も時間を取らない簡潔で最適な答えだと言えるかもしれません。
この記事では、主に戦争を主軸に、他にも両国民の遺伝子に関する発見や、両国をつなぐ交通手段、他にもスポーツ上のライバル関係などを紹介して、この2国間の関係について理解を深めていきたいと思います。
- イギリスとフランスの関係① ノルマン・コンクエスト(ノルマン征服)によって持ち込まれたフランス語と文化
- イギリスとフランスの関係② 百年戦争が両国のライバル心を煽る
- イギリスとフランスの関係③ アメリカ独立戦争ではイギリスとフランスが敵対した
- イギリスとフランスの関係④ イギリス人のDNAの45%はフランス人
- イギリスとフランスの関係⑤ 世界大戦時におけるイギリスとフランス
- イギリスとフランスの関係⑥ ド・ゴールによるEEC加盟拒否
- イギリスとフランスの関係⑦ 英仏海峡トンネル
- イギリスとフランスの関係⑧ ラグビー!
- 合わせて読みたい世界雑学記事
- イギリスとフランスの関係|戦争したのに仲がいいの?悪いの?のまとめ
イギリスとフランスの関係① ノルマン・コンクエスト(ノルマン征服)によって持ち込まれたフランス語と文化
1066年といえば、イギリスではよく知られた年。
というのも、ノルマン人(いまのフランスに住んでいた北方系ゲルマン民族)がドーバー海峡を超えてイングランド王国)に侵攻し、イギリス王の座を奪取してノルマン朝を開いたのが1066年だから。
ノルマンディー公ウィリアムが、イギリス海峡を渡ってフランスのノルマンディー地方からイギリスに上陸した時、フランス語とフランス文化も一緒にイギリスに持ち込まれました。
よって、英単語の45%がフランス語を語源としているのは、驚くべきことではないかもしれません。
この二つの言語はそれぞれ、
- 英語
- インド・インドヨーロッパ語族のゲルマン語派
- フランス語
- インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派
に属していることから、大きな語族では同じグループに含まれるものの、より細かい語派という単位では異なってくるのです。
そのため、昔の英語は今の英語ほどフランスと語彙を共有することは無かったのではと考えられます。
しかし、約1000年前にノルマンディー地方で話されていたフランス語が元になった語彙が英単語の半分近くのを占めるようになった点を考えると、ノルマン・コンクエストが英語のあり方を大きく変えることになったと言っても過言ではないでしょう。
このように、実は今日のイギリス社会には英単語以外にも、ノルマン・コンクエスト当時のフランスの影響が色濃く残っているんです。
イギリスとフランスの関係② 百年戦争が両国のライバル心を煽る
イギリスとフランスの関係を語る時に歴史上の重要な出来事「百年戦争」も忘れてはいけません。
1337年に始まり、英国の勝利で1453年に終わったこの戦争は、116年間続いたイギリス(当時はイングランド)とフランス間の戦争です。
この百年戦争が始まったのには主に、
- イギリス側がアキテーヌ地方を、自国の管理下に置きたかったこと
- アキテーヌ地方は英国領でありながらフランス統治下にあり、フランスとイングランド双方が主権を争った係争地
- 英国王室がフランス王室を狙っていたこと
の2つの理由がありました。
そして、116年間もの長期間続いたということは、色々な展開があり、たくさんの戦いが勃発したという意味で、実際、56もの戦いがあったと言われています。
また、同時期に起こった疫病の流行などの影響もあり、フランスは人口のおよそ半分を失い、イギリス側も人口の30%前後を失ってしまいました。
結果的にこの百年戦争以降、両国ではそれぞれナショナリズムが高まり、現在の国民意識につながる礎が醸成されていくと同時に、両国がそれまで以上にお互いを意識するようになったのです。
ある意味、現在のイギリスとフランスのライバル関係の直接的原因の一つと言えるかと思います。
ちなみに、百年戦争中に勃発した戦争の一つにオルレアン包囲戦がありますが、ここでフランス軍を率いてイングランド軍に勝利したのが有名なジャンヌダルク。
ジャンヌダルクはフランス軍を勝利に導いた立役者でした。
