メソポタミア文明とは?特徴や歴史などを簡単に解説

メソポタミア文明とは、世界最古の文明とも言われる有名な古代文明の一つです。その特徴や歴史などを簡単に解説していきます。

現在のイラクやシリアの一部の地域にかつて存在した古代メソポタミアには、豊かな文明が花開きました。

その文明はメソポタミア文明と呼ばる古代文明の一つで、「文明のゆりかご」などとも呼ばれる「四大文明」や「六大文明」に含まれる文明の一つです。

メソポタミア文明はおよそ3000年近く続き、その中では異なる民族による王国が興亡を繰り返し、同時に様々な文化が花開くなど、歴史に富んだ文明だったと言えます。

この記事では、そのメソポタミア文明を知るためにも、概要、場所、歴史、特徴などを通して、詳しく見ていこうと思います。

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メソポタミア文明とは?いつ始まったのか?

メソポタミア文明とは、チグリス川とユーフラテス川流域のメソポタミアと呼ばれた地域に発生した古代文明

人々が意図的に互いに近く住み、政治・経済・宗教・文化などの拠点として文明が形成されていく「都市文明」としては世界最古のもの。

紀元前3500から紀元前3000年の間、シュメール人による都市国家が多く形成されていった時期が、一般的にはメソポタミア文明の始まりとされます。

その後、ソメポタミアの地では、

  • アッカド人によるシュメール都市国家の征服(紀元前2350年頃)
    • アッカド王サルゴンが都市国家を統一してアッカド帝国を築いた
  • アムル人による古バビロニア王国の建国(紀元前1900年頃)
  • ヒッタイトによるこの地の征服(紀元前1600年頃)
  • アッシリア人のアッシリア帝国の台頭(紀元前13-11世紀頃〜)
  • カルデア人による新バビロニアの勃興(紀元前626年〜紀元前539年)
  • アケメネス朝ペルシャによるメソポタミアの支配(紀元前539〜紀元前4世紀)

など、支配する民族や王国の興亡が繰り返され、紀元前4世紀にアケメネス朝ペルシャが倒されるまで、メソポタミア文明は続きました。

メソポタミアの場所

メソポタミア文明が発生したメソポタミアは、肥沃な三日月帯と呼ばれる(ペルシア湾からチグリス川・ユーフラテス川を遡り、シリアを経てパレスチナ、エジプトへと到る半円形の地域)の中でも、現在のイラクおよびトルコとシリアの一部、チグリス川とユーフラテス川の間に位置する地域

メソポタミア(Mesopotamia)を文字通り訳すと、古代ギリシア語で「両河の間の土地」を意味し、2つの大河を誇るこの土地は、人間の生活に欠かせない水を得る上では二重に恵まれた土地だったのです。

メソポタミア北部の地域は平野でそこに住む人々は小麦を栽培し、牛を飼育することが出来、南部地域には深い森があり、中でもペルシャ湾に繋がる地域は海洋生物資源にも富んでいたと言えるでしょう。

ただし、一部肥沃な土地が存在していたものの、その他の土地は決して肥沃とは言えなかったため、これが、ウバイド文化時代(メソポタ文明先史時代の区分の一つ)に起こった外部から人工的に水を供給する灌漑技術の発達に繋がったとも言えます。

また、木材や硬い石、金属など、その他の天然資源については、東方や北方から輸入しなければならず、これによって例えば、アフガニスタンからラピスラズリを輸入するルート、つまり「貿易ルート」が発達していき、その後のメソポタミア文明における交易の発展につながったのです。

※青色の天然石ラピスラズリは、古代メソポタミアの芸術品や宝石、神々の彫像の目に使用されるなど、その輝きと希少性は「重要であること」を表していた。

メソポタミア文明の歴史を簡単にダイジェストで追っていく

先史時代のメソポタミア

新石器時代、およそ紀元前6000年頃、メソポタミアの地にはすでに、泥レンガ作りの家が集まる幾つかの集落が存在しており、小規模の組織化された農業が行われていました(ウバイド文化時代)

その後、紀元前4500年頃のウバイド文化中期には灌漑農法が考案され、結果として農耕文化はより盛んになり、穀物の収穫も大幅に増加していきました。

そして、紀元前4000年頃にはウバイド文化で発展した灌漑農業、他にも車輪や銅器などが、ウルク文化へと引き継がれていきます。

シュメール都市国家の発達

ウルク文化は、古代メソポタミアの都市「ウルク」に由来した名前を持つ文化で、ウルクを始めとして多くの「都市国家」が勃興した時代でした。

なかでも紀元前3500から紀元前3000年の間に、シュメール人による都市国家が多く形成されていき、この時期が基本的には「メソポタミア文明の始まり」と考えられます。

