ペルシャ文明・文化とペルシャ人に関して、興味深い10の話を紹介していきたいと思います。言葉の意味を確認することから始めて、ペルシャに対する理解を深めていきましょう。
ペルシャは古代より世界に対して、非常に大きな影響を与えてきました。
例えば、古代に興ったペルシャ帝国は歴史的に見ても圧倒的な領土を獲得することに至ったり、他にも現在の社会において日常的に使われるものの中には、ペルシャ人が発明したと言われる物が存在します。
そのため、ペルシャの文明や文化、そしてペルシャ人の歴史を知っておくことは、世界史だけでなく現代社会を見る上でも役立つと言えるのです。
この記事では、そのペルシャとペルシャ人について、10の興味深い話を紹介していこうと思います。
ただし、「ペルシャ」と「ペルシャ人」が意味するものは、時代や文脈によって微妙に異なるため、まずはこの記事における両者をしっかりと定義することから始めていきましょう。
まずはペルシャとペルシャ人についてを簡単に定義!
「ペルシャ」の定義
ペルシャとは1935年以前まで、西洋において今日のイランとその周辺の広大な地域を指す言葉として使われていた公式名称。
イラン高原南西部の「パールサ」と呼ばれる地方と、古代にこの地へ存在した「ペルシャ帝国」に由来している言葉です。
なかでもペルシャ帝国は、現在のイランを中心に非常に広大な地域を支配していたため、特に古代においてペルシャとは、その広大な地域までを含めた名称。
歴史と共にペルシャ帝国の後継国家「イラン」が現在の領土に収まっていくに連れて、「ペルシャ」という言葉が対象とする地域範囲も狭まってきました。
また、「ペルシャ」という言葉はあくまでも「エクソニム(外国人によってつけられた地名の呼称)」であり、この地へ昔から住んでいた人々は「アーリア/イラン」などと呼んでいたため、現在のイランという名称こそが、実は現地で使われていた本来の名称だと言えるのです。
この「イラン」という名称は1935年以降は徐々に一般的となり、1979年に成功したイラン革命で国名が「イラン・イスラム共和国」となってからは、同国がペルシャと呼ばれることはほぼなくなりました。
ただし、「ペルシャ」という言葉は歴史的・文化的に大きな意味と高い価値を持つため、
- 現代史以前のイランを指す場合に(歴史的な文脈で)用いられる
- 特に、現在のイランだけでなく過去にペルシャ文化の影響下にあった地域までを含めて指すことが多い
- 文化的な文脈で用いられる
- イランに受け継がれる文化を指す場合はペルシャ文化などと言う場合がほとんど
といったポイントを抑えておくことが重要。
この記事でも「ペルシャ」とは、上記2つの意味で使っていきます。
なお、「イラン」という言葉は、現代社会における政治や経済の文脈で用いられるのが一般的です。
「ペルシャ人」の定義
また、現在のイランは多民族国家であり、そこには、イラン地域の出身で同地に長く世代を超えて暮らしてきた「ペルシャ人」以外にも、アゼルバイジャン人、クルド人、アルメニア人など、異なる起源や民族的背景を抱える人が多く含まれます。
そのため、古代ペルシャ帝国から繋がり歴史的・文化的な背景で意味をなす「ペルシャ」と言う言葉の特徴を考えた場合、この記事の中でペルシャ人とは単にイラン国籍を持つ者ではなく、
- 古代から世代を超えて同地に住み続けてきた歴史的・文化的意味合いでのイラン人
を指すこととします。
ペルシャやペルシャ人にまつわる興味深い10の話
地図で見ると実感する!広大な領地を支配下にしたペルシャ帝国
世界史の中でその名前が頻繁に登場する「ペルシャ帝国」は、今日のイランを中心に興亡を繰り返した一連の王朝を呼称する総称で、そこには、
- アケメネス朝(紀元前550〜紀元前330年)
- アルサケス朝(紀元前247年頃〜紀元後224年)
- ササン朝(紀元後226年〜紀元後651年)
の3つが含まれるというのが基本です。
中でも、アケメネス朝時代のペルシャ帝国は非常に広大な地域を支配下に置き、その領土は、西は現在の南ヨーロッパや北アフリカの一部から、東は現在の中国やインドの一部までに広がっていました。
(アケメネス朝最盛期のペルシャ帝国領土地図)
そして、アケメネス朝も含めた3つの王朝時代には、ゾロアスター教が信仰されていたという特徴があります。
一方で、ペルシャ帝国の対象となる王朝を、ガージャール朝(1796年〜1925年)にまで広げた解釈も存在します。
ペルシャ人は世界初の人権宣言を起草した!?
