アルバート・アインシュタインの生涯と人生に関して、興味深い15の話を紹介していきます。20世紀最高の偉大な物理学者について見ていきましょう。
20世紀に活躍した学者として知られる人物と言えば、アルバート・アンシュタイン(アルベルト・アインシュタイン)を忘れてはいけません。
有名な「相対性理論」の生みの親であり、その後の物理学界を根本から変えたことで知られ、現在の人間社会が享受している科学の発展にはなくてはならない存在でした。
また、平和主義者としての考えや市民権運動を支援したことでも有名です。
そんなアルバート・アインシュタインに関して、その生涯と人生において興味深い15の話を紹介していこうと思います。
まずは、アインシュタインのプロフィールを簡単におさらいすることから始めていきましょう。
- アルバート・アインシュタインとは?
- アルバート・アインシュタインの生涯と人生15の話
- アインシュタインの生涯と人生1:子供の頃に数学で落第していなかった
- アインシュタインの生涯と人生2:子供の頃は癇癪持ちだった
- アインシュタインの生涯と人生3:学術界で仕事を得るのに約10年かかった
- アインシュタインの生涯と人生4:トレードマークの髪型は父となって誕生
- アインシュタインの生涯と人生5:食べ物を無意識に詰め込む癖があった
- アインシュタインの生涯と人生6:日食によって世界的に有名になった
- アインシュタインの生涯と人生7:気分転換にバイオリンを弾いた
- アインシュタインの生涯と人生8:愛に関しては天性の才能は皆無だった
- アインシュタインの生涯と人生9:FBIから数十年にわたってスパイされた
- アインシュタインの生涯と人生10:原爆製造を訴えた後に核軍縮を支持した
- アインシュタインの生涯と人生11:イスラエル大統領就任を求められた
- アインシュタインの生涯と人生12:子供からのファンレターが大好きだった
- アインシュタインの生涯と人生13:人種差別反対活動を行なっていた
- アインシュタインの生涯と人生14:死後に脳が盗まれた
- アインシュタインの生涯と人生15:本当のIQは誰も知らない。
- 合わせて読みたい世界雑学記事
- アルバート・アインシュタインの生涯と人生15の興味深い話のまとめ
アルバート・アインシュタインとは?
アルバート・アインシュタイン(1879〜1955年)は、ドイツ出身の理論物理学者で、それまで当たり前だとされていたニュートン力学やマクスウェルの方程式を基礎とした物理学を見直し、根本的に再構成した偉大な物理学者。
アインシュタインが生涯の中で発表した理論はいくつもありますが、最も有名なものとして特殊相対性理論や一般相対性理論を提唱し、質量や重力の概念を再定義しました。
そして、このアインシュタインの相対性理論によってその後、宇宙空間や時間についての様々な謎が解き明かされ、ブラックホールの存在や宇宙の膨張説などはその一例です。
その実績から1921年にはノーベル物理学賞を受賞し、「現代物理学の父」や「20世紀最高の物理学者」と呼ばれることもあります。
また、アインシュタインはユダヤ系であったため、ナチスドイツのユダヤ人迫害が激しさを増していく中、人生の後半ではアメリカへ移住。
アメリカへ移ると同時に、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトに対し、原子力とその軍事利用に関する手紙を送り、これが、第二次世界大戦末期に日本の広島と長崎に落とされた原子爆弾の開発プロジェクト「マンハッタン計画」へと繋がってしまいました。
ただし、アインシュタイン自身は原子爆弾投下を提言したことはなく、1955年に亡くなるまで、むしろ平和主義者としての立場を崩しませんでした。
アルバート・アインシュタインの生涯と人生15の話
アルバート・アインシュタインのプロフィールを簡単に確認したところで、ここからはアインシュタインの生涯と人生にまつわる15の興味深い話を紹介していきます。
アインシュタインの生涯と人生1:子供の頃に数学で落第していなかった
世紀の大物理学者であるアルバート・アインシュタインに関して一部では、「アインシュタインも子供の頃は数学で落第した」という話がなされますが、これについては正しくありません。
アインシュタインは数学が苦手どころか、むしろ例外的に優秀な生徒だったのです。
ミュンヘンでの学校時代には優秀な成績を収めており、9歳の時にはピタゴラスの定理を知り、12歳の時にはユークリッド幾何学や微分積分も独学で習得したと言われ、当時は周りから天才扱いされていたと言われます。
