ベルリンの壁について詳しくみていきます。建設された理由からベルリンの壁崩壊による影響など、歴史を追いながら確認していきます。
資本主義体制の西側と共産主義体制の東側に世界が分断された冷戦時代、ヨーロッパにおいても東西両陣営の緊張状態「鉄のカーテン」が続いていました。
その鉄のカーテン時代のヨーロッパにおいて、東西の分断を象徴する建造物として現れたのが、ドイツの首都ベルリンに突如として建設されたベルリンの壁。
崩壊するまでの28年間、ベルリンを東西に分け続けてきました。
この記事では、そのベルリンの壁について、詳しい概要から歴史までを見ていきます。
その過程で、建設が始まった理由やベルリンの壁崩壊による影響なども確認出来るので、東西冷戦時代を知るためにも、そしてベルリンの壁について理解を深めるためにも参考にしてください。
ベルリンの壁とは?
ベルリンの壁とは、1961年から1989年にかけてドイツのベルリンに建設されていた東西冷戦の象徴とも言える建築物で、西ベルリンの周囲を取り囲むよにして東ベルリンおよびそれ以外の東ドイツ地域との交通を完全に遮断した壁のこと。
第二次世界大戦後の1949年、東西ドイツが成立して両ドイツの国境は封鎖されたものの、一つの街が二つに分断されたベルリンでは東西の行き来が続いており、特に専門家や知識層、そして熟練労働者の西側への脱出が相次ぎました。
そのため、潜在的な経済的損失ならびに国力の低下に危機感を覚えた東ドイツは、西側への人口流出を食い止める目的で、1961年8月13日に突然、西ベルリンを有刺鉄線で覆うようにして東ドイツ側から遮断。
その後、あっという間にコンクリートの壁を作ってベルリンの壁を完成させたのです。
しかし、1989年11月9日、冷戦末期を迎えていた東ドイツは、国民の旅行及び国外移住の大幅な規制緩和を実行。
それと同時に翌日の11月10日には民衆による壁の破壊が始まり、東西ドイツを遮断していたベルリンの壁は建設された時と同じように、あっという間に崩壊したのです(ベルリンの壁崩壊)。
ベルリンの壁は28年間にわたり、ソ連を中心とした共産主義体制と、西側の資本主義体制とが対立した「東西冷戦」または「鉄のカーテン」の象徴であったため、ベルリンの壁が崩壊したとき、世界中が歓喜に沸き、これをキッカケに共産体制の東欧諸国では次々に共産党が倒されていったのです。
ベルリンの壁の規模や建設プロセスについて
ベルリン市内の中心部を通り、また西ベルリンの周囲までを取り囲み、西ベルリンを完全に東ドイツから遮断していた事実からも分かる通り、ベルリンの壁のサイズは非常に巨大。
その全長は、およそ155kmにもなったと言われます。
一方でベルリンの壁は、28年間の歴史のなかで以下のように4度にわたる大きな転換期を迎えました。
- 当初は有刺鉄線の姿で現れた
- 1961年8月13日、西ベルリンが完全に隔離された当初は壁ではなく、コンクリートの支柱に有刺鉄線を張り巡らしたフェンスだった
- コンクリートのブロックを積み上げて有刺鉄線を張った姿に変貌した
- それから数日後の8月15日、コンクリートのブロックを積み上げた上に有刺鉄線を張った構造物となり、より頑丈で長持ちする構造物に作り替えられた
- 1965年にコンンクリート製の壁の姿になった
- 鋼を骨組みに使って支えにしたコンクリート製の壁が作られた
- 1975年から1980年にベルリンの壁は最終形態となった
- その歴史の中で最も複雑かつ綿密に計画された構造で、高さ3.6m、横幅1.2mの鉄筋コンクリート造りの平板で建てられており、壁のいちばん上の部分には、人がよじ登って乗り越えることが出来ないような工夫がされていた
このように、東西ドイツを隔てる象徴として存在した巨大な規模を誇ったベルリンの壁は、崩壊するまでに4段階の変貌と経ていったのです。
ちなみに、1989年にベルリンの壁が崩壊するまでベルリンの壁の内側には、デスストリップと呼ばれる無人地帯と、さらに別の壁があり、これらが東西ベルリンの越境をさらに困難にしていたことも、東西ドイツを完全に遮断していた理由の一つ。
それに加えて、東側では軍用犬を連れた兵士がパトロールし、足跡がないか地面を徹底的に捜索しました。
また、進入車両防御用の段差や、電気柵、無数の照明設備、302ヵ所におよぶ監視塔、20ヵ所の掩体壕(えんたいごう:装備や物資、人員などを敵の攻撃から守るための施設)、地雷までもが設置されるなど、東側は徹底的に人口流出を食い止めようとしたのです。
ベルリンの壁の検問所はどのようなものだったのか?
