アリストテレスは偉大な古代ギリシャの哲学者です。彼の思想は哲学のみならず、政治学や自然学など、現代の学問や科学へ多大な影響を与えてきました。
世界は今まで、多くの天才が時として偉大な発見をし、人類の知恵や生活を変えてきた事実を目撃してきてきました。
そしてこの天才達の中には、古代に活躍した数々の哲学者も含まれるわけですが、その優れた哲学者の中でもアリストテレスは特に、現在の科学や学問へ多大な影響を与えて貢献した人物であると言えるでしょう。
古代ギリシャの哲学者である彼は、生涯を通じて意義深い発見をし、また、より発展した思想の構築を通して、現代にまで繋がる数々の学問を体系づけていったのです。
この記事では、その生涯や興味深い4つの話などを紹介して、大哲学者アリストテレスについて掘り下げていこうと思います。
アリストテレスとは?
アリストテレス(紀元前384年〜紀元前322年3月7日)とは、古代ギリシャに生きた大哲学者の一人。
現在、人類が知恵や知識、または学問として学ぶ、非常に多くの分野に影響を与えて多大な功績を残し、また、西洋からアラブ世界にかけてまで影響を与えた人物です。
その範囲は近代哲学はもとより、倫理学から論理学、美学、政治学、物理学や生物学などの自然研究までと多岐に及び、また、それぞれの体系づけにも貢献したことから、「万学の祖」や「諸学の父」などと呼ばれることもあります。
また、アラブを含めたイスラム教世界においては「最初の教師(The First Teacher)」として、また、西洋世界においては「無類の哲学者(The Philosopher)」としても知られていました。
一方で、意外なことにアリストテレスは、師匠であったプラトンの影に隠れて生前はそこまで注目されていませんでした。
しかしアリストテレスの死後、古代末期である紀元前初め頃から啓蒙時代(17世紀後半〜18世紀)にかけて、彼の著作は強い影響力を持つようになり、その後の哲学や学問の発展へ大きく貢献していくことになったのです。
ちなみに、アリストテレスの英語表記は「Aristotle」となりますが、この名前はギリシャ語の「aristos(最高の)」と「telos(目的)」に由来するとされます。
アリストテレスの生涯
アリストテレスの生い立ち
アリストテレスは紀元前384年に、ギリシャ北部の町スタゲイロス(後のスタゲイラ)で生まれました。
彼の両親は共に伝統的な医者の家系出身で、父のニコマコスはマケドニア王アミュンタス3世の侍医でした。
しかし、アリストテレスは幼いころにその両親を亡くしており、結果的にスタゲイロスにある親戚の家で育ったのではないかと考えられています(※小アジアのアタルネウスに住むアリストテレスの姉とその夫プロクセノスが後見人となったという説もある)。
17歳になると、プラトン主催の学園「アカデメイア(西洋社会初の高等教育機関の様なもの)」で学ぶためにアテナイ(アテネ)に送られ、以後20年間、この学校で学生そして教師として過ごします。
ここでアリストテレスは、教師の教えに対して尊敬の念を抱くとともに、批判的な独自の考えも育んでいきました。
アリストテレスの師であるプラトン後期の著作を見ると、初期のころよりも柔軟な姿勢をとっているのが分かりますが、これはおそらく最も才能ある生徒であったアリストテレスと数多くの議論を経た結果ではないかと考えられています。
(プラトンとアリストテレスが意見を戦わせている場面を描いた絵画:中央右がアリストテレス)
アカデメイアを去ってアレクサンドロス3世の家庭教師となった
紀元前347年にプラトンが亡くなると、プラトンの甥であったスペウシッポスがアカデメイア学頭に選ばれます。
そして、この直後にアリストテレスはアテナイを去っていますが、これについては、
- アカデメイアの体制に対する不満によるものなのか?
- 彼の家系がマケドニア王国と繋がっているために政治的な理由でアテナイにいづらくなったためなのか?
- それとも他の理由によるものなのか?