ただし、物事を疑って探求するアルバート・アインシュタインは、唯一、先生から要求される「機械的な秩序立った学習」に対しては苛立っていたようです。
後にアインシュタインが成人して様々な理論を発表していく一方で、小学校の数学で落第したという話が広まると、それに対してアインシュタイン本人は「それは神話だ」と吐き捨てたという話もあります。
アインシュタインの生涯と人生2:子供の頃は癇癪持ちだった
若き天才はヘソを曲げると手当たり次第に物を投げ、ある時は先生に椅子を投げたこともあったと言われます。
5歳の頃、アインシュタインは家庭教師や家族に日常的に当たっていました。
妹のマリア(通称マーヤ)はよく頭を叩かれていたようで、のちに「頭のいい兄を持つと、固い頭を持っていないとやっていられない」と回顧しているほどです。
ちなみに、アインシュタインについて残る噂の中には、「アインシュタインが怒ると鼻の先だけ白くなり、残りの顔全体は黄色くなった」と言ったものまであります。
アインシュタインの生涯と人生3:学術界で仕事を得るのに約10年かかった
アインシュタインの業績を見ると、さも学術界でのキャリアも順調なスタートを切ったように思いますが、実際には学術界で仕事を得るのに約10年かかっています。
というのも、チューリッヒ工科大学在学中、知性の輝きを見せる一方で、反抗的な性格と頻繁に授業を欠席したことから、アインシュタインは1900年に大学を卒業した際、教授たちから素晴らしい評価を得ることが出来なかったからです。
アインシュタインは学術的な知識を活かせる仕事を探し続け、2年後にようやくベルンにあるスイス特許局に就職(特許局の仕事では申請されたアイデアを審査するために物理学の知識が役立った)。
仕事は退屈でしたが日々の業務を数時間で済ませると、残りの時間で論文を書いたり研究を進めたりすることができました。
その結果、1905年(この年はアインシュタインの「奇跡の年」とも呼ばれる)に、無名の特許局員だった彼は4本の革命的な論文を発表し、その中で有名な物理学の方程式「E = mc2」と特殊相対性理論を紹介。
これらの発見でアインシュタインは物理学の世界的な舞台に立ちましたが、教授の職を得ることができたのはそれから4年後の1909年で、彼が大学を卒業してから10年近くも経ってからのことでした。
アインシュタインの生涯と人生4:トレードマークの髪型は父となって誕生
青年時代のアインシュタインはいつも綺麗に黒髪を整えていました。
しかし、1904年に息子のハンスが生まれると一変。
当時、特許庁の事務所で働いていたアインシュタインは、家族を養うのに必死すぎて、髪をとかすのも床屋に行くのも忘れていました。
そしてこの結果、トレードマークのボサボサな髪型が出来上がっていったようなのです。
また、この髪型に慣れてしまったアインシュタインはその後、生涯床屋に行くことを避け、あまりにも髪型が酷くなった時には、2番目の妻エルザが整えたと言います。
アインシュタインの生涯と人生5:食べ物を無意識に詰め込む癖があった
アインシュタインは特許庁の事務所で働いていた頃、2人の友人と読書クラブ「オリンピア・アカデミー」を作りました。
3人はことあるごとに集まり、ソーセージ、グリュイエールチーズ、フルーツ、紅茶を楽しんだようです。
あるアインシュタインの誕生日、2人の友人は、高価なキャビアをサプライズで持ってきてくれました。
しかし、このプレゼントはアインシュタインにはまさに「豚に真珠」だったのかもしれません。
アインシュタインは夢中になって話す時、無意識に食べ物を口に入れてしまう癖があったからです。
そして、アインシュタインはガリレオの惰性の法則について熱心に話している時、キャビアを食べていることを意識せずに平らげてしまったらしいのです。
実際、アインシュタインは人生の中で「僕のような貧しい出の人間にグルメなものを与えても、味なんてわからないのさ」という言葉を発した話が残っています。
アインシュタインの生涯と人生6:日食によって世界的に有名になった
アインシュタインは1915年に発表した一般相対性理論の論文で、重力場が空間と時間の構造に歪みを生じさせると主張。
それが物理学の法則を大きく書き直すものだったため、この理論は論争の的になりました。
この理論によると、超大質量を有する天体の周囲では、その大質量のために「近くを通る星の光が測定可能なほどの歪みを生じる」ことになります。
1919年5月に皆既日食が起きることが予想され、この皆既日食はアインシュタインの理論を証明するための適切な条件となりました。