東西ベルリンの国境線上では、ほぼ全ての地点で越境防止措置が何重にもとられており、壁を越境できる検問所は数えられるほどしか存在していませんでした。
こうした検問所は、特別に許可された政府関係者などが時折、通行するために利用されていたのです。
(アメリカ側から見たチェックポイントチャーリー:出典:wikipedia)
当時の国境検問所のなかで最も有名なのが、東西ベルリンの国境線上にあるフリードリヒ通りに置かれていた「チェックポイント・チャーリー」でしょう。
チェックポイント・チャーリーは、西側諸国軍関係者および西側諸国の外国人が国境を超える主な検問所として利用され、ベルリンの壁が建設されてからは冷戦の象徴的なポイントとなりました。
そのため、当時の映画や書籍には、このチェックポイント・チャーリーが頻繁に取り上げられています。
ベルリンの壁の歴史:建設理由からベルリンの壁崩壊までを詳しく見ていこう
分断されたドイツと首都ベルリン
第二次世界大戦が終結すると連合国は、敗戦国ドイツを4つに分割。
ポツダム会談での合意に基づき、それぞれをアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の四ヵ国が占領し、ドイツの首都ベルリンについても同様に、四ヵ国による統治が行われることになりました。
(出典:wikipeida)
しかし、共産主義体制を敷いていたソ連と資本主義体制の3ヵ国との関係は、それからほどなくして悪化。
その結果、ドイツ占領における協調的な雰囲気は崩れ、対立し攻撃的な状況へと変化していきます。
そして、この状況で起きた出来事の最たる例が、1948年6月に起こったベルリン封鎖でしょう。
このときソ連は、西ベルリンへ通じる物資の運搬路を全て封鎖したのです。
ドイツの再統一は連合国内の関係悪化によって分断されたままとなる
最終的にはドイツの再統一を目指してはいたものの、連合国内で起きた関係性の悪化により、ドイツ統治は、
- 西側と東側との対立
- 資本主義 vs 共産主義
- 自由主義 vs 社会主義
という対立の構図へと変化していきました。
そして1949年、アメリカ、イギリス、フランスが分割占領していた3地域は、統一されて西ドイツ(ドイツ連邦共和国)となり、正式に新たな国家が成立。
それを受けてソ連は、直ちに東ドイツ(ドイツ民主共和国)を成立させました。
またこれによって、ベルリンでも西側と東側への分断が起こります。
(オレンジは西ドイツ・緑は東ドイツ。緑の中に見える小さなオレンジ部分が自由主義の孤島西ベルリン:出典:wikipeida)
しかし、当時のベルリンの街はソ連の占領地域内に位置していたため、共産主義・社会主義体制下の東ドイツ国内で、西ベルリンは資本主義・自由主義の孤島となってしまったのです。
西ドイツと東ドイツの間に経済的な格差が生じる
西と東に分かれたドイツの間では、戦後まもなくして経済そして生活の水準に明らかな差が生じてきます。
西ドイツは西側諸国の支援の下、資本主義社会を構築。経済は飛躍的な成長を遂げて「奇跡」ともいわれる経済復興を果たしました。
西ドイツ市民は勤勉に働き、良い暮らしをし、便利な道具や家電を購入し、望むままに旅行にも行けるようになったのです。
一方の東ドイツでは、状況はほぼ真逆でした。
ソ連は東ドイツを戦利品とみなし、東ドイツ国内から工場の設備や、価値の高い品々を持ち出し、ソ連へと輸送してしまいました。
また、1949年に東ドイツが建国された時、ソ連の直接的な影響を受け、東ドイツでもソ連モデルの共産主義・社会主義が構築された結果、東ドイツ経済は低迷し、個人の自由は厳しく制限されてしまったのです。
東側からの人口大量流出
ベルリンを除いて東ドイツは1952年に要塞化されます。
(東ドイツの国旗)
抑圧的な生活環境に対する東ドイツ市民の忍耐はもはや限界に達していたため、1950年代後半までに多くの東ドイツ市民が国外脱出を望むようになり、その目的地は大抵西ベルリンだったのです。
途中で失敗した者もいましたが、何十万もの東ドイツ市民が越境して西ベルリンへ逃れます。
ひとたび国境を越えることが出来れば、東ドイツ難民はまず西ベルリンにある倉庫に収容され、その後、空路で他の西ドイツ地域へと搬送されていきました。
そして、これら東ドイツ側からの難民の多くは青年層、熟練労働者、専門家、知識層など、国を支える上で非常に重要な人口層であったため、1960年代初頭までに、東ドイツは急速に、労働力と人口のどちらも失っていったのです。
ちなみに、1949年から1961年までの間に、およそ270万人近い東ドイツ市民が西側へ流出したと推定されています。
人口流出を食い止めるための計画を始めた東ドイツ