現在のイランからは想像出来ないことですが、大英博物館でも国連でも確認されていることとして、いわゆる「人権」に関する宣言を世界で初めて起草したのは、ペルシャ人だっと考えられています。
(出典:wikipedia)
この人言宣言は「キュロスの円筒印章」と呼ばれる、紀元前539年頃にアケメネス朝ペルシャの初代国王「キュロス2世」の命令で作られた円筒に記されており、そこには、
- 諸民族を解放すること
- 弾圧や圧政を廃すること
など、主に人種、宗教、言語などの平等に関することから、奴隷や国外退去になった人々を故郷へ戻す機会を設けることなど、寛容な支配を推し進めた様子が描かれており、現在では人類史上において初の人権宣言はペルシャ人によって行われたと考えられるのです。
「楽園」という概念もペルシャが起源か?
楽園、英語で言うと「Paradise」という概念が生まれたのも、ペルシャだったのかもしれないと言われます。
具体的にはペルシャ帝国の中でも最初のアケメネス朝時代以前に遡るかもしれず、現在から3000年〜4000年前、つまり起源前2千世紀(紀元前2000年から紀元前1001年まで)の間に、現在のイランにあたる地域で誕生したゾロアスター教の開祖「ゾロアアスター」にまつわる伝説から、そのことが分かります。
それは、
- 荒涼とした不毛の大地に「楽園」のような人々の集う庭を作り上げた
という伝説です。
そして、古代ペルシャ語において、手入れの行き届いた庭のことを「pairi-daeza」と呼び、ここからギリシャ語の「paradeisos」やフランス語の「paradis」につながり、現在の英単語の「paraise(パラダイス/楽園)」という言葉に繋がっていったと考えられるのです。
ちなみに、なぜ「楽園」という概念がペルシャで生まれたかについては、異なる説を唱えることが出来るかと思いますが、その一つとして、
- イランには地形的にも気候的にも過酷な環境である地域が多い
- 夏はうだるような暑さに対して冬は寒い
- 岩だらけの不毛な山が多い
- ただし、荒涼な地形の合間には緑に覆われた土地や森が散見される
- よって、不毛な大地出身の人が豊かな自然に出くわした結果、その光景が一種のインスピレーションとなって理想郷である「(地上の)楽園」という発想に繋がったのではないか?
といった仮説も成り立つのではないでしょうか。
ペルシャ人は世界で初めて垂直軸の風車を作った!?
一般的に風車としてイメージする物と言えば、回転する羽が垂直に付いてる(回転軸は水平になっていっる)水平軸の風車だと思いますが、回転する羽が水平について回転軸が垂直になっている「垂直軸風車」と言うのもあります。
実はこの垂直軸風車、人間社会において初めて作ったのはペルシャ人だと考えられており、1500年ほど以前には既に存在していたようなのです。
そしてペルシャ人は、この技術を穀物を引いたり水を組み上げるために応用し、日常生活に取り入れていた可能性が考えられます。
換気・冷房・冷蔵などの技術もペルシャ人は独自に編み出した!
紀元前400年頃には既に、冷房や冷蔵などの技術を編み出して「古代の冷蔵庫」を、ペルシャ人は生活の中に取り入れていたよう。
その冷蔵庫とは「ヤクシャール(Yakhchal)」と呼ばれる構造物で、ドーム状の地上部分からは想像出来ないほど広大な貯蔵スペースが地下へ広がっていました。
そして、地下部分は断熱効果のある材料で形成されており、加えて用水路や換気が自然と起こる構造を有していたため、その地下スペースは現代で言う冷凍庫並みの温度を保つことが出来たのです。
この独創的な構造物のおかげでペルシャ人は、氷を貯蔵したり、夏の酷暑の中でも食品を長期に渡って貯蔵することを可能にしたのです。
コートを作ったのもペルシャ人!?