アインシュタインの理論を証明しようとした英国の天文学者アーサー・エディントンは、西アフリカの海岸に行って皆既日食を撮影。
その写真を解析した結果、エディントンは「太陽の重力によって、光がおよそ1.7秒角歪められていた」ことを確認したのです。
そして、この数字は一般相対性理論で予測されたものと全く同じで、この発見によってアインシュタインは一夜にして世界的な有名人となり、世界を旅して天体に関する自説の講演を数多くこなしていくことになりました。
アインシュタインの生涯と人生7:気分転換にバイオリンを弾いた
アルバート・アインシュタインは人生の中で、気分転換のためによくバイオリンを弾いたと言われます。
5歳でバイオリンのレッスンを始め、17歳頃になると州立学校の先生たちを感心させるほどの腕前になりました。
また、1914年頃、ベルリンに住むアインシュタインは、友人で同じく理論物理学を研究していたマックス・プランクと一緒にソナタを演奏していたと言います。
そして、有名になってからアインシュタインは、フリッツ・クライスラーなどの偉大な音楽家たちと一緒にチャリティーコンサートを開きました。
「音楽は理論について考える助けになっていたようです」と、アインシュタインの2人目の妻であるエルザは語っています。
アインシュタインの生涯と人生8:愛に関しては天性の才能は皆無だった
2回結婚をしたアインシュタインは、その生涯の中で数々の不倫もしており、中にはロシアのスパイ女性とも関係があったと噂さえるほど。
物理学には天才的な才能を発揮したものの、愛に関しては真逆だったと言われます。
1回目の結婚はチューリッヒ工科大学で出会った物理学者のミレーバ・マリッチとで、二人の間には3人の子供が生まれましたが、3人目の子供が生まれてから2人の関係は悪化します。
そして、結婚生活が破綻してから、なんとアインシュタインは、数々のひどい要求をミレーバに突きつけたのです。
その内容には、
- 私との関係において次の点を守ること
- 私からの愛情は求めないこと
- 私が求めたら話しかけるのをやめること
などの項目が含まれていました。
結果、2人は離婚することとなり、後にアインシュタインは、自分の従妹であるエルザ・レーベンタールと結婚しました。
アインシュタインの生涯と人生9:FBIから数十年にわたってスパイされた
1933年にアドルフ・ヒトラーが権力の座について間もなく、アインシュタインはドイツのベルリンを離れてアメリカに渡り、ニュージャージー州のプリンストン高等学術研究所の教授に就任しました。
しかし、ナチス政権下のドイツ出身であったことに加えて、平和主義や左翼へ積極的な支援を行っていたことで、FBIの初代長官ジョン・エドガー・フーバーから疑念を持たれ、アインシュタインはアメリカ到着後からおよそ22年間に渡って、FBIの監視下に置かれることとなります。
当初はナチスドイツのスパイとして、第二次世界大戦後はソ連のスパイとしての可能性を捨て切れなかったFBIは、アインシュタインの電話を盗聴する、書簡を開封する、ゴミを漁るなど、様々な諜報活動を続けていったのです。
その活動の中では、アインシュタインが殺人光線を作っているという噂に対する調査さえあったと言われます。
1955年にアインシュタインが死去した時、彼についてのFBIファイルは1800ページにも上っていたようです。
アインシュタインの生涯と人生10:原爆製造を訴えた後に核軍縮を支持した
1930年代の終わりにアインシュタインは、新しい研究によってドイツの科学者、がいずれ原爆を製造するかもしれないことを知りました。
大量殺人兵器がナチスの手に握られるという見通しから、彼は平和主義者であることは一旦引っ込め、ハンガリーの物理学者レオ・シラードと協力して、アメリカ合衆国大統領「フランクリン・ルーズベルト」に原子力の研究開発の必要性を訴えました。
これによってアメリカは、核爆弾開発を急務とする「マンハッタン計画」を立ち上げたのです。
アインシュタインはマンハッタン計画に直接関わることはありませんでしたが、後に広島と長崎への原爆投下に、自分が小さいながらも加担したことを知ると深い後悔の念を表しました。
「ドイツが原爆開発に成功しないことを知っていたら、指一本動かさなかっただろう」とアルバート・アインシュタインはその生涯の中で語っています。
そして核軍縮、核爆弾実験の規制、世界の統一政府の設立を熱心に支援するようになりました。
