アフリカーナーとは?アフリカーンス語を話すアフリカの白人系住民

アフリカーナーとはどういった人々を指すのでしょうか?主に南アフリカ共和国に居住し、アフリカーンス語と呼ばれる独特な言語を話すアフリカの白人系住民達について見ていきましょう。

アフリカ大陸の最南端に位置する共和制国家「南アフリカ共和国」には、多数派の黒人だけでなく、他にも白人、インド系、東アジア系、そしてカラード(混血)といった異なる人種が住んでおり、歴史の中では少数派である白人が国を支配した時期もありました。

そして、この白人系住民達もまた、イギリス系住民とアフリカーナーという2つの集団に大別出来、特にアフリカーナーは、独自のアフリカーンス語やアパルトヘイトと結びつく形で知られています。

この記事では、そのアフリカーナーについて理解を深めるために、「概要」、「言語」、そして「南アフリカとの歴史」の3つの軸で見ていこうと思います。

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アフリカーナーとは?

アフリカーナーとは、オランダ人、ドイツ人、フランス人など、宗教的自由を求めてヨーロッパから南アフリカへ、17世紀に入植してきた人々の血筋が混じって形成された民族集団。

「アフリカーナー」という言葉自体はオランダ語で「アフリカ人」を意味すると同時に、彼らアフリカーナー達はまた、オランダ語で「農民」を意味する「ボーア人ブール人」の名でも知られています。

現在、アフリカーナーのほとんどは南アフリカ共和国に住んでいますが、他にも南部アフリカのナミビアやザンビアにも住んでおり、また、一部はイギリスやオーストラリア、そしてオランダやベルギーなど、海外の欧米諸国に移って生活しています。

またアフリカーナーは、アフリカ人やアジア人と接触するなかで、徐々に独自の言語文化である「アフリカーンス語」を発展させていきました。

このアフリカーンス語は、オランダ語を基礎として、フランス語やマレー語、他にもアフリカの言葉を融合して形成されたゲルマン系言語とされ、厳密な定義ではアフリカーナーにとっての母語です。

実際、アパルトヘイト時代に作られた厳密な定義では、アフリカーナーの条件として、

  1. オランダ系(同化したユグノーなども含まれる)
    • ユグノーとはフランスにおける改革派宗教またはカルヴァン派のこと
  2. アフリカーンス語を第一言語とする
  3. オランダ改革派教会の信徒である

という、3つを満たしている必要がありました。

しかし、この厳密な定義は次第に薄れ(または範囲が広まり)、現在ではどちらかと言うと、自らをアフリカーナーと定義する(自称する)かどうかで判断されるケースが多く、南アフリカ共和国に住む白人およそ450万人のうち約60%の270万人程度が、自らアフリカーナーを自称していると言われます。

これは、南アフリカで見た場合、全人口の5%弱の規模です。

しかし、人口規模としては少ないにもかかわらず、アフリカーナーは南アフリカ共和国の歴史に大きな影響力を発揮してきました。

アフリカーナーが話すアフリカーンス語について

今日、アフリカーナーの言語であるアフリカーンス語は、南アフリカ共和国の11言語ある公用語の1つとなっています。

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17世紀にケープ植民地で話されていたオランダ語は、徐々に、語彙、文法、発音が変化を遂げ、独自の言語に発展してアフリカーンス語となり、南アフリカ共和国内では、アフリカーナー以外によっても話される言語にまでなっていったのです。

また、世界規模でみると、およそ1700万人がアフリカーンス語を母語または第二言語として使用しているとされます(※ただし、アフリカーンス語を母語とする人口は減少しつつある)

そんなアフリカーンス語に含まれる単語のほとんどはオランダ語に語源がありますが、英語、フランス語、ポルトガル語といったヨーロッパ系言語だけでなく、アジアの言語やアフリカ人奴隷の言語からも大きな影響を受けています。

南アフリカ共和国におけるアフリカーナーの歴史ダイジェスト

アフリカーナーの概要はある程度分かったかと思いますが、彼らアフリカーナーをさらに知るためには、その大多数が住む南アフリカ共和国と彼らの関係を学んでいく必要があります。

ここからは、アルリカーナーと南アフリカ共和国(南ア)との関係について、歴史を追いながら確認していこうと思います。

南アへの入植とアフリカーナーの誕生

17世紀後半の1652年、オランダ系移民が南アにはじめて入植し、そして喜望峰付近にオランダ領東インド諸島(現在のインドネシア)へ航海する船が停泊して供給を受けられる基地を建設しました。

そのオランダ人入植者に加えて、フランス人プロテスタント集団、金で雇われたドイツ人、その他ヨーロッパ系の移民が南アに移住。

さらに、入植地の耕作を手伝わせるため、ヨーロッパ系移民はマレーシアやマダガスカルから奴隷を輸入した一方で、コイコイ人やサン人など、南アにいた土着の部族達も奴隷にしていきました。

このような環境が整った後、支配的な外国人勢力となった南アフリカのオランダ人は、100年以上の時間をかけて独自のアフリカーンス語を発展させ、他のヨーロッパ人勢力も同化させながら、アフリカーナーと呼ばれる民族集団を形成していったのです。