人口の流出源は、東ドイツ市民が容易に西ベルリンに行き来できることであったのは明らかで、東ドイツ政府は、この人口の大量流出を食い止めようと必死でしたが効果的な手立てが打てません。
それまでソ連の支援を受けて、西ベルリンを併合しようとする試みが幾度にも渡って実行されましたが、アメリカとその他の西側諸国によって自由主義の西ベルリンが死守されてきたのです。
しかし、国力をこれ以上低下させたくない東ドイツは、この人口流出をなんとか食い止めるための対策を打たないといけないことが分かっていました。
そのような状況の中、「東西ベルリンを隔てる国境の強化目的で何かが始まる」という噂が広まっていた1961年6月15日に、当時の国家評議会議長であったヴァルター・ウルブリヒトが、「誰も壁を作ろうなんて思っていない」と発言。
この発言を覆すかのように、それからおよそ2ヶ月後、ベルリンの壁が突如として現れたのです。
ちなみに、その2ヶ月の間だけでもおよそ2万人もの東ドイツ市民が西側へ逃れたと言われています。
ベルリンの壁の建設が始まる
1961年8月12日から13日にかけての真夜中をちょうど過ぎた頃、兵士と建設作業員を乗せたトラックが、ガタガタと音を立てながら東ベルリン市内を走り抜けていきます。
ベルリン市民のほとんどが眠りについている間に、兵士と作業員たちは西ベルリンへの入口となる通りの舗装を剥がしていったのです。
さらに、穴を掘ってコンクリートの支柱を立て、東ベルリンと西ベルリンとの境界線上に有刺鉄線を張り巡らし、東西ベルリンを通る電話線も切断され、鉄道も封鎖されました。
(出典:wikipedia)
翌朝目を覚ましたベルリン市民は、衝撃を受けます。
それまで往来可能だった国境が、完全に閉ざされてしまったのです。
その結果、東ベルリン市民達は次のような状況に陥りました。
- どんな目的であっても越境が不可能となってしまった
- オペラや演劇鑑賞、サッカーの試合観戦などの目的で越境することは出来なくなった
- 約給料水準の高い仕事のために西ベルリンへ通勤することが不可能になった
- 多くの人が職や稼ぎを失った
- 国境を越えて、家族や友人、恋人に会いに行くことが叶わなくなった
8月12日の夜、眠りについた場所が東と西、どちら側であったにしろ、ベルリンの壁によって、それから何十年と反対側へ行くことは出来なくなってしまったのです。
ちなみにこの時、東ドイツ政府から発せられたプロパガンダでは「東ドイツ市民はベルリンの壁を歓迎している」と発表されていました。
しかし実際には、東ドイツの人々は政府に抑圧され、口を閉ざすしかなかったのです。
東ベルリンからの逃亡計画とデス・ストリップ
ベルリンの壁によって、大半の東ドイツ市民は西側へ移住することができなくなりましたが、逃亡をすべて防ぎきれたわけではありません。
ベルリンの壁が存在していた時代、およそ5000人が西側への逃亡に成功したと見られていることからも、完全に国外流出を封じられたわけではなく、これが、ベルリンの壁が4度も姿を変えた理由の一つです。
初期の逃亡例としては、
- ベルリンの壁の上へロープを放り投げ、よじ登って壁を超える
- トラックやバスで壁に突っ込んでそのまま逃亡する
といった単純な方法で成功した者もいました。
また、そのような方法が難しくなると今度は、「ちょうど壁の国境線上に位置していた建物の上層階の窓から飛び降りて逃亡する」といった、自殺めいた方法で逃亡を図る者が出てきました。
そのため、1961年9月には、こうした建物の窓は板で塞がれ、東から西へ通じる下水道は遮断され、建物は取り壊され、「デス・ストリップ」と呼ばれることになる無人地帯となります。
このデスストリップでは実弾を発砲しても良いとされ、逃亡しようとする者は何者も躊躇してはならないとする射撃命令を、東ドイツ兵士は実行し始めたのです。
その結果、壁の建設後、最初の一年以内に29名が射殺されたと言われます。
その後、ベルリンの壁がより頑丈に、大規模になるにつれて、逃亡を図ろうとする者もより巧妙に逃亡計画を練るようになりました。
例えば、
- 建物の地下からトンネルを掘り、ベルリンの壁の下を通過して西ベルリンへ逃れる
- 布きれの廃材を集めて熱気球を作り、壁の上を飛び超えて越境する
といった具合です。
しかし不幸なことに、逃亡計画のすべてが成功したわけではありません。
ベルリンの壁の東側に近寄ろうとした者は、「誰でも警告なしに国境警備員が射撃しても良い」とされてからは、いかなる逃亡計画にも死の危険がつきまとい、結果としてベルリンの壁付近では200名前後の人々が射殺されたと考えられています。
ベルリンの壁の犠牲者の中で最も悪名高く自由への戦いを象徴する出来事
ベルリンの壁の犠牲者の中でも、50人目の犠牲者の事件は「世界に衝撃を与えた事件」として知られています。
