実在した海賊一覧!歴史的に有名で伝説的な名前13選(女性含む)!

世界の歴史の中で実在した海賊13人を一覧として紹介していきます。有名で伝説的な名前を持つ海賊には何人かの女性も含まれています。

15世紀頃から航海技術が発達してくると、世界には船を使って未開拓な地を探索する「大航海時代」が訪れました。

その結果、ヨーロッパの国のいくつかは競って世界中へ船を送り出し、結果、新世界と呼ばれたアメリカ大陸の発見などが起こります。

一方で、この航海技術の発達は、海上での略奪行為、いわゆる海賊行為の活発化も招き、大航海時代が幕を開けると同時に、海賊として名を馳せる輩も増え、様々な伝説を持つ有名な名前の海賊達が多く出現したのです。

そこで、この記事では歴史的に有名な実在した海賊を、13人ピックアップして紹介していこうと思います。

人類の歴史の中で名を馳せた海賊達に興味があれば、早速確認していきましょう。

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実在した歴史上の海賊1:バルバロス兄弟

イタリア語で「赤髭」を意味するバルバロスの名前で恐れられたバルバロス兄弟は、兄のバルバロス・オルチ(1474〜1518年)と、弟のバルバロス・ハイレッディン(1475年〜1546年)のこと。

兄のオルチ, 出典:wikipedia

軍司令官や提督の地位を持つ兄と、提督の地位を持つ弟は二人とも、オスマン帝国出身で、16世紀初頭に地中海で活動した大海賊として恐れられていました。

二人は地中海でヨーロッパの船を何隻も捕まえて、金持ちになり、中にはローマ教皇の2隻のガレー船や、サルデーニャ王国の軍艦が含まれていたのです。

(弟のハイレッディン, 出典:wikipedia

一方で、1516年、オスマン帝国のスルタンが、アフリカ北西岸一体を管理する実質的な提督にオルチを据えましたが、彼はそれから二年後、スペインとの戦いの中で命を落とします。

そして、ハイレッディンはその地位を引き継ぎ、以降、キリスト教徒との戦いに残りの人生を費やしていくこととなったのです。

実在した歴史上の海賊2:フランシス・ドレーク

エリザベス女王1世からは「私の海賊」と重宝されたサー・フランシス・ドレーク(1543年頃〜1596年)は、イギリス政府がスペインの船舶を襲うために許可を与えた「海の犬」と呼ばれる私掠船の船長。

そのため、厳密には「海賊」とは呼べないかもしれませんが、スペイン側にとってドレークの行為はまさに「海賊行為」だったため、歴史を見る視点によっては「海賊」とされる人物です。

1577年から1580年にかけてドレークは、歴史的にも有名な偉業「イギリス人として初の世界一周」を達成。

その旅の中で彼は、5隻の船のうちの4隻を失う一方で、スペインの港をいくつも襲撃し、宝を積んだスペインの船を1隻捕まえるなどし、その中にはスペイン王の財宝が多く載せられたカカフエ号などが含まれました。

そして、それら財宝やスペインへの行為を手土産にイギリスへ戻ると、エリザベス1世は大喜びし、「サー」の称号をドレーク与えます。

さらに1588年には、イングランド艦隊の実施的な司令官となり、スペインの無敵艦隊を打ち破る功績も残しています。

実在した歴史上の海賊3:フランソワ・ロロネー

フランソワ・ロロネー(1630年頃〜1668年)は、バッカニア(カリブ海で活躍した海賊)のうちの1人で、1600年代中期から後期にかけてカリブ海で活躍しました。

(出典:wikipedia

元々は貧民として生まれ、アメリカ人が所有するカリブ海や西インド諸島の農園へ送られて年季奉公人として働いていましたが、いつの間にか、カリブ海沿岸にあったスペインの植民地を襲って略奪する海賊団に加わっていたのです。