グレート・トレック

150年の間、南アにおける外国勢力としてはオランダ系(アフリカーナー)が支配的な存在でした。

しかしアフリカに勢力を伸ばしたイギリスによって、オランダ領だったケープ植民地が1795年にイギリスに占領されて以降、実質的にイギリス系が南アの支配権を獲得。

そして、多くのイギリス政府関係者や英国民が南アに入植し、さらにイギリスは1833年に奴隷廃止法を可決してアフリカーナーが所有していた奴隷達を解放してしまいました。

さらに、イギリス統治下で英語がケープ植民地の公用語された結果、英語が苦手だったアフリカーナー達は二級市民扱いをされるようになっていきます。

奴隷制度の終焉、土着民との境界争い、二級市民としての扱いに加え、さらなる肥沃な土地を求めた結果、この頃になると多くのアフリカーナー「フォールトレッカーズ」は、イギリスの支配下にあったケープ植民地から南アメリカ北部へ大移住を開始。

この大移住の旅は、「グレート・トレック」として知られるようになりました。

そして、移住先でアフリカーナーは「トランスヴァール共和国」と「オレンジ自由国」を建国。

アフリカーナーは幾度かの戦争を経ていくつかの地域を征服し、19世紀後半にトランスヴァール共和国とオレンジ自由国で貴重な天然資源が発見されるまで、平和的に農業に従事しながら生活していくこととなります。

アフリカーナーとイギリスとの紛争

イギリス人は、アフリカーナーが建国した共和国で発見された豊かな天然資源について、いちはやく情報を入手していました。

トランスヴァール共和国には豊富な金の鉱脈が、オレンジ自由国には金に加えてダイヤモンドの鉱山が眠っていたのです。

その結果、アフリカーナーとイギリスとの間に土地の所有権をめぐって緊張が高まり、ほどなくして二度にわたるボーア戦争へと発展。

1880年から1881年まで続いた第一次ボーア戦争ではアフリカーナーが勝利しましたが、イギリスはそれでもアフリカの豊かな資源を欲しがり、1899年から1902年まで続いた第二次ボーア戦争では、何万人ものアフリカーナーが戦闘や飢餓、病気のために命を落とし、最終的にイギリスが勝利を納めたのです。

そしてイギリスは、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国を併合し、イギリスの自治領「南アフリカ連邦」が1910年5月31日に成立しました。

また、この二度にわたるボーア戦争によって家を失った多くの貧しいアフリカーナー達は、アフリカ南部のナミビアやジンバブエといった国々に移住し、中にはオランダへ行ったり、他の欧米諸国まで足を伸ばす者達もいました。

アパルトヘイト

南アにおけるヨーロッパ系移民は、20世紀になってアパルトヘイト政策を打ち出した張本人であり、アフリカーナーの存在は強い影響を与えました。

特に1948年に南アフリカ連邦の政権を握ったアフリカーナーを支持母体とする政党「国民党」は、アパルトヘイトを強力に推進していくこととなったのです。

この「国民党がアパルトヘイトを推進していった」という点については、

  • 南アではエスニックマイノリティ(少数民族)であると同時に同じ白人の中でもイギリス系に対して経済面で劣位に置かれたアフリカーナが、公権力を奪回するためには非常に有効な手段であり機会であると捉えた
  • 多数派である黒人系住民への恐怖をイギリス系と共通の利害と捉えたことで、自らの立場を高めることが出来ると考えた

というのが、もしかしたら動機だったのかもしれません。

ちなみに、「アパルトヘイト」という言葉は、アフリカーンス語で「分離隔離」を意味し、1948年から1994年まで法律に基づいて施行された人種隔離政策のことで、「文明化の劣る」民族集団による政権参加の制限を目的として、様々な人種が厳格に分離隔離されました。

白人は、住居、教育、雇用、交通手段、医療の面ではるかに好条件の待遇を受けた一方、黒人には選挙権がなく、政府に黒人の代表者は存在しませんでした。

アパルトヘイトの終焉によるアフリカーナー(ボーア人)の離散

不平等な状況が何十年も続いた後、国際社会のアパルトヘイト政策に対する批判は次第に強まり、ついにアパルトヘイトは1994年に終わりを告げ、民主的な大統領選挙が実施された結果、ネルソン・マンデラが南アで初となる黒人の大統領になりました。

そして、アフリカーナーの中には、人種間の暴力抗争を恐れたり、より質の高い教育や恵まれた雇用の機会を求める者も現れ始め、アパルトヘイト政策の終焉後には多くのアフリカーナーが南アを去って欧米諸国へ移りました。

英語を喋れた者はイギリス、ニュージーランド、オーストラリアなどへ、英語ではなくオランダ語に活路を見出した者はオランダへ移住していったのです。

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アフリカーナーとは?アフリカーンス語を話すアフリカの白人系住民のまとめ

アフリカーナーについて、その概要から彼らが使う言語「アフリカーンス語」、そして歴史までを詳しく見てきました。

南アフリカへの入植者の子孫であるアフリカーナー達は勤勉で、何世紀もの年月をかけて豊かで独特な文化と言語を発展させてきました。

またアフリカーナーは、歴史の中でアパルトヘイト政策による圧政と関連づけられてきました。

そんなアフリカーナは、少なくとも1986年以降、南アの白人人口は減少傾向にあり、今後も減少し続けるだろうと予測されています。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

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