アパルトヘイトとは一体なんなのか?この質問に対する答えとして、その歴史や内容を詳しく紹介していこうと思います。南アフリカに暗い影を未だに落としている黒歴史です。
過去にヨーロッパの列強諸国が世界の様々な地域を植民地化した際、アフリカ大陸の多くの国々もその支配下になりました。
そして、その流れでアフリカ大陸最南端の南アフリカにも多くのヨーロッパ人(白人)が入植してくるようになります。
時は流れて1900年代になると、南アフリカでは現地の白人達によって、悪名高い「アパルトヘイト」が実施されます。
このアパルトヘイトとはどういった政策だったのでしょうか?
この記事では、南アフリカで実施されたアパルトヘイトについて、その歴史から内容、そして他にも知っておきたいポイントなどを詳しく紹介していきます。
アパルトヘイトとは?
アパルトヘイト(Apartheid)とは、南アフリカ共和国の国民党(南アフリカに入植した白人達を基盤とする政党)政権の下、1948から1994年4月27日まで法律に基づいて施行された人種隔離政策のこと。
ただし、人種隔離政策と言っても、南アフリカの中で多数派を占める黒人系住民によってではなく、19世紀初頭から多く入植し始めた少数派の白人系住民(アフリカーナー)によって、白人とそれ以外の非白人関係が規定され、非白人に対する隔離的で政治的また経済的な差別措置をとった政策です。
ここでアパルトヘイトの中で行われた人種隔離や差別の例を簡単に紹介すると、次のようなものを挙げることが出来ます。
- 人種分類法(Race Classification Act)
- 法律上で全国民を次の四つの人種に分類した
- 白人
- 黒人
- カラード(混血民)
- アジア人(※当初は無かったものの後に追加された)
- 法律上で全国民を次の四つの人種に分類した
- 混合婚姻法(Mixed Marriages Act)
- 異なる人種に分類される人々の婚姻を禁止した
- 集団地域法(Group Areas Act)
- 人種ごとに隔離された地域を居住地域とした
- 特に非ヨーロッパ人は不毛の土地に過密な状態で暮らすことになった
1948年に法制として確立して以降、特に50年代には次々と関連法案が成立し、南アフリカでの人種隔離はかつてないほど明確になります。
差別の対象となった人々には悲惨な状況となり、過去数十年の歴史の中でおそらく最も人種に基づいた明白な隔離社会が南アフリカに出来上がったのです。
アパルトヘイトの歴史
アパルトヘイトの定義や簡単な内容を理解したところで、アパルトヘイトが起こってしまった理由を理解するためにも、ここからはその歴史をダイジェストで追っていきましょう。
アパルトヘイトの始まり
南アフリカでは1948年以前より、法に基づく人種隔離政策が広く実施されていました。
例えば、
- 原住民土地法(1913年)
- 「白」と指定された地域で「黒」人が土地を購入する、または借りることを禁じた
- 背徳法(1927年)
- 白人と非白人の恋愛関係を禁止した
など、差別的な法律がすでにいくつも存在していましたが、1948年に国民党が政権を握ると「アパルトヘイト」という正式名称をつけ、確立された政策方針として人種隔離政策を拡大していきます。
そして1950年には集団地域法により、それぞれの人種ごとに都市部での居住区および商業区が割当てられ、他の人種カテゴリーに属する者は、その地域での居住や事業展開、土地の所有が禁止されます。
※実際にはこの集団地域法に加えて、1954年と1955年に二つの関連する法律が施行された(類似した土地に関する法律は「土地法」と総称される)ことで、1913年および1936年に制定された類似の土地法制定に端を発する人種隔離政策が完成。最終的に、南ア全土の80%以上が少数派白人住民の所有となった。
加えて、人種ごとの隔離政策を強化し、黒人住民が白人の居住地を奪うのを防ぐ目的で、南ア政府は既存の「パス法」を1952年に強化。
非白人に対して、制限地域内に立ち入る際には身分証の携帯を義務付けました。
その他の法律によっても、人種間のほとんどの社会的接触が禁止され、
- 公共施設は人種ごとに分離された
- 教育水準も異なった
- 就業可能な職業にも人種ごとに制限された
- 非白人の労働組合は活動を制限された
- 非白人による(白人候補への投票を通じての)国政への参加は認められなかった
など、白人と非白人の社会的隔離が決定的になっていったのです。
アパルトヘイトの下で南アフリカの国民から除外されてしまった黒人系住民達
1951年のバンツー統治機構法の下、南ア政府は黒人系住民を部族に区分して再構築し、ホームランド(バンツースタン)と呼ばれた各部族ごとの居留地を割り当て、また、その際には地域統治機構という行政機関も設置します。
