パンクラチオンは古代ギリシャのスポーツであり格闘技。また、実戦における戦闘術としても利用されました。そのパンクラチオンについて、ルールや歴史など、詳しく紹介していきます。
古代ギリシャに起こった文明や文化は、その後の世界に大きな影響を与えてきましたが、その一つがオリンピックでしょう。
紀元前9世紀にはオリュンピア大祭と呼ばれる古代オリンピックが開催され、その中で人々は、異なる競技でそれぞれの力や技を競ったのです。
そして、この古代オリンピックの競技として採用された一つに「パンクラチオン」が存在しました。
パンクラチオンは簡単に言えば、現在盛んな総合格闘技のようなもので、古代ギリシャ世界においてはスポーツや格闘技として人気を博すと同時に、実戦で役立った戦闘術でもあったのです。
この記事では、その古代ギリシャのスポーツであり格闘技であるパンクラチンについて、特徴やルール、そして歴史などを含め、詳しく紹介していこうと思います。
古代の格闘技パンクラチオンとは?
パンクラチオン(pankration)は古代ギリシャにおいて、最も人気のあるスポーツまたは格闘技の一つでした。
そのパンクラチオンとは、「レスリング」と「ボクシング」の二つを組み合わせたようなもので、同時に「蹴る」ことも認められていたのが特徴。
古代ギリシャ語で「全て」を意味する”pan”と、「強さ/力」を意味する”kratos”に由来していることから分かる通り、パンクラチオンとは「全ての力」という意味になり、あらゆる手段を用いて相手を倒す格闘技でした。
その起源は紀元前2千年紀(紀元前2000年〜紀元前1001年)の古代ギリシャまで遡ることが出来ると言われ、紀元前648年に開催されたオリンピックからは競技種目として追加されたことで、民衆の間でも大きな人気を博すこととなったのです。
ちなみに、打撃と組技を合わせたパンクラチオンで勝ち上がるためには、最強の力と比類ないスタミナが必要とされ、最強の軍人国家として知られる古代ギリシャの「スパルタ」では、このパンクラチオンを基に軍事訓練を行っていたと言われるほどです。
また、パンクラチオンで鍛えられた兵士達は、ファランクス陣形(古代において用いられた重装歩兵による密集陣形)で優れた力を発揮すると高く評価され、かの有名なアレクサンダー大王は、優先的に自身の軍隊にパンクラチオン経験者を採用したと言われています。
パンクラチオンの誕生
紀元前2千年紀の古代ギリシャにおいて、徐々に形成されていったパンクラチオンは当初、
- 相手がギブアップすることのみで勝敗が決する
- 目潰しと噛みつき以外はなんでもあり
- 指や骨を折ること、腹部や性器を蹴ることなど、その他の行為は全て許させていた
という非常に粗暴な格闘技であったために、競技者の死亡が絶えませんでした(※スパルタでは上のルールさえも無かったとされる)。
ルールが整備されたスポーツとしての側面が徐々に強化されていくのは、紀元前648年のオリンピックに競技種目として導入されて以降のことです。
オリンピックに導入されて以降は、上記のルールに加えて、
- 泥土か砂地にて争われる
- 日没までに勝者が決まらなかった場合には、互いに顔面を順番に殴り合って決める
- パンチを避けてはならない
というルールが追加されました。
ただし、それでもオリンピックへ導入さればばかりの頃は、血まみれで熾烈な戦いを求める観客には興奮冷めやまぬ壮大なショーを提供する一方、競技者にとっては未だに危険を伴う競技であり、重傷者のみならず死者が出た記録も何件か残されています。
劣勢な立場にありながら降参することを拒む競技者が多かったため、最終的には命を落とすことがまだまだ少なくなかったのです。
しかし、ギリシャの各都市がより洗練された文明社会として発展するにつれ、成人男性によって競われたパンクラチオンは、男児のための競技となって激しさが緩和されていき、紀元前200年よりこの男児のためのパンクラチオン競技が、オリンピックに登場することとなります。
そして、紀元前200年を過ぎた一定の時期から、一方または双方の選手の生命に危険があると審判員が判断した場合、試合を中断することが可能になり、より安全性の高い競技へと変貌していったのです。
パンクラチオンのトーナメントと試合の進め方
パンクラチオンの試合はとても人気を集めたこともあり、パンクラチアスト(競技者)が勝利と栄光を求めて戦う機会はオリンピック以外にも設けられていました。
ほとんどのギリシャの主要都市においてトーナメントが多数開催され、パンクラチアストはそこで試合に望んだのです。
トーナメントの進め方
トーナメントは神に捧げる特別な儀式とともに幕を開けました。
そして、次のステップでトーナメントが進められていきます。
- 前に出てゼウスに祈りを捧げた選手が一人ずつクジを引いていく
- クジにはα、β、γといった文字が一組ずつ描かれている
- 同じ文字同士の選手が対戦することになる
- 例:αを引いた二人の選手が対戦、βを引いた二人の選手が対戦
- 審判員がそれぞれ確認して周る
- 試合が終わると勝者は再度クジを引く
- 最後まで残った一人が優勝する
以上のステップで、最終的なトーナメントの優勝者を決めたのです。
試合の進め方
現在の総合格闘技の様にパンクラチオンには、大きく分けて2つのポジションが存在していました。
その2つとは、以下のポジションです。
- アノ・パンクラチオン(Ano Pankration:上パンクラチオン)
