イラク戦争とは?原因や目的などをわかりやすく解説

イラク戦争とは一体なんなのか?その原因や目的をわかりやすく解説していきます。未だに議論が続き、中東の混乱を引き起こしたイラク戦争について理解を深めていきましょう。

2003年から始まったイラク戦争は、過去100年間のアメリアの外交政策の中で恐らく最も物議をかもし出しています。

当時のアメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュが、「テロとの戦い」を標榜してテロリスト集団とテロリスト支援国に対して宣言。

その流れで開始されたイラク戦争は、長期に渡って続く混乱の始まりとなってしまい、多くの犠牲者を生み出しました。

このイラク戦争とは一体なんだったのでしょうか?

また、その原因や目的とはなんだったのでしょうか?

イラク戦争について、歴史を追いながらわかりやすく解説していき、後半ではイラク戦争の全体像を知るためにも知っておきたいいくつかの点も紹介していきます。

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イラク戦争とは?

イラク戦争とは、ブッシュ政権下のアメリカ合衆国が主体となった有志連合(イギリス、オーストラリア、ポーランド等が参加)が、2003年3月20日にイラクへ侵攻したことで始まった軍事的介入

イラクの自由作戦」という名で開始された軍事作戦です。

1991年に起こった湾岸戦争の停戦条件として、国連安保理はイラクへ「大量破壊兵器の破棄」を義務付けました。

しかし、イラク側が協力的な態度を示してこなかったために、そのイラクを主導していた当時の最高権力者(独裁者)のサダム・フセイン大統領と政権を打倒する目的で開始されました。

2003年4月9日にはバグダッドが陥落してフセイン大統領が逃亡したため、サダム・フセインによるイラク政権は崩壊。同年12月13日にはサダム・フセイン自体も逮捕されます。

そのため、イラク戦争の当初の目的は比較的短期間で達成されたものの、イラク国内の治安悪化によってテロ活動が活発化。

結局、バラク・オバマ米大統領が「戦闘終結宣言」と「イラクの自由作戦の終了宣言」をした2010年の翌年2011年12月15日まで、有志連合軍はイラクへ駐留することになったのです。

したがってイラク戦争は、2003年から2011年まで続いたイラクに対する有志連合の軍事的介入というのが一般的な解釈です。

イラク戦争の原因や経過をわかりやすくダイジェストで追っていく

イラク戦争の概要については理解出来たかと思いますが、このイラク戦争が起こってしまったそもそもの原因とはなんだったのでしょうか?

ここでは、イラク戦争を理解する上で大事な「原因」と「経過」を、簡単なダイジェストで追いながら確認していきたいと思います。

アメリカとイラクの長い緊張

イラクとアメリカの歴史は2003年よりも以前に遡ります。

長年、イラクは中東地域において不安定な国で、政権交代が幾度となく行われてきましたが、1970年代後半、バアス政党の中心人物だったサダム・フセインがイラク大統領に就任し、2003年にアメリカ主導の有志連合軍に逮捕されるまでの数十年間、その座を維持します。

フセインは冷酷な独裁者で、その政治により多くのイラク人の命に加え、他国の人々も犠牲になりました。

1980年代、フセインはイランと長引く凄惨な戦争(イラク・イラン戦争)を行い、8年以上に渡る期間の中では50万人を超える兵士と市民が命を落とすほどでした。特に、戦争中にフセイン政権が化学兵器を用いたことは、フセインの残虐性を物語っています。

そして1990年8月2日、フセイン政権のイラクは小さな隣国クウェートに侵攻(クウェート侵攻)

それに対して、当時のアメリカ大統領ジョージ・HW・ブッシュは、大規模な多国籍軍を率いてイラクに対峙することを決定。

1991年1月17日にイラクを空爆して始まったこの戦争(湾岸戦争)は、同年2月28日には終了し、イラクをクウェートから撤退させます。

そして、国連安全保障理事会はフセイン政権のイラクに対して、大量破壊兵器の破棄化学兵器や核兵器開発を止めることを湾岸戦争の条件とし、イラク側もこれに同意しました。

大量破壊兵器を開発し続けているという国際社会の疑惑が膨らむ

しかし1991年の湾岸戦争終了以降、フセイン政権は停戦の条件を無視するような態度を取り続けたため、2001年頃になると、多くの国々(特にアメリカ)が、フセインは未だに大量破壊兵器を秘密裏に開発し続けていると考えるようになります。

