ココ・シャネルの人生と生涯|その生き方は現在でも語り継がれる

ココ・シャネルの人生と生涯について見ていきます。その生き方は現在でも語り継がれ、これまで文学作品や映画の中でも描かれてきました。

世界にはトップブランドとして有名なファッションブランドがいくつかありますが、その中の一つがフランスのシャネル。

女性向けの服を中心に、高級ジュエリーや化粧品などを世に送り出し続けています。

そして、このシャネルを創業したのが、フランス生まれのココ・シャネル。

彼女の人生は波乱万丈で、また生涯の中で様々な大恋愛を経験してきたことから、ブランドとしてのシャネルと同様に、世界中の人々に大きな関心を持たれてきました。

この記事ではそんなココ・シャネルの人生と生涯について、流れを追いながら見ていきたいと思います。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

ココ・シャネルとは?

ココ・シャネル(Coco Chanel)、本名ガブリエル・ボヌール・シャネル(1883年〜1971年)とは、フランス生まれの20世紀を代表するファッションデザイナーの一人。

彼女の代名詞とも言えるシャネルスーツやリトルブラックドレスなど、時代を超えたデザインを生み出したことで有名です。

シャネルは孤児院や修道院で育ち、そこで裁縫を教わりました。そして歌手として短い期間活動した後、1910年に最初のブティック(帽子専門店)を開店。

そして1920年代に香水の販売を始め、その後、女性の着心地の良さを重視して製作したシャネルスーツとリトルブラックドレスを発表しました。

また、シャネル自身も「憧れのファッションリーダー」的な存在となり、彼女が着るシンプルでかつ洗練された洋服と、数連の真珠のネックレスなどのアクセサリーを組み合わせるファッションは、いつしか「シャネル」を象徴するスタイルとなっていきました。

今日、ココ・シャネルが創業した「シャネル」は、世界中で人気なファッションブランドの一つとなっています。

ココ・シャネルの生き方を見ていこう!人生と生涯のダイジェスト

ココ・シャネルの生い立ち

後に名高いファッションデザイナー「ココ・シャネル」として知られるガブリエル・ボヌール・シャネルは、1883年8月19日にフランスのソミュールで誕生します。

現在でこそ華やかなイメージのシャネルですが、幼少期の彼女は「華やか」とは程遠いものでした。

というのも、12歳になる前に母親と死別した後、行商人だった父親に捨てられ、孤児院や修道院に入れられまったからです。

しかしこの頃、修道院で生活するなかでガブリエルは、裁縫を教わり、この裁縫の技術が彼女を一生の仕事へ導くものとなっていったのです。

そして、18歳になると歌手になる夢を抱いてナイトクラブで歌い始め、そこで「ココ」という愛称で呼ばれるようになったことが、「ココ・シャネル」と呼ばれる所以だとされています。

※ただし、ココ・チャネルが「『ココ』はフランス語で『愛人』を意味する言葉『ココット(cocotte)』を短縮した呼び方です。」と自ら説明していると言う話もあり、愛称「ココ」の起源については不明確な点がある。

ファッションの先駆者となるココ・シャネル

歌手を目指したもののいつまでも芽が出なかったシャネルは、20才の頃、当時付き合っていた将校エティエンヌ・バルサンの奨めと援助によって、1909年にパリで帽子のアトリエを開店します。

その後間もなくバルサンと別れ、バルサンの友人でさらに青年実業家として活躍していた「アーサー・カペル」と交際を開始。

(出典:wikipedia

この時に、帽子のアトリエとは別に、今日のシャネルの名前に繋がる帽子専門店(ブティック)である「シャネル・モード」を、1910年、パリのカンボン通りで新たに開店しました(バルサンとカペルが資金援助を行った)

そして、1913年にはドーヴィルに、1915年にはビアリッツに、オーダーメイドによる洋服の専門点「メゾン・ド・クチュール」を構え、洋服のデザイナーとしての活動を始めます。