また、1959年のバンツー自治促進法では、黒人地域が10のホームランドに区分けされました。
そして、1970年のバンツー・ホームランド市民権法では、南ア共和国のすべての黒人は、実際の居住地とは関係なく、いずれかのホームランド(バンツースタン)の市民権を持つと規定され、南アフリカ共和国の黒人系住民は、南アフリカ国民から強制的に除外されてしまったのです。
結果として、ホームランドのうち4つは共和国としての独立が認められ、残りのホームランドについては、それぞれ程度の異なる自治政府が認められましたが、いずれのホームランドも、政治的、経済的に南アフリカ共和国に依存したままでした。
一方で、南ア経済は非白人の労働力に依存していたため、南ア政府がこの人種別分離発展政策を推進するのは簡単ではなかったのも事実です。
アパルトヘイトに反対する声や活動が高まる
南ア政府には事実上、政府の政策に対する批判的な意見があればすべて排除するだけの権力がありましたが、南ア国内にも、常にアパルトヘイトに対する反対意見は白人や黒人含め存在していました。
そして、そのような火種がくすぶり続けた結果、少数の白人から支援を得た黒人グループが、抗議デモやストライキを行い、暴力的な抗議活動や破壊行為に発展する事例が多く発生し始めます。
なかでも最初にして最も暴力的な事件は、1960年3月21日、シャープビルで起こったアパルトヘイト政策に対する抗議デモでした。
このデモでは警官隊がデモ参加者に対して発砲して、黒人の死者69人に加えて多数の負傷者が発生します。
また、黒人生徒に対してアフリカーンス語(白人系入植者によってオランダ語から派生した言語)の教育を必修とする試みがきっかけとなり、1976年にはソウェト蜂起と呼ばれる暴動事件が起こりました。
他にも白人の政治家のなかには、「小アパルトヘイト」と言われる細かな規制を緩和するように求めたり、人種間の平等を訴えたりする者も現れ始めます。
一方で、アパルトヘイトは、国際社会からも激しい非難を受け始めます。
イギリス連邦の加盟国が南ア政府の人種隔離政策を支持しないと表明し、また、イギリス自体からも人種主義政策に対して強い非難を受けたため、南アフリカ共和国は1961年、イギリス連邦から脱退することになります。
そして1985年には、イギリスおよびアメリカの両国が、アパルトヘイトを続ける南アフリカに対して限定的経済制裁を発動するまでに至ったのです。
アパルトヘイトが廃止される
こうした国内外からの圧力に対して、南アフリカ政府は、1986年に「パス法」を廃止。
この時はまだ、依然として黒人は白人居住エリアに指定された地域に住むことは許されないなど、根本的な解決には至りませんでした。
しかし、さらなる抜本的な政策転換として、南ア政府のフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領は、1990年から1991年にかけて、人口登録法をはじめとするアパルトヘイト政策の根幹法であった社会立法のほとんどを廃止していきます。
それでもなお、組織的な人種隔離政策は南ア社会に深く根づいており、アパルトヘイト関連法が全廃されても事実上、人種差別的な実態は変わりませんでした。
ネルソン・マンデラ政権の誕生
アパルトヘイトが廃止された後、黒人とその他の人種グループ全て参政権を認めた暫定憲法が、1993年に採択され、1994年施行されます。
そして、1994年には南アフリカ史上初の「全人種が参加する制憲議会選挙」が実施されました。
結果、アフリカ民族会議(ANC)が60%以上の票を獲得し、当時のANC議長であったネルソン・マンデラが大統領に就任し、アパルト政策は終焉を迎えたのです。
長年続いたアパルトヘイトの思想は、南ア社会や経済に深く根付いていたため、その後も南アフリカに多大な影響を与え続けましたが、ネルソン・マンデラの指導力の下、人種に関係なく民族の和解や融和が進んでいくことになります。
アパルトヘイトの内容を3つの軸で見ていこう
アパルトヘイトの歴史や廃止までの流れは理解出来たかと思いますが、ここではアパルトヘイト時代、実際にどのような差別が行われていたのか「交通手段」、「医療と教育」、「住宅事情」の3つの軸で、その差別の内容の例を挙げてみたいと思います。
「交通手段」で見るアパルトヘイトの内容
アパルトヘイト下の差別内容として、公共の乗り物であった交通手段に関しての例を挙げてみましょう。
当時の電車は白人と非白人の車両に分かれていました。
しかし、ほとんどの白人は車を所有していたため、電車にほとんど乗ることが無く、白人エリアは基本的に常にガラガラ。
一方で非白人達は車を所有できるような所得が無かったため、非白人エリアは乗車率100%以上の状態が多く、車内は強い体臭が充満し、まるで動物を運んでいるかのようだったと言われます。