事件は1962年8月17日に起こります。18歳の青年2人が昼下がりに、ベルリンの壁をよじ登ろうとして壁に向かって走っていきました。
一人目の青年は、壁をよじ登ることに無事成功しましたが、2人目のピーター・フェクターは成功しなかったのです。
(ピーター・フェクター:出典:wikipedia)
フェクターがまさに壁を乗り越えようとしたその時、国境警備員が発砲。
フェクターは登り続けようとしましたが、あと少しのところで壁の上まで届きそうになりながらも力尽き、東ドイツ側の地面に転落。
フェクターは1時間近くも苦しみ続けて叫び、やがてフェクターが出血多量で息絶えると、ようやく東ドイツの警備員はその遺体を回収していったのです。
世界中にとって衝撃だったのは、フェクターが地面に転落した後も、何もされずその場に放置されたことでした。
東ドイツの警備兵達は、ピーターを射殺することもせず、かといって救助することもしなかったのです。
フェクターはベルリンの壁で射殺された50人目の犠牲者となり、自由を得るための闘いを永遠に象徴する事件となりました。
共産主義の崩壊
1980年代半ばになってくると、共産圏を主導するソ連が行き詰まり、共産主義体制が弱まっている兆候が現れ始めます。
そしてその頃に新しくソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフは、祖国を救うため、ソ連の衛星国の多くと関係を絶つことを決断。
1988年および1989年に、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアで共産主義体制が崩壊し、東ドイツ市民にとって、西側へ逃れる大脱出のチャンスがチラつき始めました。
東ドイツ国内ではそれまで、書記長のエーリッヒ・ホーネッカー政権が、武力の脅威を以って政府に対する抗議活動を抑え込んでいましたが、ゴルバチョフの後ろ盾を失ったホーネッカーは、1989年10月に辞職を余儀なくされます。
後任には、「武力では東ドイツが抱える問題を解決することはできない」とする、エゴン・クレンツが就任。
クレンツは、東ドイツからの大幅な出国規制緩和を検討していくのです。
ベルリンの壁崩壊
ベルリンの壁の崩壊は、建設されたときとほとんど同じように、突然の出来事でした。
1989年11月9日の夕方に突如、東ドイツ政府関係者のギュンター・シャボフスキーが「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と勘違いで発表してしまったのです(※まだ閣議決定される前で生好きな精霊になっていなかった)。
また、当時の書記長エゴン・クレンツも、「旅行許可に関する出国規制緩和」に関しては次のように考えていたようなのです。
東ドイツ市民は誰でもベルリンの壁の検問所に行けば通行が認められる、などとは思わなかった。とんでもないことを意味するものがそこにある、とは思わなかった。
それまでと同じく旅行許可を役所に申請しなければならず、これで大量出国の問題について時間を稼ぎ鎮静化できると考えていた。
(引用:wikipedia)
しかし、シャボフスキーの発表後、東ドイツ市民が半信半疑で国境付近へ行ってみると、本当に国境警備員が人々を通行させていました。
その結果、ベルリンの壁の東西両側にはあっという間に人々が殺到。なかには、ベルリンの壁をハンマーやのみで砕き始める者も現れます。
ベルリンの壁沿いでは、大勢の人々が抱き合い、キスし、歌ったり、喜び合ったり、あるいは泣き出したりといった、自然発生的なお祭り騒ぎが起こりました。
そして、ハンマーやつるはし、その他の建設機械がどこからともなく民衆によって持ち出され、ベルリン市民は自主的に壁を破壊し始め、これがベルリンの壁崩壊へと繋がったのです。
ベルリンの壁が崩壊した後、東西ドイツは再び統一され、1990年10月3日、統一国家としてのドイツ連邦共和国となりました。
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ベルリンの壁|崩壊までの歴史:理由や影響を詳しくー東西冷戦時代の象徴ーのまとめ
ベルリンの壁は、やがて小さな破片に砕かれて崩壊しました(硬貨程度の大きさのものもあれば、大きな板ほどの大きさのものもある)。
そして、これら冷戦時代を象徴するベルリンの壁の破片は収集品となり、現在、一般のコレクターや美術館などによって保管されています。
また現在、ベルナウアー通りには、ベルリンの壁記念碑もあります。
とにかく、長く続いた冷戦時代に作られ、そして冷戦が崩壊するキッカケの一つとなったのが、ベルリンの壁であり、また、ベルリンの壁崩壊なのです。