ジャージー素材を取り入れたドレスでデザイナーとしての名声を高める

洋服のデザイナーとして初めて成功したのは、肌寒い日に昔ながらのジャージー素材を使用して作ったドレスでした。

ドーヴィルは寒い土地であるため、ジャージー素材を使用して寒さを和らげたことが成功につながったのです。

「そのジャージー素材のドレスをどこで買ったのか」と多くの人から尋ねられると、ココ・シャネルはその人たちに服の製作を申し出、ビジネスも軌道に乗り始めました。

ファッションブランド「シャネル」の拡大

シャネルNo.5の発表

1920年代始め、ココ・シャネルは好調な事業を新たな高みへ導くために、「シャネル」のブランドとしては初めての香水「シャネルNo.5」を発表。

(出典:wikipedia

当時、デザイナーはあくまでも身につける服やアクセサリーをデザインするだけと考えられていたものの、ココ・シャネルは、

  • 香水は目に見えない、記憶に残る、究極のアクセサリーです。香水をつけている人が近づいて来れば香りで分かり、その人が立ち去った後も香りは残ります。

と言って香水をファッションの一部と見なし、デザイナーの名前が商品名に入った最初の香水を世に送り出し、話題となったのです。

ちなみに、当初このシャネルNo.5は、シャネルでオーダーメイドの服を購入した人向けのおまけとして配っていましたが、人気が高まったことで1922年からは小売され始めました。

一方で、事業としての「シャネル」には大きな転換点が訪れていました。

香水事業を拡大するにあたってココ・シャネルは、百貨店の創始者テオフィル・バデと、実業家ピエールとポールのヴェルテメール兄弟から資金援助を受けて社団法人「パルファム・シャネル」を設立。

しかし、その条件としてココ・シャネルは10%の株を残し、経営からは手を引くこととなったのです。

※その後、「シャネルNo.5」は極めて大きい収益を生み出したこともあり、この条件に不満を持ったココ・シャネルは、契約条件の再交渉を求めて何度も訴えを起こした。

シャネルを象徴するシャネルスーツやドレスの発表

さらに1920年代にシャネルは、かの有名な「シャネルスーツ」を発表しました。

これは襟なしのジャケットとぴったりしたタイトスカートの女性向けスーツ。

そのデザインは当時としては革新的で、紳士服用の素材を取り入れ、当時普及していた窮屈なファッションよりも着心地の良さを重視するデザインでした。

ココ・シャネルは、コルセットや窮屈な洋服を着用する時代から女性を解放することに貢献したのです。

さらに、1920年代にはう一つの革新的なデザインのブラックドレスがシャネルから発表されました。

ココ・シャネルは、それまで喪服の色という概念だった黒色を、イブニングドレス(夜会服)に取り入れ、お洒落なデザインに仕上げたのです。

シャネルの人生を象徴する恋愛

またこの頃、ファッションデザイナーとして有名になったココ・シャネルは、ファッション界の他にも、パリの文学界や芸術界でも有名でした。

そのため、ココ・シャネルはバレエ・リュスや、ジャン・コクトーの映画「オルフェ」の衣装デザインを手掛け、コクトーや画家のパブロ・ピカソとも交流を持ちました。

また一時期、作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキーと恋愛関係にあったことでも知られます。

ココ・シャネルの人生を象徴することの一つと言えば「恋愛」で、その生涯の中で彼女は、数々の男性と恋に落ちましたが、数ある恋愛の中でも最も有名で話題を呼んだのが、1920年代に始まった関係でした。

ココ・シャネルは、当時のイギリスにおいて一番の大富豪で第二代ウェストミンスター公爵であったヒュー・グローヴナーと出会い、グローヴナーのヨットでクルーズを楽しむようになるなど、やがて二人は恋愛関係になり、その関係は6年間ほど続いたのです。

ちなみに、ウェストミンスター公爵から結婚を申し込まれたココ・シャネルは、「ウェストミンスター公爵夫人はこれまでに何人もいましたが、ココ・シャネルは一人しかいません。」と答えて断ったと伝えられています。

一時引退・第二次世界大戦・復帰

世界恐慌の余波が1930年代に広がり、シャネルの事業にも悪影響が及び、さらに第二次世界大戦が勃発した結果、当時4000人を抱えるほどまで成長していたシャネルは、一部店舗を残して全てのビジネスを閉鎖。

これによってココ・シャネルは、ファッション業界から一時引退することとなります。 

ナチスの協力者だった?