(出典:Colin Pantall’s blog)
また、当時は白人が自主的に黒人を自らの車へ乗車させるにも許可が必要で、黒人を親切に隣町まで車で送っている途中、警察が来て車を道の端に寄せさせられ、その白人に「黒人を運ぶ免許があるのか」と尋ねることもあったそうです。
「医療と教育」で見るアパルトヘイトの内容
医療も白人と非白人で分離され、またその質も大きく異なり不平等でした。
例えば、白人用の病院は設備が整いスペースに余裕があり、患者は衛生的な環境で診察や治療を受けられる一方、黒人用の病院では人々が床に寝かされている状況だったと言われます。
これは学校も同じで、黒人の子供達に対する学校の数は十分とは言えず、教室からは生徒が溢れ、中には学校に行けない子供もいました。
これに関しては、次のようにイメージするとその理由を理解しやすいかと思います。
単純化して言えば、白人と非白人に割り当てるサービスを50%ずつに分け、その50%の予算で当時の南ア人口の15%しか占めない白人に必要なサービスを賄うのに対して、残りの50%の予算で80〜85%に上る非白人人口に必要なサービスを賄っていた。
つまり、同じ予算を使っても人口の少ない白人はそれだけ一人当たりが享受できる額が大きいのに対して、非白人は享受出来る額は小さく、それが非白人に対する劣悪な公共サービスを生んでしまっていた理由の一つなのです。
「住宅事情」で見るアパルトヘイトの内容
ヨハネスブルクでは、ヨーロッパ人限定の居住区域が二か所ありましたが、その間には3つのエリアが存在し、これら三か所の居住区域内では、誰でも不動産を買うことができました。
しかし、それらの地域は不潔で、家々は密集していて、通りにゴミが散乱している状態が日常茶飯事、さらに街頭もなく住宅自体も足りない状況でした。
結果として、そのような地域では多くの家族が小さな家でプライバシーのない暮らしをし、犯罪が頻発する結果となっていたのです。
また、黒人は家を買うために6年も待たなければならないこともあったため、非常に脆くて衛生状態が悪い小屋を自分で建てて暮らした人達もおり、多くの子供達が病気にかかって命を落としたと言われます。
アパルトヘイトに関して知っておきたいその他のこと
最後に、アパルトヘイトについて知っておきたいその他3つのことを簡単に挙げておきます。
アパルトヘイト時代の人口構成
アパルトヘイト時代(1980年時点)の南アフリカは、次のような人口構成になっていました。
- 黒人
- 2300万人
- 73%
- 白人
- 470万人
- 15%
- カラード
- 280万人
- 9%
- アジア人
- 90万人
- 3%
このように、白人系住民は全人口の15%しかいなかったものの、当時は白人全体で国内の土地の80%以上を所有していたとされます。
二人のノーベル平和賞の受賞
アパルトヘイト廃止の立役者であるネルソン・マンデラがノーベル平和賞を受賞したことは良く知られていますが、もう一人の立役者「フレデリック・ウィレム・デクラーク」もマンデラと一緒に受賞しています。
フレデリック・ウィレム・デクラークは南アフリカの第7代大統領で、南アフリカの将来を決めていく上では黒人達との交渉が必要であることを訴え、それまでの政府方針を変えた人物です。
デクラークのこの方針転換があったからこそ、アパルトヘイトの廃止につながったのです。
アパルトヘイト以降について
アパルトヘイトが廃止されてからも、未だに白人と黒人の溝は完全には埋まっておらず、特に所得水準に関して見ると、まだまだ両者の差は大きい状態が続いています。
しかし、アパルトヘイトが廃止されて以降は黒人系住民の人口数が増え、また、彼らの住環境に関してはより安全な家で電気が通っているなどの改善が見られます。
さらに、非白人系住民の中でもインド系住民の所得が上昇しているといった特徴や、殺人発生率の低下なども確認されています。
一方で、アパルトヘイト廃止後には多くの白人系住民が南アフリカを後にし、また黒人系住民の人口が増えているため、同国に占める白人の割合はおよそ8~9%にまで減少しているものの、アパルトヘイト後に白人から黒人に所有権を移転できた土地は全体の10%程度で、未だに同国の土地の多くが白人に保有されている問題も残っています。
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アパルトヘイトとは?~政策内容や歴史~南アフリカを未だに蝕む黒歴史のまとめ
アパルトヘイトは1948〜1994年に南アフリカで法律に基づいて施行された人種隔離政策で、白人以外の非白人達は様々な差別的な措置を受けていました。
また、アパルトヘイトが廃止となった現在でも南アフリカを影響しており、その影響から完全に脱却するためにはまだ時間がかかりそうです。