クレオパトラ7世とカエサルの関係は?子供は?生涯8つの秘密

世界史
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クレオパトラ7世は美しさと知性を兼ね揃えた絶世の美女として有名。

また、ローマの権力を握ったユリウス・カエサルや、マルクス・アントニウスとの関係によっても、歴史上最も有名になった女性の一人です。

そして、当時のエジプトほど豊かで大きな国を動かすに至ったのは、世界の歴史上、女性として初めてであると言っても良いかもしれません。

そんなクレオパトラですが、有名なカエサルとの関係や子供の存在など、一般的にあまり知られていないことがいくつかあります。

クレオパトラの生涯において、あまり知られていないけど知っておいて損はない8つのことを紹介していこうと思います。

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クレオパトラの生涯の秘密1:カエサルを味方にして王座を得た

クレオパトラ7世が生きていた当時、エジプト王朝とは別に強大なローパ帝国があったわけですが、その時に最も権力を握っていた男こそ、シーザーとして知られるユリウス・カエサル。

一方でクレオパトラは当時、エジプト王であったプトレマイオス13世と結婚して国を動かしていました(この二人は兄弟。この結婚は当時のプトレマイオス朝の慣例として採用されていた兄弟婚)

しかし、紀元前48年にカエサルに出会ったクレオパトラは、カエサルを魅了して愛人となります(ちなみにカエサルも当時結婚していたと言われるので、今でいうとダブル不倫です)。

そして、紀元前47年には、なんとカエサルの子供である男の子を出産。その子供に「カエサリオン(小カエサルという意味)」と名付けることになります。

このことはローマ帝国では大変なスキャンダルでした。

というのも、

  1. 当時のローマでは、エジプトとその快楽至上主義な文化は贅沢であると軽蔑されていた
  2. カエサルにはカルプルニアという妻がおり、その前に二人の妻もいたが息子がいなかった
  3. カエサルがちょうどその頃ローマで最も権力を持つ男になっていた

というのが理由。

当時のローマ人にとって指導者的立場の人間といえば、権力を共有してしかるべきだったのですが、カエサルは異なり、君主制に近い最高権力者を目指していました。

そのため、エジプト人の血を引くカエサリオンが成長し、カエサルの後継者としてローマを支配すると主張した場合、ローマの存続自体も危うくなるのではないかとの懸念が浮かんだのです。

クレオパトラの生涯の秘密2:外見よりも知性の女性

現代でも世界史上の三大美女として描かれるクレオパトラは、魅力的で飛び抜けて美しい外見を持っていたと言われることがあります。

しかし最近では、クレオパトラは容姿よりも頭の良さで有名だったと言われることが多くなってきています。

クレオパトラは十数の言語に堪能で、数学、哲学、弁論術、天文学の素養がありました。

実際、エジプトの歴史資料には、クレオパトラが「学者の地位を高め、知識人と共にいることを好んだ」と記されているようです。

またその優れた知性のため、クレオパトラ7世はシチュエーションに応じて見た目の印象を変え、政治的な主導権を握ることが上手かったようです。

例えば、式典などのイベントでは彼女はイシスの女神の格好で現れて、自分が神と同じような存在であると見た人たちの印象を操作することもしています。

また、ローマ帝国の将軍カエサルに接触しようとする目論見が阻止されそうだと気づいたクレオパトラは、カーペット(またはリネンの袋)に身をくるみ、カエサルの寝所に密かに入り込みます。

そこで王族衣装に身を包んだ若き女王が突然登場したこどでカエサルは心を奪われ、二人はたちまち同盟関係に、そして愛人関係になった話は有名です。

クレオパトラ7世が人を惹きつけたのは見た目の美しさではなく、彼女の話術と知性によるものだったと言った方が正解かもしれません。

クレオパトラの生涯の秘密3:カエサルが暗殺された時、クレオパトラはローマに住んでいた

クレオパトラがユリウス・カエサルと愛人関係にあった紀元前46年始め、クレオパトラの存在は大きな論議を引き起こしていました。

カエサルは愛人であるクレオパトラの存在を隠そうとはせず、クレオパトラがローマ入りした際も、カエサルとクレオパトラの子供である愛息子カエサリオンを連れていったり、金箔貼りのクレオパトラの彫像を神殿に建てるなどの行動に出たからです。

しかし一方で、クレオパトラのエキゾチックな髪型や真珠のアクセサリーは、当時の流行ファッションになっていたらしく、多くのローマ人女性が「クレオパトラルック」とも言えるような外見を楽しんでいたそう。

このように、ローマ入りしてから紀元前44年にカエサルが暗殺されるまで、一部の女性達のファッションアイコン的存在として、クレオパトラ7世はローマで時間を過ごしていたのです。

ただ、調子に乗ったクレオパトラ7世はカエサルが生きていた当時、自らを女王であるとローマでも度々主張していたため、多くのローマ市民からは嫌われていたようですが・・・。

結局、カエサルが暗殺された後は、逃げるようにしてローマを離れることになります。

クレオパトラの生涯の秘密4:エジプト人?ギリシャ人?