一方で、第二次世界大戦中にフランスがドイツ軍に占領されていた時、ココ・シャネルはナチスの将校ハンス・ギュンター・フォン・ディンクレイジと愛人関係となり、不自由なく暮らしていました

例えば、ココ・シャネルはドイツ占領軍の拠点となっていた、パリのホテルリッツの一室に滞在することを特別に許可されていたのです。

このような理由から、第二次世界大戦が終わった後、シャネルはフォン・ディンクレイジとの関係について取り調べを受けましたが、協力者として起訴されることはありませんでした。

しかし、「ココ・シャネルがナチス将校の愛人だったことは祖国フランスへの裏切り行為だ」と多くの人が考えていたこともあり、世間的に大きな批判を受けることとなります。

また、ナチス側と繋がっていたのが明白なのにも関わらず、ココ・シャネルが正式に起訴されなかったのは、ココシャネルの友人である当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルが、彼女を救うために裏から手を回したからではないかと疑念を抱く人もいました。

このように、当時のフランスはココ・シャネルに対して風当たりが強く、彼女はパリを出てスイスで数年間亡命生活を送ったこともあるほどです。

とにかく、「反シャネル」の風潮もあり、ココ・シャネルがファッション業界に復帰したのは、1954年、彼女が70歳になってからで、また復帰当初は痛烈な批判も受けました。

しかしそれもで、女性らしいシルエットで着心地の良いココ・シャネルのデザインは、たちまち世界中の人々の心を捉え、ココ・シャネルは再びファッション業界で生きる場所を見つけたのです。

ココ・シャネルの死と彼女の遺産

ココ・シャネルは1971年1月10日にホテルリッツの一室で死去しました。

シャネルは生涯独身を貫き、「私は男の人に小鳥の重さほどの負担もかけたいと思ったことはありません。」と言っていましたが、その強気な態度の裏では、孤独による寂しさを抱えていたのでしょう。

晩年のココ・シャネルは、孤独や不安などによって様々な症状に悩まされ、必ず1日1本のモルヒネを注射していたと言われるほど不安定な状態になり、ついに87歳でこの世を去ったのです。

また、その具体的な死因については諸説あるため正確なことは分かっていません。

(出典:youtube

その後、このファッションリーダーに別れを告げるために数百人もの人がマドレーヌ教会に集まりました。

多くの人たちは、ココ・シャネルに敬意を表すために、彼女がデザインしたシャネルスーツを着ていました。

世界のトップブランドであり続ける今日のシャネル

ココ・シャネルの死から十数年後、デザイナーのカール・ラガーフェルドが彼女の精神を受け継いでシャネルを牽引。

今日、ファッションブランド「シャネル」は、ヴェルテメール一族によって株式非公開企業として経営されて繁栄を続け、その年間売上高は100億ドル近くになると言われています。

合わせて読みたい世界雑学記事

ココ・シャネルの人生と生涯|その生き方は現在でも語り継がれるのまとめ

ココ・シャネルの人生と生涯を見てきました。

見てきたように、ココ・シャネルのデザインは時代を超え、これまで世界中の人を魅了し続けてきたと同時に、ココ・シャネルの人生自体も人々の心を常に惹き付けています。

もしもココ・シャネルの人生をさらに詳しく知りたい場合は、シャネルの友人のエドモンド・チャールズ・ルーが書いた『Chanel and Her World』や、『ココ・シェネルという生き方』といった本を読んだり、映画『ココ・アヴァン・シャネル』などを観てると良いかと思います。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

error:Content is protected !!