しかし、フランスのために活躍したのにも関わらずジャンヌダルクは、親イングランド派のブルゴーニュ人によってイギリス側に売り飛ばされてしまいます。
そして、イギリス側の法廷で異端として死刑判決を受け、火刑に処せられしまうのです。
イギリスとフランスの関係③ アメリカ独立戦争ではイギリスとフランスが敵対した
1775年から1783年まで続いたアメリカ独立戦争は、イギリス本国とアメリカ東部沿岸のイギリス領の13植民地との戦争のこと。
イギリスにとっては非常に激しい戦争であったと同時に、途中からフランスが関与したことで事態がより複雑になりました。
イギリス領であった13の植民地は、イギリス管轄下の政府に不満を抱くようになり、緊張が高まった結果、1775年にイギリスと植民地との間に戦争が勃発。
アメリカの独立を求める運動が始まります。
一方のフランスは、この戦争が始まった当初から秘密裏に反乱軍を支援しており、1778年、正式にこの紛争に参加することを決定して植民地側につきます。
これは、アメリカ独立戦争が、フランスにとっては昔から因縁の関係を持つ仇敵イギリスを弱体化させられる機会だと捉えたのが理由だと言われます。
その後、1783年にパリ条約がアメリカとイギリスの間で結ばれ、これによってアメリカ独立戦争は正式に終了し、イギリス側もアメリカの独立を認めることになります。
また、この時同時に、フランスとイギリス(※実際にはスペインも含まれた)の間にはヴェルサイユ平和条約が結ばれました。
イギリスとフランスの関係④ イギリス人のDNAの45%はフランス人
見てきたように、イギリスとフランスの長い歴史の中では、両国の国民が傷つけ合うような戦争が多く起こってきました。
その結果、イギリスとフランスはお互いをライバルとして見なし、また、それぞれの国民はライバルとは「違い」という強い意識を持つことになりました。
しかし、この両国の国民にショッキングな「生物学的事実」が近年明らかになったのです。
それは、
- イギリス人のDNAの45%はフランス人のDNAと一致する
というもの。
しかも、ノルマン人がイングランドを征服して以降にフランス人のDNAが入っただけではなく、どうやらそれ以前からすでにフランス人のDNAが混じっていたらしいのです。
つまり、お互いにいがみ合ってきたイギリスとフランスは、最初から「兄弟げんかをしていた」ような仲だったと解釈出来るんです。
(参照:ONLINEジャーニー)
イギリスとフランスの関係⑤ 世界大戦時におけるイギリスとフランス
第一次世界対戦は、オーストリアのフランツ・フェルディナント大公が暗殺されたことをきっかけに、オーストリアがセルビアに宣戦布告をしたことで幕開けとなりました。
ロシアがセルビアへの支援を発表し、その後ドイツがオーストリア防衛のため、ロシアに対して参戦することを表明。
そしてロシアと同盟国であったフランスがドイツに宣戦を布告し、ドイツ軍がフランスに勢力を広げるためにベルギーを侵略したことからイギリスも後に続きました。
わずか数日の間にヨーロッパほぼ全域が参戦することとなったのです。
三国協商としてイギリスとフランスは味方同士になった
フランスとイギリスが共にドイツへ宣戦布告した結果、両国はロシア側に加わり三国協商(さんごくきょうしょう)と呼ばれる同盟が結ばれました。
恐らくフランスとイギリス両国の長い歴史を見ても、これほど大きな戦争の中で同じ側で戦うのは初めてだと言って良いでしょう。
1917年にロシア革命が起こったためにロシアが三国協商から退いた後も、イギリスとフランスはドイツ側に対抗する連合国軍の一員としてアメリカの支援の下で戦い続け、ついに大きな勝利を一緒に手にしたのです。
1918年11月11日、休戦協定が結ばれ、イギリスとフランスが属する連合国側が勝利することになりました。
第二次世界大戦でも味方同士になった
イギリスとフランスはさらに1939年、ナチス軍がポーランドを侵略したことがきっかけで、共に第二次世界大戦に参戦し、ここでも味方同士として一緒に勝利をおさめることになります。
イギリス、フランス、ソビエト連合、アメリカ、中国などの間に同盟が結ばれて連合国が出来上がります。