しかも、ロロネーの行為は極めて残忍だったらしく、例えば、

  • 被害者を少しずつバラバラに切り刻む
  • 目が出るまで紐で首を絞める
  • 心臓を切り出して噛み付いて食べる

といった常軌を逸する行動で、多くの人たちを震え上がらせました。

さらに、略奪行為の中で襲ったベネズエラのマラカイボでは、街を破壊しつくし、盗みを犯し、大きな富を手にもしました。

しかし、そんなロロネー自身の死も恐ろしいものとなります

1668年、パナマ沖の砂州に船が座礁したため、食料を探しに内陸へ入っていった際、人食いの風習を持つ現地の住民に捕まり、生きたまま手足を切り取られて火あぶりにされ、食べられてしまったのです。

実在した歴史上の海賊4:ヘンリー・モーガン

ヘンリー・モーガン(1635〜1688年)は、17世紀後半にスペインのカリブ海で活躍した海賊としては、おそらく最もよく知られた存在。

(出典:wikipedia

もともとイギリスのウェールズに生まれたのにも関わらず、21歳の頃にはジャマイカ島へ渡り、そこで海賊船に船員とした加わったのが海賊としての始まりでした。

そして最大の実績は、当時、非常に裕福だったパナマ市へ、30隻の船と1200人の兵士で乗り込んで襲撃し、たった二時間ほどで同市を占領したことでしょう。

また、1672年にモーガンは一度、短い期間逮捕されましたが、イギリスとスペインの間で戦いが再開したため、イギリスはモーガンにナイトの称号を与えてジャマイカへ送り戻したのです。

その後は、ジャマイカにおいて「治安判事」、「海事裁判所長」、そして最終的には「ジャマイカ島代理総督」にまでなるという、海賊としては珍しい出世を果たしています。

実在した歴史上の海賊5:ウィリアム・キッド

スコットランドで1645年か1655年頃に生まれたウィリアム・キッドは、その後、アメリカへ渡ったのち、ニューヨークで船乗りとして生活をしていました。

1696年のある日、私掠船(王の特許状を得て,外国船の捕獲にあたった私船)の船長として、海賊を探し出して討伐する命を受けたキッド船長はインド洋へ航海に出ましたが、その中で一線を越え、自らが海賊となってしまったのです。

例えば、1698年2月には、多くの財宝を積んだケダー・マーチャント号を発見して略奪行為を行ったり、木製のバケツで部下を殺したりと、やりたい放題でした(一方で、ウィリアム・キッドによる海賊行為自体は、もしかしたら大げさに言い伝えてられている可能性があり、実際のところは不明な部分もある)

海賊キッドが不運だったのは、その帰路で強力なイギリス東インド会社の船と衝突してしまったことでしょう。

結局、海賊キッドはアメリカのボストンで最終的には逮捕され、裁判のためにイギリスへ連行されたのです。

そして、裁判によって死刑を宣告されて哀れな最後を迎えます。

キッドが吊るされた縄は2度ちぎれ、3度目にぶら下げられてようやくキッドは死にいたり、その遺体は他の海賊達への警告として、テムズ川沿のほとりに鎖でぶら下げられたのです。

実在した歴史上の海賊6:ヘンリー・エイヴリー

近代初期に海賊行為が活発となった「海賊の黄金期(1650〜1730年)」において、その活躍から「海賊王」と呼ばれることもあったヘンリー・エイヴリーは、1653年にイギリスに生まれました。

エイヴリーは当初、イギリス海軍に参加して海でのキャリアを始め、その後はいくつかの船に乗って奴隷貿易などに従事していました。

そして1693年には、スペインの私掠船「チャールズ2」に航海士として乗り、フランスの密輸業者を探し出して捕まえるためにカリブ海を目指します。

しかし、給料未払いなどの問題が続いた結果、エイヴリーを含めた船員達が反乱を起こし、それによってエイヴリーがファンシー号と名前を変えた船の船長となったのです。

それ以降、決して略奪した船の数は多くなかったものの、インド洋で襲った船には当時のインドを支配していたムガール帝国の船も含まれ、それによって、世界で最も裕福な海賊」と言われるほどの莫大な富を手に入れ、「海賊王」とさえ言われるようになったのです。