そして、2001911日に起きた米国に対するテロ攻撃(アメリカ同時多発テロ事件)の後、ジョージ・W・ブッシュ大統領およびその陣営は、厳しい新外交政策を採択。

その外交政策は「テロとの戦い」を標榜し、ブッシュ政権は国際テロリストのネットワークを破壊し、そのようなネットワークを支援および助成する国を破壊または最小化することを掲げます。

その中では、9.11の首謀者たちを見つけ出すためだけではなく、テロ攻撃が再び起きないようにする目的もありました。

その結果、アフガニスタンが最初の標的となり、次の標的として「イラクとその指導者、サダム・フセイン」が浮上したのです。

イラク戦争の開戦

2002年後半、中央情報局(CIA)や他国の情報機関が示した、「国連の制裁にも関わらず、フセイン政権下のイラクが化学兵器開発を継続している」とする証拠を基に、米国議会はイラクに対する武力行使を認める共同決議を採決。

その後すぐに国連安全保障理事会は、イラクが国連査察官を受け入れて戦争を回避出来る最後のチャンスだとする決議を可決。

これにより、イラクが4年ぶりに国連の査察団を受け入れます。

一方のアメリカは、国連査察団による確証は得られていないにも関わらず、イラクが化学兵器の開発を行っている、そして大量破壊兵器を隠し持っていると主張し続け、 20033月17日にはジョージ・W・ブッシュ大統領が、「フセイン一族と主要閣僚の48時間以内のイラク国外退去」を命じて最終宣告。

そして、最終期限が過ぎた2003年3月19日、米国軍はついにイラクへの空襲を開始し、翌日の320日には、地上部隊がイラク領内へ侵攻を開始して、正式にイラク戦争が開戦されたのです。

短期間で主要な正規軍の戦闘は終了した

イラク政府およびサダム・フセインを倒すために計画された侵攻および激しい爆撃作戦で、アメリカは40か国の多国籍軍を率いました。

イラクへの侵攻は容易ではなかったものの、アメリカ軍が戦争前に予想したほどの抵抗が起きなかったこともあり、数週間後に有志連合軍はイラクの首都に達し、イラクの首都バグダッドが49日に陥落します。

また、この時逃亡したサダム・フセインも、同年12月には捕らえられ、人道に対する罪により有罪判決を受けた結果、2006年12月30日には絞首刑を執行されて死亡しています。

イラク戦争の第二幕「反政府・反米武装勢力」との戦争開始

多くの人がイラク政権の崩壊に安堵していた一方で、イラク戦争が完全に終結するにはまだまだ遠いものでした。

このイラク戦争の第一段階は終わりを遂げましたが、長年にわたる反乱と混乱が始まりました

この反乱はまず、サダム・フセイン政権の残党によって扇動され、その混乱に乗じて、他の武装勢力、イスラム過激派、そしてテロリスト達がイラクに押し寄せます。

その結果、米軍および有志連合軍は、イラク国内の見える敵や見えない敵に対する、厳しく危険な戦いに巻き込まれていったのです。

混乱はおよそ8年間続き、イラク戦争中の有志連合軍側の死傷者の96%が、この混乱の中で亡くなったと言われるほど激しいものでした。

反乱勢力は、即席の爆発装置、地雷、自爆、狙撃兵、自動車爆弾などの多数の手段を使用して、米軍および多国籍軍の車両や軍隊、イラクのインフラを攻撃。

一方、アメリカの支援によってイラクには新政権が樹立しますが、この新政府が始動し始めて自国の治安部隊が出来たことで、新政権もまた、過激派や反乱勢力による攻撃に巻き込まれることになります。