ちなみに、当時の都市国家の発達は基本的に、ピラミッドのような形をしたシュメール寺院または聖塔「ジッグラト」と都市国家を守るとされた神への崇拝を中心に進んでいきました(※ジッグラトは都市の中心であり、人々が集まり、社交や礼拝の場として賑わった)

アッカド帝国の台頭

都市国家間の争いが絶えなかったことによって、シュメール人による都市国家が衰えていった紀元前2350年ごろ、アッカド帝国(中心都市はアカデと呼ばれることもあった)のサルゴン王がシュメールの各都市国家を支配して統一

アッカドの支配下の下、シュメールの各都市ではアッカド語が共通語として話されていくようになります。

しかし、それからおよそ150年後、この地域は紛争状態に突入し、統一された都市国家の数々は、お互いに独立機能を持つようになりました

その結果、記録用の言語としてシュメール語が再び採用されることになります(会話用の言語として復活することはなかった)

ウル第三王朝

またこの時期、当時最大の都市国家であったウルに建てられたウル第三王朝が、短期間ではあるものの、紀元前22世紀頃から紀元前21世紀頃にかけて、メソオタミアを支配したと言われます。

しかし、すぐにアムル人やエラム人の侵攻が始まり、紀元前2004年にはウル第三王朝は滅亡してしまいました。

古バビロニアの台頭

紀元前19世紀頃、メソオポタミアの地にはアムル人による古バビロニア王国が建設されます。

そして、紀元前1700年代後半、「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラビ法典を作ったバビロニア王ハンムラビによって、再びメソポタミアが統一されて大きな帝国が建国されました。

一方でバビロニア帝国は、主に土地や天然資源の支配権をめぐって争いが絶えず、紀元前1595年頃にこの地へ侵攻したヒッタイトによって滅ぼされてしまいます。

ヒッタイトからアッシリアまで

ヒッタイトの支配は紀元前1200頃に終わり、代わりにヒッタイト時代に独立したアッシリアが、次第にこの地域での力を高めていき、アッシリア帝国の台頭が始まりました。

そして、紀元前750年頃、当時のアッシリア王「ティグラト・ピレセル3世」の時代に、メソポタミア全域がアッシリア帝国の支配下に入ります

ちなみにアッシリア人は、自らを崇めるため首都に巨大な神殿や寺院を建設しました。こうした建造物は、美しい浮き彫りの石像で装飾が施されていたと言われます。

このアッシリア帝国はその後も拡大を続け、イランからエジプトにおよぶ地域を支配下に置く大帝国となり、紀元前627年頃まで平和と繁栄を誇りましたが、紀元前614年、メディア王国(現在のイラン北西部)からやってきた軍隊が、古代都市アッシュールを攻撃して破壊。

ついには、古代都市ニネヴェも陥落し、アッシリア人はメソポタミアの地を追われることになったのです。

新バビロニアの勃興からメソポタミア文明終焉まで

メディア人はこの地を直接支配することはせず、同盟関係にあったカルデア人による新バビロニアに支配が託されました。

新バビロニアは紀元前539世紀頃、キュロス2世の統治下のアケメネス朝ペルシャに征服されるまで、メソポタミアを統治しました。

そして、新バビロニアの後にこの地を支配したアケメネス朝ペルシャはその後、アレクサンダー大王によってダレイオス三世が4世紀に倒されるまで続きます。

しかし、ダレイオス三世が倒されたことで、メソポタミア文明はヘレニズム(アレクサンドロスの東方遠征によって生じた古代オリエントとギリシアの文化が融合した「ギリシア風」の文化)世界の一部となっていき、ここにメソポタミア文明は終焉を迎えたのです。

メソポタミア文明早わかり!4つの特徴を確認しよう!

メソポタミア文明に関して、概要から歴史までを見てきましたが、メソポタミア文明をさらに知るために、ここからはちょっとした豆知識として4つの特徴を見ていきたいと思います。

メソポタミア文明初期の都市国家を覗いてみよう!