一方で、エイヴリーの死後、その遺体がどこへ行ったのかなどは未だに不明なまま謎となっています。

実在した歴史上の海賊7:エドワード・ティーチ(黒髭)

その名前をエドワード・ティーチ(本名かどうかは疑わしい)、通称「黒髭」は、実在した世界の海賊の中でも特に名前が知られて恐れられたイギリスの海賊です。

1680年から1718年まで生きたとされ、4隻の船を指揮し、300人の部下で形成された「海賊軍」を動かし、30門の大砲を積んだイギリスの軍艦「スカーボロー」を海戦で破ったことで歴史的にも有名になりました。

また、黒髭はいくつかのナイフとピストルを装備した状態で、2本の剣を握って戦闘に突入することで知られ、他にも火のついた導火線を長く編んだ髭に巻きつけたりして敵を威嚇することで恐れられていました。

1717年11月、黒髭はフランスの奴隷船を捕まえると、後に船を「アン王女の復讐」という意味の名前に変更し、40門の大砲を装備。

そして、追加された兵器の火力によってサウスカロライナのチャールストン港を封鎖すると、黒髭は大きな箱いっぱいの薬を要求し、それに街の住民たちが応えるまで封鎖を続けます。

その後はノースカロライナで数か月間おとなしくしていた黒髭でしたが、最終的にはイギリス海軍が黒髭を襲撃して斬首し、その切り取られた首は、他の海賊への警告としてバージニアのハンプトン川の近くに吊るされたのです。

ちなみに黒髭は、生涯の中でカリブ海において40以上の商船を略奪して、ひるむことなく多くの囚人を殺害。最終的に倒れるまで、20か所の刺し傷と、5か所の銃創を負ったとする伝説さえ残っています。

実在した歴史上の海賊8:バーソロミュー・ロバーツ

ブラック・バート」という異名を持つバーソロミュー・ロバーツ(1682年〜1722年)は、ウェールズ生まれの実在した歴史上の海賊で、大航海時代」において最後にして最大の海賊と有名な人物。

非常に勇敢な海賊だったことでも知られ、ロバーツの船の乗組員は彼の冒険心と勇気を、「ピストル・プルーフ(ピストルで撃たれても大丈夫という意味)」と呼んで賞賛しました。

(出典:wikipedia

ロバーツはもともと、1719年に海賊ハウエル・デイビスによって略奪されたイギリスの奴隷船に、三頭航海士として乗っていましたが、デイビスによって捕まった時に手下となって海賊の仲間入りをします。

それから2ヶ月後、デイビスが戦闘で命を落とすと、ロバーツの航海技術や海賊としてのカリスマ性などがその他の仲間を惹きつけ、デイビスの後を引き継いて海賊船の船長となり、それ以降、多くの戦いを繰り広げ、最終的には400隻・5千万ポンドに及ぶ船舶を略奪しました。

結局、1722年2月10日に、イギリス軍艦「HMSスワロー」を率いるチャロナー・オウグルとの激しい戦いで命を落としましたが、このことはその他多くの海賊とイギリス海軍にまで驚きを与えたと言われます。

実在した歴史上の海賊9:ジョン・ラカム

キャラコ・ジャック」という名でよく知られていたジョン・ラカムは、1682年から1720まで生きたイギリス出身の海賊で、自身の海賊としての名声はそこまで高くないかもしれません