緊張緩和

何年も続いた反乱により、イラク戦争はアメリカ国内で批判されるようになり、ブッシュ政権の支持率も急降下していきました。

そんな中、ブッシュは物議をかもす決断を2007年に行います

イラクからのアメリカ兵引き上げを望む多く声に従うのではなく、経済支援と再建資金の追加に加え、イラク戦争の戦況を変えるため、2万を超える大量の兵士を派遣することにしました。

また、全軍の指揮官としてデイヴィッド・ペトレイアスを任命します。

結果的にこの判断によって、連合軍側の死者は減り始め、イラク政府側は自国内の治安をコントロール出来るようになりました。

そして、イラクでの活動に強く反対する選挙運動を行ったバラク・オバマが2009年にアメリカ大統領に就任し、イラクから米軍を撤退させることを優先します。

2010年、米国政府はイラクでの作戦の名称を、「イラクの自由作戦」という言葉から、米軍撤退およびイラク単独での治安維持に向けた「新しい夜明け作戦に変更。

2011年末までに米軍の駐留部隊がイラクを去り、ここにイラク戦争は終結します。

イラク戦争のその後

米軍が撤退したものの、その後のイラクの国内情勢は長い間不安定となります。

そして、その不安定な国内情勢に乗じて、イスラムの新しい過激派組織「ISIS」が、イラクの大部分を支配。

この新たな脅威と戦うため、2014年にアメリカ軍は空爆を基本として戦闘に再び参加しました。

このように、2011年に一応は終結したものの、隣国シリアで起こったシリア内戦にも悪影響を与えたことなどを考えると、疑うべくもなくイラク戦争はまだ終わっていないと言えるのです。

イラク戦争に関して絶対に知っておきたいいくつかのこと

大量破壊兵器に関するアメリカの主張は虚偽なのか?

イラク戦争を開始するに当たってアメリカ側は、イラクが未だに大量兵器を保有しており、また化学兵器の開発も進めているなどと主張したわけですが、その後、この主張の基となったCIAの情報は間違いだったと広く知られるようになります。

また、2003年1月9日に出された国連監視検証査察委員会と国際原子力機関の中間報告でも、イラクが国連決議に違反したと疑われる証拠や痕跡はないとしていました。

加えて、フセイン政権がなぜ査察に協力的でなかったかについては、

  • 「大量破壊兵器保持をほのめかす事でイランや国内の反政府勢力を牽制しようとした」
  • 「湾岸戦争後の国連の査察ですべて廃棄させられたため最初から無かった」

という、フセイン元大統領の証言が残っています。

このようなことから、アメリカ主導のイラク戦争開戦には大きな批判が起こっています。

しかし、イラクには大量破壊兵器があったという話も存在し、未だに議論が続いているのも事実です。

膨大な数に登るイラク戦争の死傷者や負傷者の数

2003年から2011年まで続いたイラク戦争による、イラク側の直接的、間接的な死傷者の数は、なんと50万人を超えると言われており、戦争が直接の原因で亡くなった人だけでも少なくとも18万9千人いると推定されています。

一方のアメリカも、戦争中に4486人の兵士が死亡しており、さらに、32,223人が負傷したとされます。

加えて、イラク戦争から帰還した兵士のうち、8人に1人がPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみ、また5人に1人が脳や脊髄を負傷したと言われます。