連合軍は枢軸国であったナチスドイツ、イタリア、日本に勝利するため協力し戦いました。
そして、第二次世界大戦中にドイツに侵略されてしまったフランスを救って解放したのは、なんと長年の仇敵であったイギリスの力によるものだったのです。
フランス解放後、連合軍がドイツを占拠し、間もないうちにドイツが降伏することになり、それから4ヶ月後には広島と長崎に原爆が投下されることになります。
イギリスとフランスの関係⑥ ド・ゴールによるEEC加盟拒否
1963年、当時のフランスの大統領シャルル・ド・ゴールが、イギリスの欧州経済共同体(EEC)への加盟に拒否権を行使したことで、2つの世界大戦ではパートナーであったイギルスとフランスの関係に疑問が抱かれることとなります。
EECは欧州連合の前身で、ヨーロッパ諸国間に共通の市場を築くことを主な目的として1957年に設立されました。
そのため、当初、ヨーロッパの国であるイギリスも問題なく加入すると思われましたが、ドゴールはイギリスに対して、
- イギリスが独自の共通市場発足に向けた動きを展開している
- イギリスはEEC加盟条件に関する協議への参加も拒否した
- アメリカと緊密な関係を持つイギリスが加入するとアメリカが影響力を及ぼすかもしれない
といった点から懸念を持ち、EECへのイギリス加盟を拒否したのです。
その後、加盟の手続きは停滞し、結局、イギリスは1973年にデンマークとアイルランドと一緒にEECへ加盟しました。
イギリスとフランスの関係⑦ 英仏海峡トンネル
英仏海峡トンネルは、イギリスのグレートブリテン島とフランス領土に属するヨーロッパ大陸を結ぶ鉄道用の海底トンネル。
長さは海底部だけでも37.9kmになり、陸上部を含めれば50.5kmになる非常に長いトンネルで、1日400台もの列車が通過し、ヨーロッパの中でも主要な二つの都市、ロンドンとパリを結ぶ貴重な交通手段となっています。
そんな英仏海峡トンネルの開通は1994年になってからのことでしたが、計画の発端は1751年のフランスにまで遡ります。
その後、長い時間をかけてフランスが練ったアイデアを、1855年に開かれたパリ万博に模型として展示。
それから13年後の1868年には、イギリス側に英仏海峡トンネル委員会が発足。
その後、100年以上をかけて両国が協力し、ようやく開通までたどり着いたのです。
したがって、英仏海峡トンネルは、イギリスとフランスの結束を象徴する建造物だと言えるかもしれません。
イギリスとフランスの関係⑧ ラグビー!
スポーツの世界こそ、ライバル心が最も強くなると言って過言ではないはず。
そして、そのスポーツの中でも特にイギリスとフランスのライバル関係が現れると言えるのがラグビー。
特にヨーロッパの6ヵ国が参加する国際ラグビー大会の「シックス・ネイションズ」は、歴史上の友好関係やライバル関係が集約されているため、両国のライバル関係を観察する上では最たる例だと言えるかも。
また、サッカーにしろラグビーにしろ、国際試合でイギリスは、「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」としてではなく、イギリスを構成するイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドに別れて出場するため、特に「イングランド vs フランス」は長い歴史的なライバル関係によって両国の闘争心が燃えます。
ちなみに、「イングランド vs フランス」のラグビーの国際マッチは、1906年3月22日に初の試合が行われてから、これまで104回の試合が開催されており、
- イングランド
- 57勝
- フランス
- 40勝
と、現在のところはイングランドが勝ち越しています(※2018年10月現在)。
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イギリスとフランスの関係|戦争したのに仲がいいの?悪いの?のまとめ
イギリスとフランスの関係を理解する上で大切な戦争や生物学的事実などを紹介してきました。
見てきた通り、両国の関係は非常に長くて複雑。
そのため、一言で理解出来るようなものではありませんが、現在は比較的仲が良い状態が続いていると言えるかもしれません。