ウィリアム・シェイクスピアの人生と生涯15の話!史上最高の作品をいくつも手がけた偉大な劇作家

ウィリアム・シェイクスピアの人生と生涯に関する15の話を紹介していきます。演劇史上において最高の作品をいくつも世に送り出した、偉大な劇作家について見ていきましょう。

「ロミオとジュリエット」や「ハムレット」と言った劇の名前を聞いたことがある人は多いでしょう。

また、中にはこれらの劇を実際に観劇した経験がある人もいるはずです。

では、これら有名な劇を作った作家は誰でしょうか?

それは、世界の演劇史において最も偉大な劇作家と言われる、イギリス出身のウィリアム・シェイクスピアです。

ウィリアム・シェイクスピアはどういった人物だったのか?また、シェイクスピアの人生や生涯はどういったものだったのか?

シェイクスピアについての概要から、人生と生涯にまつまる15の話までを紹介していきたいと思います。

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ウィリアム・シェイクスピアとは?

ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare, 1564年〜1616年)とは、当時のイングランドにおいて、劇作家、俳優、詩人として活躍していた人物で、特に劇作家としては歴史上で最も有名だと言っても過言でない偉人

イングランド中部のストラトフォード=アポン=エイヴォンに生まれ、成人してからは演劇の世界に身を置くようになり、当初は俳優として活動をしていましたが、徐々に脚本を書くようになりました。

その結果、英文学作家として天性の才能が開花し、新進気鋭の劇作家として1592年以降は歴史に名を残す数々の作品を世に送り出してきました。

その中には、誰でも名前を聞いたことがあるであろう、「ハムレット」や「ロミオとジュリエット」を始め、他にも「マクベス」や「ヴェニスの商人」など、世界中で今日でも親しまれている作品が含まれています。

そんなウェリアム・シェイクスピアは、過去には「100名の最も偉大な英国人」において5位となるなど、現在でもイギリスを代表する歴史的偉人として認知されているのです。

ウィリアム・シェイクスピアの人生と生涯15のポイント

シェイクスピアは劇作家としての約20年の人生で数多くの作品を残した!

ウィリアム・シェイクスピアはその人生の中で劇作家としての活動を始めてから、1613年に現役を退くまで、戯曲を少なくとも37作品、詩は150作品以上も執筆したと言います。

史劇として知られる「ヘンリー六世」のシリーズや、四大悲劇と知られる「ハムレット」、「マグベス」、「オセロ」、「リア王」、喜劇として有名な「ヴェニスの商人」を始め、他にも多くの戯曲や詩作品がシェイクスピアの手で執筆されました。

一方で、シェイクスピアが作った作品の正確な数については良く分かっていません

年月を経て紛失した作品や、他の人の助けを得て書かれた作品もあるため、シェイクスピアによって執筆された正確な作品数は誰にも分かっていないのです。

ちなみに、上でも触れている通り、シェイクスピアによって執筆された様々な戯曲は以下の3つのタイプに分類できます。

  • 悲劇
    • 『ハムレット』『オセロ』『リア王』『ロミオとジュリエット』など
  • 喜劇
    • 『ヴェニスの商人』『十二夜』『じゃじゃ馬ならし』など
  • 史劇
    • 『ヘンリー四世』『ヘンリー五世』『リチャード三世』など

シェイクスピアの実家と生涯における妻や子供

ウィリアム・シェイクスピアは、テューダー朝時代のイングランド王国で、1564年に生まれました。

商売に成功した皮手袋商人だった父「ジョン・シェイクスピア」と、当時のイギリスにおける支配階級であったジェントルマンの娘で、非常に裕福な家の出身である母「メアリー・アーデン」の間に生まれた8人の子供のうちの1人(次男)でした。

一方で、ウィリアム・シェイクスピアはまだ18歳の時に、農家の娘であった26歳の「アン・ハサウェイ」と結婚しています。

二人はその後、スザンナという娘と、双子のジュディス(女の子)とハムネット(男の子)という3人の子供を授かりました(ハムレットは残念ながら1596年に亡くなっている)