(参照:慶應大学NATIONAL GEOGRAPHIC

イラク戦争へ参加した戦士のその後ケーススタディ:3人の例

ここで、イラク戦争に参加した兵士に起こったその後の苦しみを理解するためにも、3人の例を挙げておきます。

ジョン・ニーダム

イラクからの帰還兵でパープルハート勲章を受章したジョン・ニーダムは、恋人を残酷に殺害し、自身も薬の過剰摂取で2年後に死亡しました。

彼は死ぬ前、PTSDの治療を求めていて、イラク戦争中は、戦争犯罪をしたと米軍を非難していました。

イラク戦争での残虐行為が、彼を永遠に苦しめることになってしまったのです。

ジェームス・ハーカス

英国の英雄的な軍人であるジェームス・ハーカスはイラク戦争中、仲間の兵士を救うため、自分の命を何度も危険にさらしたと述べています。

その結果、帰国後は精神的に不安定となり、仕事もおぼつかない状態が続き、生活に苦しんでいると言います。

イラク戦争の退役軍人の1人

イラク戦争の退役軍人は、14歳のイラク人少女を強姦、殺害し、その上で彼女の両親と妹も殺害

現在は終身刑に服していますが、戦時下の極端な暴力にさらされた結果、イラクの民間人を人間とは考えれなくなっていたと述べています。

イラク市民へ与えた傷跡

イラク戦争は、イラク市民へ大きな傷跡を残しています。

国内における避難民の数はおよそ200万人近くで、国外へ逃れた難民数もおよそ200万人に上り、合計400万人近くの人々が家を追われたのです。

外国へ逃れた難民のうち、約140〜150万人はシリアへ逃れ、45〜50万人はヨルダンへ逃れたと言われます。

また、イラク戦争は広範囲にわたって貧困をもたらし、多くのイラク人女性が、自身や家族を支えるために売春に身を転じました。

イラク戦争でメリットを得た一部のステイクホルダー

イギリスのBBCの調査により、イラク戦争に関わった民間業者が莫大な利益を得ている可能性が明らかになりました。

その中では、イラク戦争による利益は「歴史上で最も大きな戦争による利益」だと指摘されています。

また、イラク戦争中に副大統領を務めたディック・チェイニーは、ハリバートン(石油掘削機の販売会社)という会社を経営していましたが、このハリバートンは、イラク戦争に関連して70億ドルの契約を結び、最終的にはこの戦争から395億ドルの利益を得たと言われます。

イラク戦争には多大な費用が掛かった

イラク戦争は8年以上も続いた戦争であったため、そこに費やした費用も膨大なものでした。

その総額は、2053年までの金利分なども含めると、最高で6兆ドル(およそ660兆円)にもなる可能性があると言われ、これは日本のGDP(約540兆円)よりも大きな額です。

例えば、イラク戦争中、

  • 兵士を配備するために掛かった費用は一人当たり350,000ドル(約4000万円)
  • 空調に年間200億ドル
  • 1日あたり160万ガロンの石油を消費

といった具合で、膨大なコストが生じていたのです。

イラク戦争に関連するその他の豆知識

  • KFC(クウェート・フィールド・チキン)
    • イラク戦争中、米軍は化学兵器の早期発見を目的とし、軍用車両の上に「檻に入れた鶏」を取り付けていました。彼らはこの作戦を、クウェート・フィールド・チキンまたはKFCと呼んでいました。
  • 2000匹の猿
    • イラク戦争中、モロッコは地雷を爆破させるために訓練された2000匹の猿を米国に提供しています。
  • 犬と兵士の友情
    • 2007年、イラクに駐在していた米国海兵隊の兵士が、スクリュードライバーで刺された野良犬の「ナブス」を看病してケガを治してやりました。そして兵士にナブスがなついた結果、海兵部隊と一緒に兵士も去った後、ナブスは砂漠の戦地を100km以上も追いかけて兵士を見つけたと言います。
  • ローマ法王とプッシュ大統領
    • ローマ法王のジョン・パウロ2世は、ブッシュ大統領に対し、「イラクに侵攻しないように」との手紙を送りました。それに対しブッシュ大統領は、戦争にいくことが「神のご意志」であることを確信していると答えました。

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イラク戦争とは?原因や目的などをわかりやすく解説のまとめ

イラク戦争は、アメリカ主導の下で2003年に開始し、その後8年以上も続いてしまった凄惨な戦争でした。

イラク戦争によって米国が得られたものは少なく、また、イラクは大きな傷を負ってしまうと同時に、この戦争はイスラム過激派を活性化し、女性の権利を後退させ、すでに不安定だった医療制度をもさらに弱体化させるなど、この地域に大きな爪痕を残しています。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

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