またペルシャ人は、現在のファッション界に貢献した重要な人々なのかもしれません。
と言うのも、動物の革で作られた体にピッタリとフィットするコートを最初に作ったのは、ペルシャに暮らしていた古代ペルシャ人かもしれないから。
ペルシャは、例えば山岳地帯など、非常に冷える地域を抱えているため、防寒具としてコートが作られたのではないかと考えられているのです。
その後、コートはヨーロッパへ広がり、よりファッションを重視したデザインへと進化していったのではないでしょうか。
ペルシャ人の男の子は5歳になるまで父親にあわせてもらえなかった?
他の封建的制度社会と同様に、古代のペルシャでは国内の慣例的な規律に厳格に従うことが求められており、特に貴族階級においてはその傾向が顕著だったよう。
中でも古代ギリシャの歴史家ヘロドトスが残した、「ペルシャ人の男の子は5歳になるまで、父親の前に姿を現すことが出来なかった」という話は興味深いでしょう。
加えて、5歳から20歳までは、成人男性として大切なことを身につける期間として、馬の乗り方、弓の使い方などの手ほどきを受けたと言います。
さらに、古代ローマの歴史家ストラボンの話では、ペルシャ人の若者の訓練と兵役は24歳まで続き、その後は除隊を認められたことなどが説明されています。
一方、彼らは50歳になるまで、必要とあれば兵役につかなければいけない義務があったらしく、これらの背景が紀元前5世紀までアケメネス朝が、巨大な軍事力を保つことが出来た大きな理由なのかもしれません。
重騎兵はペルシャが起点となったのか!?
鎧で重武装するだけでなく馬に乗って戦う重騎兵達は、近現代史においても様々な戦闘で活躍しており、例えば19世紀始めのナポレオン戦争の中で起こった一連の戦いで、ナポレオンによって重騎兵は重宝されました。
その重騎兵に関しては、古代ペルシャで存在が確認されているイラン系部族のマッサゲタイが始まりで、戦場で大きな戦闘力となるほどに進化を遂げた結果、しだいにアケメネス朝ペルシャにも取り入れられていったと考えられています。
そして、アケメネス朝からササン朝ペルシャ時代にかけてまで、献身的なエリート部隊として、また戦場では機動力と破壊力を兼ね備えた部隊として、戦場で大活躍しました。
一方、重装備のペルシャ人騎兵の影響を直接受けたのは、主に隣接する様々な文明で、その影響はセレウコス朝、ローマ帝国、そしてアラブ世界にまで及びます。
各国は様々な鎧の開発などを進めて重騎兵部隊の戦術を発展させ、最終的には上に挙げた西ヨーロッパを広範囲に巻き込んだナポレオン戦争でも重宝されることとなったのです。
ペルシャ帝国を支えた「不死隊」
また、重騎兵だけでなく、領土拡大を成し遂げたペルシャ帝国を支えていた兵士達の中には、「不死隊」と呼ばれる部隊の存在がありました。
この不死隊はペルシャ人兵士の中でも精鋭だけを集めた1万人の部隊で、体格、力とスタミナ、戦闘技術がトップレベルの戦士だけが参加していました。
戦闘において、一人の兵士が殺されるのはもちろん、怪我を負って戦闘能力が落ちると、瞬時に新しい兵士が補充されるため、敵にとっては倒しても倒しても際限なく強い兵士が現れるような状態が続き、これが「不死隊」と呼ばれる所以です。
軍隊において制服を採用したのはペルシャが最初!?
現代において一般的にイメージされる西洋風の軍服とは違いますが、軍隊に制服(ユニフォーム)を採用したのは、これまたペルシャ帝国に生きたペルシャ人が最初だったと言われます。
(出典:wikipedia)
アケメネス朝が軍隊の制服という概念を最初に取り入れ、ササン朝時代に軍服は華やかな物へと変わっていったようです。
具体的には、豪華な宮廷文化の一端が垣間見えるようなデザインや組み合わせで、黄金、紫、赤、深紅などの多種多様な豪華な色が用いられていました。
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ペルシャ文明・文化とペルシャ人の歴史や発明に関する10のことのまとめ
ペルシャ文明や文化、そしてペルシャ人に関して、興味深い10の話を紹介してきました。
過去の人類社会において非常に大きな影響力を持ったペルシャについて理解を深めておくことは、今日の現代社会を見るに際しても大切だと思います。