そして人生最期の年である1955年には、哲学者バートランド・ラッセルとともに「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名して核戦争の危険を強調。
各国政府に対して「国家間の紛争をまとめるための平和的な手段を見つけるべき」だと訴えました。
アインシュタインの生涯と人生11:イスラエル大統領就任を求められた
アルバート・アインシュタインは宗教に熱心ではなく、ユダヤ民族主義者「シオニスト」とも一線を画していましたが、ユダヤ人としての強いアイデンティティを持ち、その生涯の中で反ユダヤ主義を頻繁に批判しました。
そのため、世界的に有名人だったこともあり、1952年にイスラエルのハイム・ヴァイツマン大統領が死去すると、アインシュタインはイスラエル政府によって第二代イスラエル大統領への就任を要請されたのです。
しかし当時すでに73歳であり、客観的な研究者としての生涯を全うすると決めていたアインシュタインは、この要請を辞退。
代わりに、著作権をイスラエルのヘブライ大学へ贈るという方法でイスラエルを支援しました。
アインシュタインの生涯と人生12:子供からのファンレターが大好きだった
アインシュタインはたくさんの手紙をもらいましたが、子供からの手紙には必ず返事を書くことを心がけていたようです。
また、アインシュタインが子供とやり取りした書簡はチャーミングで、励ましの言葉に溢れているものが多かったと言います。
ちなみに、アインシュタインが子供に対して送った返事に関しては、「おしえて、アインシュタイン博士」という本にまとめられています。
アインシュタインの生涯と人生13:人種差別反対活動を行なっていた
ナチス政権による迫害を逃れるために、1933年にドイツを逃れたアインシュタインは、アメリカで目にした人種差別に非常に敏感でした。
そのため、アインシュタインは全米黒人地位向上協会(NAACP)のメンバーとなってアフリカ系アメリカ人の人権を擁護し、有名な黒人歌手「マリアン・アンダーソン」が1937年にプリンストンへ歌を歌いに来た際は、ホテルに宿泊を拒否された彼女を自宅に招待しています。
また、アインシュタインは、黒人系アメリカ人の社会学者でNAACPの創立者「W.E.B. デュボイス」とも手紙のやり取りをしており、デュボイスが狙われた際にはアインシュタインが性格証人となり、デュボイスを救いました。
さらに、1946年にペンシルバニア州のリンカーン大学で行なったスピーチでは、人種による社会の分断は「白人社会の病気」であるとし、自分は黙認するつもりはないことを表明しています。
アインシュタインの生涯と人生14:死後に脳が盗まれた
アルバート・アインシュタインは、1955年4月に腹部の大動脈瘤でこの世を去ります。
アインシュタインは火葬されることを希望していましたが、酷いことにプリンストン大学の病理学者トマス・ハーヴェイが検死中、天才の秘密を探るために彼の有名な脳を取り出したのです。
アインシュタインの息子からしぶしぶの了解を取り付けたハーヴェイは、後に脳を切り刻んで研究のために様々な学者へ送りました。
1980年代からいくつかの研究がなされましたが、結局、その成果のほとんどは退けられるか、信ぴょう性が薄いと見なされる結果となった中で、おそらく最も有名な研究は、カナダの大学の研究チームが発表した1999年のものでしょう。
アインシュタインの脳には、数学や空間的な思考を司る部位である頭頂葉に、普通ではない「しわ」があったという内容です。
アインシュタインの生涯と人生15:本当のIQは誰も知らない。
アインシュタインはIQテストを受けたことがありませんが、IQは160だったと主張する話が多く存在します。
しかし、この話を証明することは出来ません。
また、アインシュタインは言語に関しては決して得意でなかったことから、実は現代のIQテストで測った場合、そのIQは至って平均的な結果に終わり、物理学関連の能力だけが秀でていた可能性があるという説もあります。
つまり、アインシュタインの偉業は特定の領域に限定されたもので、これが全般的な知的能力を指すIQと混同されがちだという主張です。
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アルバート・アインシュタインの生涯と人生15の興味深い話のまとめ
20世紀最高の物理学者と呼ばれるアルバート・アインシュタインの生涯や人生に関して、15の話を見てきました。
アインシュタインは確かに偉大な業績を残しましたが、一方で、平和主義を唱えたり、人間らしい側面を持っていたりと、とても親近感の湧く人物であったのだと思います。