など、いくつかの憶測があり、はっきりとは分かっていません。
その後5年間、アリストテレスはアカデメイア時代の生徒を頼り、小アジアのアッソスや、レスボス島で過ごしました。
またこの頃、アリストテレスは革新的な海洋生物学の研究を始め、さらにピュティアスという女性と結婚し、二人の間には娘(母と同じ名前でピュティアス)が一人産まれています。
後のアレキサンダー大王の家庭教師としてマケドニア王国へ招聘される
紀元前342年、アリストテレスはマケドニア国王フィリッポス2世によって招聘され、王子アレクサンドロス3世の家庭教師となります。
このアレクサンドロス3世こそ、後にアレキサンダー大王と呼ばれるようになった人物です。
ちなみに、偉大な歴史上の人物二人が顔を合わせたこの出来事は、アレキサンダーの見識を広げ、大帝国を築く過程において少なからず影響を与えたという意見もいれば、アレキサンダーにはほとんど影響を与えなかったと考える意見もいます。
アリストテレスとリュケイオン
紀元前335年、アリストテレスはアテナイに戻ります。
そこでプラトンのアカデメイアと同じ様な学園(教育機関)を作ろうとしたのです(この学園の開設に関しては王であったアレキサンダー大王がパトロンとしてついてた)。
しかし、アテナイ生まれでなかったアリストテレスは、土地や物件を所有することができなかったため、彼はアテナイ郊外にあるリュケイオン(格闘技などの体育場があった場所)を借ります。
リュケイオンでプラトンのアカデメイアと同じような学園を開設すると、ギリシャ文化圏にある地域全体から生徒が集まるようになり、そこはアリストテレスの教えを中心とした学問の場となりました。
また、その地名がそのまま「リュケイオン」として学園の名前となりました。
加えて、「他人が書いた本を研究するのは哲学の重要な過程である」というアリストテレスの方針に従い、リュケイオンは様々な書物を集めたことで、世界で最も古い大図書館の一つにもなったのです。
リュケイオンからの追放とアリストテレスの死
紀元前323年にアレキサンダー大王が没すると、アテナイでは反マケドニア感情が高まり、大王の家庭教師であったアリストテレスはアテナイ(もちろんリュケイオンも)を追われてしまいます。
そしてその翌年、アリストテレスはアテナイから北北西へ少し離れたカルキスという街で、消化器官の病気によって命を落としました。
享年62歳でした。
その後、アリストテレスの遺体は、数年前に亡くなった妻ピュティアスの横に埋葬されました。
ちなみに、妻が亡くなった後、アリストテレスはヘルピリスという名の奴隷と関係を持っており、二人の間には息子ニコマコス(祖父であるアリストテレスの父と同名)が誕生しています。
そして一つの話として、このニコマコスは成長すると父アリストテレスの著作を編集し、10巻から成り立つ「ニコマコス倫理学」という研究書をまとめたという説が存在します。
アリストテレスの死後とその遺産
アリストテレスの死後影響力を失っていったリュケイオン
一方のリュケイオンは、アリストテレスが去った後に彼のお気に入りであった弟子によって引き継がれましたが、ほんの十数年でその影響力は衰え、影響力を増してますます発展するアカデメイアに対抗できなくなってしまいました。
このこともあり、以後数世代、アリストテレスの著作や思想は忘れ去られてしまったのです。
歴史家のストラボン(紀元前63年頃〜23年頃)曰く、
アリストテレスの著作は小アジアのとあるカビの生えた倉庫にしまってあった
らしく、紀元後1世紀に再発見された彼の著書は、全体のほんの一部にすぎませんでした。
紀元後30年、ロードス島出身のアンドロニコスが中心となってアリストテレスの著作を編集し、これ以降のアリストテレスの編纂はこれが原型となります。
そして、ローマ帝国が崩壊した後、アリストテレスの著作はビザンツ帝国(東ローマ帝国)に受け継がれ、その後、イスラム世界においても有名になりました。
中世以降のアリストテレスの影響力
13世紀にアリストテレスの思想は、アルベルトゥス・マグヌス、そしてトマス・アクィナスの著書を通じて西洋世界に再編入されます。
中でもトマス・アクィナスは、アリストテレス哲学とキリスト教の思想を見事に結び付け、中世後期のカトリック哲学、神学、そして科学の基礎を築き上げていったのです。
一方で、その後のルネサンス期、そして宗教改革(16世紀の中世末期)の時代になると、アリストテレスの影響は若干衰えます。
これは、当時の宗教や科学の改革者が、カトリック教会とアリストテレス哲学の包摂を疑問視するようになったからです。
さらに、ガリレオやコペルニクスといった科学者は、アリストテレスの唱えた天動説を批判し、また解剖学者のウィリアム・ハーヴェイは、アリストテレスの生物学に関する定説の多くを廃しました。