その初期においてシュメール人に建設された都市国家は、その後に長く続くメソポタミア文明の始まりであり、さらに、メソポタミア文明が世界初の都市文明と言われる所以です。

紀元前3500年頃には小さいものから大きいものまで含めると、十数個から数十の都市国家が存在していたとされ、基本的に都市国家はそれぞれ、数階層のピラミッド型の宗教的聖塔「ジッグラト」を中心とし、城壁に囲まれていました

そんな初期メソポタミア文明の中でも、最大の都市と言われたウルクという都市国家を覗いてみましょう。

古代都市ウルク

紀元前3000年頃、メソポタミア文明の都市国家の中でもウルクは大都市の一つで、おそらく最も大きな都市でした。

およそ10kmにも及ぶ防御壁に囲まれ、その中には4〜8万人の人口を有し、貿易の中心地としても栄えていたと言われる都市です。

そしてウルクでは、この都市の守護神で愛と戦いの女神「イアンナ」を祀っていました。

ちなみに、ウルクは旧約聖書において「エレク」として登場しています。

ウルクでは初期の文字体系の粘土版が発見された

またウルクは、「メソポタミア文明における初期の文字体系が描かれた粘土板が発見された場所」としても知られます。

その文字とは、物の形をかたどって描かれた文字、いわゆる絵文字のような文字で、これが後にメソポタミア文明を特徴づける「楔形文字(くさびがたもじ)」につながっていきました。

メソポタミア文明の特徴の一つ楔形文字について

メソポタミア文明は、楔形文字が発明されて使われた文明としても有名です。

上でも触れた通り、メソポタミア文明初期に最大の規模を誇った都市国家「ウルク」では、楔形文字につながる絵文字のような文字が描かれた粘土板が発見されているわけですが、これは、文字による最古の記録だと見られています。

このような文字は、ビールやパンなどの商品目録を作成・記録する目的で使用されていたようです。

そしてその後、時間を節約するため、そして記録をより効率的に行うために、より単純化・抽象化された楔形文字となっていったと考えられます。

楔形文字となって以降は、単純な記録のための「記号的な文字」としてではなく、王朝の歴史の記録や、神話や伝説の伝承など、より複雑な内容を記録出来る文字として利用されていったのです。

メソポタミア文明において「貨幣のように」利用されたもの

メソポタミア人は、交易を容易にするために、いわゆる「貨幣的な」利用目的として、何種類かの交換媒体を使用していました。

紀元前3000世紀(紀元前3000年から紀元前2001年)の初期、メソポタミアでは交易がすでに広がっていたのです。

そこで、交易をスムーズに行うために、価値の低いものから以下のようなものが「貨幣的に」利用されていたようです。

  • 大麦
  • (特にメソポタミア北部において)
  • 銅か青銅
  • 錫(スズ)

この中でも特に、大麦と銀が最も流通しており、これらは一般的価値基準として使われていました。

しかし、大麦は輸送が難しく、また距離や時間で価値が変動しやすいため、主に地元でのみ使われていました。

さらに、上記の点に加えて時間が経つと質が下がってしまうという理由から、大麦を元手にした借金の金利は、銀の金利に比べて遥かに高かったといった話もあります。

アシの船と水の管理

チグリス川やユーフラテス川を始めとした、大規模な水路による通商網に支えられたメソポタミア文明が成し遂げた物の一つとして、緻密に作られたアシの船ジャーワンの水道橋も挙げることが出来るでしょう。

メソポタミア文明の中で作られたアシの船とは、「植物のアシで作られた貨物船」で、土瀝青(どれきせい)とよばれる天然のアスファルトで防水加工されていました。

ちなみに、紀元前5,500年頃、メソポタミア文明以前のウバイド文化時代にはすでに、最初のアシ船が使われていたようです。

一方、ジャーワンの水道橋は、メソポタミア文明後期のアッシリア時代、当時の王「センケリブ」の主導の下で、紀元前703年から紀元前690年の間に建設されたと言われ、これによって、絶えず変化するチグリス川の流れに対処出来るようになったとも考えられます。

また、ジャーワンの水道橋は古代ローマが作った水道橋よりも古く、世界最古の水道橋と言われることもあります。

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メソポタミア文明とは?特徴や歴史などを簡単に解説のまとめ

世界最古の文明の一つとされるメソポタミア文明について、その歴史や特徴などを見てきました。

メソポタミア文明は、その発展の中で様々な民族や王国の興亡を見ることが出来る、非常に豊かな歴史を抱えた文明であり、その後に起こった文明にも影響を与えた古代文明です。 

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

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