シェイクスピアの人生の中でも幼少期に関しては良く分かっていない

ウィリアム・シェイクスピアが生まれた場所や両親、そして家族構成などは分かっていても、彼が幼少期をどのように過ごしたかについてはほとんど分かっていません

また、シェイクスピアの正確な生誕日も今日に至るまで謎のままであり、1564年の4月23日であったと言われますが、この日にちに関しては何か具体的な証拠があるわけでもなく、あくまでも推定を基にしているのです。

さらに、教育に関してもどの程度の教育水準であったのか分かっていないません。

しかし基本的には、良い教育を受け、良い学校へ通い、外でたくさん遊んでいたであろうと言われています。

シェイクスピアの生涯の中で1585年以降の7年間は完全なる謎

さらに幼少期だけでなく、成人してからも謎のまま残っている期間が存在します。

それは1585年から1592年の7年間で、この間は「どこで何をしていたのか?」について、シェイクスピアの歴史の中からぽっかりと抜け落ちているのです。

そのため、この7年間は歴史家によってシェイクスピアの「失われた年月」と呼ばれることがあり、加えて、どこで何をやっていたかに関しては、

  • 田舎で教師をしていた
  • ロンドンの劇場主の馬の世話をしていた

など、様々な証拠のない憶測が飛び交っています。

成り上がりのカラス!

1592年にウィリアム・シェイクスピアは俳優として、また劇作家としてロンドンに突然現れます。

しかし、ウィリアム・シェイクスピアの劇作家としての人生は、いきなりバラ色になったわけではありませんでした。

シェイクスピアの才能に嫉妬したライバル達(他の作家達)が、彼の作品を中傷し、笑いものにしたのです。

その1人であるロバート・グリーンは、ウィリアム・シェイクスピアのことを「成り上がりのカラス」と呼んでいました。

ただし、他の作家から中傷されると言うことは、それだけシェイクスピアの才能が際立っていたということの裏返しであると言えるでしょう。

巨大なグローブ座の共同株主になった

ウィリアム・シェイクスピアは、「シアター座」と呼ばれる劇場で定期的に公演を行っていた、内大臣一座(宮内大臣一座)という名の劇団の一人でした。

しかし、シアター座を巡って地主との言い争いとなった結果、彼らはシアター座を解体し、テムズ川の向こうに「グローブ座」という名で新しい劇場を建て直しました。

そして、このグローブ座を立てるにあたってシェイクスピアは共同株主となり、これ以降、数多くのシェイクスピア索引がグローブ座で上演されていくことになります

(出典:wikipedia

ちなみに、グローブ座は非常に大きな3階建ての野外円形劇場で、その収容人数は3000人。

ここでは、誰でも観劇することが出来たとされ、貧しい人でさえ1ペニー払えば購入出来る「土間(地面にイグサをまいたフロアで立ち見をする。ただし、屋根がないため、寒さ、風、雨にさらされた)」と呼ばれるエリアも用意されていました。

もちろん、裕福な客には専用のエリアが設けられており、そこでは心地よい椅子に座りながら演劇を鑑賞出来ました。

王室からの承認がシェイクスピアを人生の勝ち組にした大きな動力

その類稀なる才能はもちろんですが、優れた戯曲を作り続けたシェイクスピアの成功を加速させたのは、王室の後ろ盾があったことも大きな要因でしょう。

シェイクスピアの劇は王室からの承認を得ていたのです。

女王エリザベス1世やイングランド王のジェームズ1世(スコットランド王としてはジェームズ6世)が、頻繁にシェイクスピアの劇団を雇い、宮廷に呼んで上演させていました。

シェイクスピアは生涯で多くの資産を築いた

シェイクスピアの優れた戯曲が人気となって劇場で何度も公演され、さらに王室にも呼ばれる上演され続けた結果、シェイクスピアの名声は確固たるとものとなり、彼は生涯で多くの資産を築きました。

例えば、1592年に劇作家として注目され始めてから1598年までの6年間の間だけでも、シェイクスピアはロンドンとストラトフォード=アポン=エイヴォンに、それぞれ自宅を所有することが出来たと言われます。