(出典:wikipedia

しかし、十数名ほどいた手下の中には、カリブ海を往来した唯一の女性海賊が2人も含まれており、それによって歴史的に名前が度々挙がる存在となっています。

その二人の女海賊とは、「アン・ボニー」と「メアリ・リード」で、女性なのにとてつもなく手強かったことで有名です。

ちなみに1720年10月、酔っぱらったラカム一団は、海賊の捜索にあたっていた1隻の船に襲われて捕まります。

そしてラカムは有罪判決によって、捕まった翌月には処刑されてしまいました。

実在した歴史上の海賊10:アン・ボニー

アン・ボニー(1700〜1782年)は、その名前からも分かる通り、実在した女性の海賊の一人で、ジョン・ラカムの部下でした。

(出典:wikipedia

家族と新世界(アメリカ)へ移り住んだアンは、ジェームズ・ボニーという貧しい船乗りと恋に落ちて駆け落ち結婚。

しかし、夫に失望するようになった彼女は、居酒屋へ通い詰めている間に海賊船の船長「ジョン・ラカム」と出会います。

その結果、アンはジョン・ラカムの手下として船に乗り込むことを決意。

当時は女性が男性に混ざって乗船して働くことは認められていなかったため、男装して男のように行動し、また必要があれば戦ったのです。

そして、カラムの手下として活躍したもう一人の女海賊「メアリ・リード」と共に、彼女の死を厭わない戦いぶりは仲間を奮い立たせ、手ごわい海賊となりました。

しかし、最終的に彼女は、ラカムの船員たちと捕らえられてしまいます。

アン・ボニーもメアリ・リードも、刑務所で妊娠していると主張し、死刑は免れましたが、その後の行方は不明なままです。

実在した歴史上の海賊11:メアリ・リード

メアリ・リード(1685年頃〜1721年)は、ジョン・ラカムの部下としてアン・ボニーと一緒に大活躍した、歴史的に最も有名かもしれない女性海賊の一人。

(出典:wikipedia

もともとはイギリスのロンドンで私生児として生まれたものの、母は亡き夫の母親から仕送りを得るためにメアリに男装を強要し続けました。

そして、13歳の時には男の子としてフランス人女性へ奉公に出されますが、それに嫌気がさしたメアリは海軍に入隊。

知り合った兵士と結婚するものの、結局夫はしばらくして亡くなり、生きるためにもオランダ軍へ入隊しますが、その時に仕事で乗っていた船がジョン・ラカムに襲われた結果、メアリはラカムの手下となったのです。

最後はアン・ボニーと共に刑務所に送られ、死刑は免れたものの、発熱によって獄中死を迎えたと言われています。

実在した歴史上の海賊12:張保

張保(チャン・ポーチャイ)は、19世紀初頭に活躍した中国清朝時代を代表する伝説的な海賊

その実績は、他の歴史的に有名な海賊をも圧倒するほどで、最盛期には数千人または数万の手下と、数百から千数百にもなる大船団を従えたと言われています。

(出典:wikipedia

そんな張保は元々、漁師の息子として生まれましたが、15歳の時に大海賊「鄭一」とその妻「鄭一嫂」によって捕らえられ、美少年であったこともあって可愛がられ、後に鄭一の養子となって海賊組織を継承したのです。

広東省の海岸線を支配し、大量の宝物を集めましたが、一方で、自らも貧しい家の出ということもあり、貧しい人々に対して食料や金品を与え、また、貧乏人からの略奪を禁じるなど、庶民からは英雄扱いされる側面も持っていました。

結局、1810年には政府によって捕まり、海賊組織は解体されてしまいますが、張保は武官として重宝され、残りの人生を清王朝のために尽くしていきます。

実在した歴史上の海賊13:鄭一嫂

鄭一嫂(ていいっそう)またはチン・シーとして知られるこの人物は、1775年から1844年まで生きた、中国清朝時代の女性海賊

(出典:wikipedia

元々、自ら海賊団を率いていたわけではありませんが、夫である海賊の鄭一が亡くなった後、彼女は海賊団を引き継ぎ、元夫の養子であった張保を館長として任命し、大きな海賊集団を動かしていったのです。

また、鄭一嫂はその後、張保と再婚をしています。

一方で、張保と一緒に率いる海賊組織が中国政府に解体された時、鄭一嫂は恩赦を受けて解放され、若い頃には娼婦だったということもあり、その後は売春宿やカジノ、他にもアヘン密輸事業に関わったと言われます。

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実在した海賊一覧!歴史的に有名で伝説的な名前13選(女性含む)のまとめ

歴史の中で実在した世界の有名な海賊達を13人紹介してきました。

海賊達は世界史の中で表にはほとんど出てきませんが、実はその裏で暗躍していたのです。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

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