クレオパトラ7世はエジプト生まれでありながら、祖先はギリシャ系マケドニア人であり、家系を遡っていくとアレキサンダー大王の部下であったプトレマイオス1世にまで辿りつきます。

プトレマイオス1世は、紀元前323年のアレキサンダー大王の死後、エジプトを支配し、300年近くも続いた「ギリシャ語を話す王が統治する」プトレマイオス朝を創生しました。

一方で、クレオパトラが誕生したのはプロレマイオス1世がこの地にやってきてから250年以上も経ってからのこと。

世代でいうと12世代を数えます。

当時の王朝は妻だけでなく、隠れた愛人も多くいたわけで、10人の子供のうち1人くらいは父親(王)に血が繋がっていない可能性が示唆されていたり、そもそも母側にもギリシャ人以外の血が入っていることだって考えられます。

そのため、多種多様な民族で構成されていたエジプトにおいて、プトレマイオス1世から数世紀後に誕生したクレオパトラは、彼女が生まれるずっと以前に他の人種の血が混ざり、ギリシャ人の純潔ではなくなっている可能性もあり得ないことではないのです。

ちなみに特筆すべき点として、自分達のことを土着のエジプト人とは違うと考えていたプトレマイオス朝の家系において、クレオパトラはエジプト古来の風習を数多く取り入れ、初めてエジプト語を習得した人物としても知られています。

クレオパトラの生涯の秘密5:3人の兄弟姉妹の殺害に加担

権力の強奪や殺害計画は、兄弟やいとこ同士で結婚する近親婚と同じように、プトレマイオス朝の伝統であり、クレオパトラとその兄弟姉妹も例外ではありません。

クレオパトラの長弟(弟の中で最も年長者)で、最初の夫でもあったプトレマイオス13世は、王位を独占しようとしたクレオパトラをエジプトから追放し、やがて夫婦間の争いは内戦へと発展していきます。

その後、ユリウス・カエサルの支持を得たクレオパトラが再び優勢に立ち、プトレマイオス13世は戦いに敗れた後、ナイル川で溺死してしまうのです。

この戦いの後、クレオパトラ7世は次の弟であるプトレマイオス14世と結婚しましたが、クレオパトラはカエサルとの間に生まれた子供を自分と共同統治者にしようと企み、プトレマイオス14世を暗殺したと考えられています。

さらに紀元前41年、王位を脅かす存在として懸念していた妹アルシノエ4世の殺害にも、クレオパトラが関与しているとされています。

親族同士の近親婚が当たり前であり、親族外の人間とほとんど争いがなかったプトレマイオス朝においては、親族が持つ意味も、現代の我々が考える親族が持つ意味と全く違ったのかもしれません。

クレオパトラの生涯の秘密6:飲酒クラブを作った!?

カエサルの死後、ローマの権力の一部を握ったのがマルクス・アントニウスという人物。

クレオパトラはこのアントニウスも瞬く間に魅惑したと言われ、紀元前41年には二人の愛人関係は始まっていたと言われます。

2人の関係には政治的な意味合いがありました。

クレオパトラは自らの王位とエジプトの独立をアントニウスに守ってもらう必要があり、その一方でアントニウスは、エジプトの富や資源へのアクセスを得る必要があったのです。

しかしながら、2人は仲睦まじいカップルだったことでも有名。

2人は紀元前41年~40年の冬、エジプトにて余暇を過ごし、暴飲暴食の贅沢三昧の日々を過ごし、また、「Inimitable Livers」という名の飲酒クラブまで創ったらしいのです。

この飲酒クラブでは、夜通し宴会やワインパーティーが開かれ、クラブのメンバーはゲームやコンテスト大会に参加することもありました。

アントニウスとクレオパトラが好んで行ったのは、アレクサンドリア(プトレマイオス朝エジプトの首都)の街中を仮装して歩き回り、住民にいたずらをしかけて喜ぶといった行為だったらしいです。

クレオパトラの生涯の秘密7:海戦でエジプト艦隊を率いたこともある

クレオパトラはやがてマルクス・アントニウスと結婚し、アントニウスとの間に3人の子供をもうけますが、この2人の関係はローマで大スキャンダルを巻き起こします。

アントニウスのライバルであるオクタビアヌスによって、アントニウスが策略家の誘惑女に虜にされた反逆者であるとしてプロパガンダに利用されたのです。

その結果、紀元前32年、ローマの元老院はクレオパトラに対して宣戦布告します。

この戦いは翌年、かの有名なアクティウムの海戦でクライマックスを迎えることになりますが、クレオパトラはアントニウス軍の艦隊と並んで数十隻のエジプト軍艦を率いて戦いに臨むこととなり、恐らく人類史上最初の艦隊を率いた女性となったのです。

ちなみに、この戦いにおいて、二人はオクタビアヌス率いる海軍に歯が立ちませんでした。

アクティウムの海戦はほどなくしてアントニウス&クレオパトラ軍の決定的敗北となり、2人はローマ軍の前線を突破してエジプトへと逃亡することになります。

クレオパトラの生涯の秘密8:自殺の方法は未だ不明

 オクタビアヌス軍が2人をアレクサンドリアへと追いつめた後、紀元前30年、クレオパトラとアントニウスが自殺したことは有名です。

しかし、クレオパトラがどうやって自殺を図ったのか、その方法は定かではありません。

一般的に、クレオパトラは毒蛇(クサリヘビあるいはエジプトコブラと考えられている)に腕を噛ませて死んだと伝わっていますが、これはあくまでも言い伝えであり、実際に何があったのかは誰にもわからないのが現実です。

例えば、クレオパトラが髪用のクシに猛毒を忍ばせていたとか、致死性のある「軟膏」を用いて自殺したと記されることもあります。

また、蛇毒か何かの猛毒に浸けたピンを、体の何処かへ刺して自殺したのではないかとも言われています。

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