俳優業も続けたシェイクスピア

また、彼が生涯を通して得た名声の多くは劇作家としてのものでしたが、それでもシェイクスピアは俳優としての活動も続けていました。

例えば、ハムレットやヘンリー五世などの劇に出演し、コーラスなどを演じていたようなのです。

劇団の経営者や劇作家として大成功を収めつつも、常に現場に立つシェイクスピアの姿勢が、戯曲としては歴史上最も優れた作品を数々生み出す大きな要因となっていたのかもしれません。

シェイクスピア時代の劇は現在の物とは異なった

ウィリアム・シェイクスピアが生きた時代の劇は、現在のものとは異なりました。

その一つは、劇の中に女優がいなかったという点。

つまり、シェイクスピアの劇も含めて当時は、女性の役も男性によって演じられていたのです。

また、現在の演劇鑑賞のマナーからは考えられませんが、聴衆がとても騒がしくなることもありました。

彼らは度々叫び、ブーイングを発し、気に入らない俳優には食べ物を投げつけることまであったのです。

劇場の消失が一つの動機となって劇作家としての人生に終止符を打った

シェイクスピアが共同創業者として経営に関わっていたグローブ座は、たくさんの刺激的な特殊効果を呼び物にしていました。

例えば、舞台下の地下部分から役者が入場する時に使うトラップドアや、俳優を持ち上げるワイヤー、他にも舞台では煙、炎、大砲などの演出もありました。

しかし、1613年に悲劇が訪れます。

ヘンリー8世を上映している際に撃った大砲が天井に点火してしまい、劇場が焼失してしまったのです。

恐らくこの悲劇が一つの動機となり、間もなくシェイクスピアは故郷ストラトフォード=アポン=エイヴォンへ引退しました。

シェイクスピアの人生に関しては最期の詳細も不明

演劇界から引退したウィリアム・シェイクスピアは晩年、故郷で静かに暮らしていましたが、最期には病に倒れ、1616年4月23日に52歳で没したと言われます。

しかし、「具体的にどういった病気だったのか?」については、詳しいことが分かっていません。

一説には腐ったニシンから伝染した感染症が原因だったと言われます。

また、謎に包まれた誕生日が4月23日だとすると、ウィリアム・シェイクスピアは誕生日に亡くなったことになりますが、これについても不明なままです。

シェイクスピアの墓石に刻まれた言葉

ウィリアム・シェイクスピアの遺体は、ストラトフォード=アポン=エイヴォンのホーリー・トリニティ教会に埋葬されています。

そして、埋葬された場所の近くには、シェイクスピアの墓石が立てられており、そこにはシェイクスピア自身によって書かれたとされ、墓を掘り起こそうとする人間を戒める、まるで呪いのような以下のような言葉を見つけることが出来ます。

Good friend, for Jesus’ sake forbear,

To dig the dust enclosed here.

Blest be the man that spares these stones,

And cursed be he that moves my bones.

よき友人たちよ、イエスの名の下に謹んでほしい、

ここに埋められた塵を掘り起こすことを。

この石を傷つけない人々に祝福あれ、

そして私の骨を動かそうとするものに呪いあれ。

シェイクスピア生涯最大の謎

イギリス史における最高の劇作家であり、優れた英文学を世に送り出してきたウィリアム・シェイクスピアですが、実は彼の生涯に関しては大きな謎がとりまいています。

それは、「本当にシェイクスピア自身が作品を執筆したのか?」ということ。

と言うのも、シェイクスピアの作品の多くは専門的で深い知識が無くては書けないものばかりで、また、作品の中には海外の国々に関する膨大な知識を必要とするものも存在しました。

しかし、シェイクスピアの経歴から、特定の分野に関して深い知識を得るのは難しく、加えて、イギリスから一度も離れたことがないのに海外に関する膨大な知識を得るのは不可能なはずだと、疑問が呈されているのです。

一方で、数々の古典的な戯曲を参考にした結果、シェイクスピアは作品を生み出せたとする主張もあります。

これについては、シェイクスピアの人生に関する最大の謎として、未だに残っています。

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ウィリアム・シェイクスピアの人生と生涯において知っておきたい15の話を見てきました。

今日、シェイクスピアの作品は、世界中の学校や大学で学ばれ、彼の物語はテレビや映画で描写されています。

もしも興味があるなら、シェイクスピアに関する映画や小説などを読んでみるのがおすすめです!

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

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