とは言え、アリストテレスの思想は、論理学、美学、政治論そして倫理学を研究する際のスタート地点であったことは間違いなく、今日までも一定の影響力を持ち続けているのです。
アリストテレスに関する興味深い4つの話
アリストテレスの著作の多くはリュケイオン時代に記された
アリストテレスが著作の多くを記したのは、リュケイオンに学園を開設して、そこで教えていた期間だったのではないかと考えられています。
実際、その期間にどれほどの著作が生まれたのか、具体的な数字を知る術は残されていませんが、生涯で残した200近い著作のうちほとんどは、この時期に生まれたとされます。
しかし残念ながら、今日現存しているのはそのうちたった31作で、以下のように大きく4つのカテゴリに分類されます。
- オルガノン
- いかなる哲学的また科学的研究にも使える論理の方法論を提示している
- 理論的な研究
- 『自然学』
- 自然界の事物やその変化に関する研究 。物理学、天文学、気象学など
- 『形而上学』
- 存在とは何かについて考えた神学的ともいえる研究
- 『自然学』
- 実践的な研究
- 『倫理学(ニコマコス倫理学)』と『政治学』
- 両者は共に人間繁栄の性質を個人、家族、社会のレベルで深く問い詰めたもの
- 『倫理学(ニコマコス倫理学)』と『政治学』
- 人類の制作した作品そのものの研究
- 『弁論術』と『詩学』(レトリックと詩学)
- 例えば「巧みに書かれた悲劇がいかにカタルシス的な恐怖と哀れみを生み出すことができるか」というテーマに関する非常に説得力のある議論も含まれていた
- 『弁論術』と『詩学』(レトリックと詩学)
ちなみに、アリストテレスの著作はとても濃密な一方で、あちこちに話が飛び回る執筆スタイルで知られています。
そのため、アリストテレスの著作として知られている物は、実は「彼が学園で使用した講義メモだったのではないか」という仮説も存在するのです。
実際、アリストテレスの著作は完結した書物として書かれた物ではありません。
また、今日まで残っているアリストテレスの著作に比べて、失われてしまった著作の方に、より質が高い著作が多く含まれていたのではないかという主張もあります。
アリストテレスは王達の先生
アリストテレスは偉大なる大王「アレキサンダー」の家庭教師であることは有名ですが、アリストテレスで学んで後に王となったのはそれだけではありません。
後にエジプトでプトレマイオス朝を開くプトレマイオス1世と、アレキサンダー大王亡き後のマケドニアで王となったカッサンドロスも教え子だったのです。
プトレマイオス1世はアレキサンダーが生きていた頃、重臣として彼に仕え、カッサンドロスはアレキサンダーがマケドニア王国を離れている間、マケドニアの留守を任された重臣アンティパトロスの息子でした。
二人とも、アレキサンダー大王の死をきっかけにして、それぞれの地で王の座に就いたのです。
自然研究のために動物解剖を始めた
アリストテレスがその後の数々の学問へ影響を与えたことを考えると、当時としては非常に先進的な人だったことが分かります。
彼は世界で起きている事象を研究するために、新しい思考法や考えを実践し、また、世界について詳しく観察し、観たものを記録していきました。
そんなアリストテレスはまた、動物の生体構造についてより深く探求したいと考え始めた結果、当時の西洋社会ではおそらく初めてと言って良いであろう「解剖実験」を始めたのです。
それまでの古代ギリシャの哲学者と教育者は、観察はせずに思考のみで探求をして世界について考えていたため、より実証主義に近いアリストテレスの姿勢は、近現代科学の発展には欠かせない一歩であったと言えるでしょう。
ニコマコス倫理学にまつわる異なる仮説
アリストテレスの生涯のところで、息子のニコマコスがアリストテレスの著作を編集し、ニコマコス倫理学をまとめたという説を紹介しました。
しかし、このニコマコス倫理学の起源については、異なる説もあります。
それは、息子ニコマコスは若くして戦争で亡くなってしまったため、息子に捧げるために記念としてアリストテレスによってまとめられたという説です。
また、息子のニコマコスにではなく、アリストテレスの父であるニコマコスへ捧げた物ではないかという主張もあります。
このように、ニコマコス倫理学については、そもそも、
- 誰が編集したのか?
- 製作目的は何だったのか?
について、ちょっとした謎が残っているのです。
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アリストテレスとは?その思想は哲学を超えて政治学や自然学まで影響した万学の祖のまとめ
古代ギリシャの偉大な哲学者アリストテレスについて詳しく見てきました。
ローマの哲学者キケロは「プラトンの言葉が銀だとするならば、アリストテレスは輝く黄金の川のようだ」という言葉を残していることからも分かるとおり、アリストテレスが後世に与えた影響は非常に大きなものだったのです。