- 立ち姿勢で戦うポジション(スタンディングポジション)
- カノ・パンクラチオン(Kano Pankration:下パンクラチオン)
- 地面で戦うポジション(グランドポジション)
まず競技は、立ち姿勢の「アノ・パンクラチオン」から始まります。
ここでの主な目的は、相手をノックダウンすることで、通常はパンチやキックといった打撃が繰り広げられることとなりました。
そして、相手が地面に倒れると「カノ・パンクラチオン」が始まり、地面での攻防に有効な関節技や締め技といったテクニックが主に利用されました。
ただし、選手によっては、アノ・パンクラチオンであっても相手の背中に周って首を締めたり、逆に、カノ・パンクラチオンであっても相手を殴打するなど、その攻防は自由に行われ、それぞれの選手は自分の得意な戦闘スタイルで戦ったのです。
そのため、パンクラチオンの選手達は、相手を倒すのに好んで使った技にちなんだ「あだ名」で呼ばれることが多くあったと言われます。
例えば、試合開始直後に対戦相手の指を折るのが得意だった選手は、「指先」と呼ばれるといった具合です。
また他にも、出身地による特徴もあったらしく、スパルタ人たちは敵を倒すのに強烈な足払いを使う傾向にあり、エーリス人たちは喉輪を仕掛けるのが上手かったと言います。
ただの格闘技やスポーツではない戦闘技術としてのパンクラチオン
その起源が紀元前2千年紀まで遡るとされるパンクラチオンは、人類史上最も古い古代の格闘技の一つであることは間違いありません。
一方で、パンクラチオンはその競技としての面が強調されることが一般的ですが、古代ギリシャにおいては、軍事訓練に用いられていただけでなく、実戦における戦闘術としても使われていたと考えられています。
例えば、紀元前480年にスパルタ人がペルシャ人と繰り広げた戦闘「テルモピュライの戦い」では、300人のスパルタ重装歩兵が武器を全て失うと、非武装での格闘技「パンクラチオン」の技術(素手、足、歯を用いる)を使って、最後までペルシャに立ち向かっていったと言われます。
アレキサンダー大王とパンクラチオン
また、最初の方でも触れた通り、マケドニア王国が得意とした重装歩兵による密集陣形「(マケドニア式)ファランクス」において、パンクラチオンの技術は大いに役立ったため、格闘技好きのアレキサンダー大王は、パンクラチオンで優れた成績を残した者の軍事的能力を高く評価。
パンクラチオンに長けた人物を価値ある軍事的資産と考え、積極的に採用しようとしていたのです。
実際、アレキサンダー大王は、紀元前326年のオリンピックで優勝したアテネのパンクラチオン選手「ディオクシパス(Dioxippus)」を、側近の一人として採用しています。
ちなみに、ディオクシパスとパンクラチオン技術の強さに関しては、次のような逸話が残っています。
ある日、ディオクシパスがアレキサンダー大王率いるアジア遠征への参加を志願すると、アレキサンダー大王は自らの精鋭兵士の一人であった「コラグス(Coragus)」との戦いを命じます。
この戦いにおいて、コラグスは武器や防具を装備した完全武装だったのに対して、ディオクシパスは裸で、手にしていたのは棍棒のみでした。
しかし、ディオクシパスはパンクラチオンの技術を使ってコラグスを追い込み、大王の仲裁がなかったら、コグラスは殺されていたかもしれないほどの圧勝を収めたのです。
アレキサンダーのマケドニア軍が連戦を重ねて東方へと遠征を続けていく中で、パンクラチオンの技術も一緒に東方へ伝えられていったとされます。
最終的にパンクラチオンは、南アジアのインダス渓谷辺りまで普及したと考えられ、ペルシャやインドの格闘技に影響を与え、中には中国の格闘技にまで影響を及ぼしたという主張も存在するほど。
これは、中国の格闘技の一部は、古代インドの格闘技の影響を受けているものも存在するというのが理由です。
古代ローマ時代における吸いたいと現代における復活
パンクラチオンはその後、古代ローマにおいても普及し、ラテン語で「pancratium(パンクラティウム)」と呼ばれるようになりました。
しかし西暦393年(紀元後393年)、キリスト教徒であった東ローマビザンチウム皇帝テオドシウス1世によって、剣闘やその他の異教徒の祭典と共にパンクラチオンも禁じられました。
これにより、ついにパンクラチオンの存在は、その後、時間と共に薄れていってしまったのです。
しかし1969年、ギリシャ系アメリカ人の格闘家、ジム・アルヴァニチス(Jim Arvanitis)によって今一度復活を遂げ、アルヴァニチスのパンクラチオン普及活動によって、70年代半ばにはその名前が再び知られるようになりました。
また、実現はしなかったものの、2004年のアテネオリンピックでの採用を目指して、1999年には「国際パンクラチオン・アスリーマ連盟(IFPA)」が結成されています。
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パンクラチオン|古代ギリシャのスポーツ/格闘技のルールや歴史のまとめ
古代ギリシャにおいてスポーツや格闘技として人気を博士、実戦においては非武装戦闘技術として用いられたパンクラチンについて見てきました。
パンクラチオンの流れは、現在の総合格闘技に繋がっていると考えられるため、この古代格闘技に思いを馳せながら総合格闘技を見てみるのも一興かもしれません。