マンハッタン計画とは?第二次世界大戦中に原子爆弾を製造&投下したプロジェクト

マンハッタン計画は、第二次世界大戦中にアメリカが主導した原子爆弾の開発・製造プロジェクト。この結果、日本の広島や長崎に対して核兵器が使われることになりました。

学校で歴史を勉強したり、近代日本に関するドキュメンタリーを観たりすると「マンハッタン計画」について耳にすることがあります。

マンハッタン計画は第二次世界大戦において、原子爆弾を世界で初めて製造したプロジェクトで、その結果、日本の広島と長崎に対して核兵器が落とされることになり、また、第二次世界大戦の終結を決定付けました。

つまりマンハッタン計画は、日本及び世界全体の歴史の中で重要な分岐点であり、現代に続く世界の流れを理解するためにも避けて通れない出来事だと言えます。

この記事ではマンハッタン計画について、基本的な概要のおさらいをした後、歴史を追ってより理解を深め、最後にいくつかの興味深い話を紹介していきます。

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マンハッタン計画とは?

マンハッタン計画とは、第二次世界大戦中に実施され、世界で初の核兵器を生み出した研究開発プロジェクト

当時、連合軍(アメリカ、イギリス、カナダ、フランス、中国など)と敵対していた枢軸国(ドイツ、日本、イタリア、ハンガリーなど)の一部(特にナチス・ドイツ)が、原子爆弾開発に着手することに焦ったアメリカ、イギリス、カナダが、政府、産業、科学・学術分野の大規模な共同作業として1942年に立ち上げ、1946年まで続いたもの。

その規模は、合計60万人以上の人が何らかの形で関わったのではないかと推測されているほどです。

そして結果的に、日本の広島と長崎をターゲットとして、人が住む場所へ世界で初めて原爆が投下されて何十万人もの犠牲を出したことでも知られています。

加えて、このマンハッタン計画が、第二次世界大戦後に始まるアメリカとソビエトを中心とした冷戦構造を生み出すきっかけにもなったと言われ、核の恐ろしさと戦争の脅威を世界へ知らしめたプロジェクトです。

マンハッタン計画の全容を歴史を追って見ていこう

そのマンハッタン計画の中身をより詳しく知るためにも、歴史や関係した各機関を確認していきましょう。

ただし、ここでは特にアメリカを中心とした視点で同計画を掘り下げていきます。

マンハッタン計画の前身組織

マンハッタン計画自体が着手されたのは1942年10月ですが、この計画の始まりは1938年、ドイツ人科学者の「オットー・ハーン」と「フリッツ・シュトラスマン」が偶然にも原子核分裂を発見したことに遡ります。

そしてその数か月後、アルバート・アインシュタインとレオ・シラードが、ドイツがこの技術を使って原子爆弾を作る可能性があると警告する手紙を、アメリカのルーズベルト大統領に宛てて送りました

(フランクリン・ルーズベルト大統領)

その手紙を読んだローズベルト大統領は、核分裂反応の可能性を研究するために軍事分野と科学分野の専門家らを集めて「ウラン委員会」を結成します。

当初は予想通りほとんど進捗はありませんでしたが、1941年の春にMAUD委員会(イギリスにおけるウラン委員会)が「原子爆弾の製造は可能で、そのためには米英の協力が必要である」とする調査報告書を発表。

これを受けてアメリカ政府は、原子力研究の組織をS-1委員会に改め、またその上部機関としてヴァネヴァー・ブッシュを局長とする科学研究開発局(Office of Scientific Research and Development:OSRD)を新設しました。

しかし研究から開発へと事が進んでいくにつれ、十分なサイズの原子爆弾を作るにはS-1委員会だけでは資源が足りないことに気づき、ヴァネヴァー・ブッシュはアメリカ陸軍にも協力を依頼することを決めます。

マンハッタン計画の前身研究

マンハッタン計画が公式に制定されるまで、原子力に関する研究はアメリカの様々な大学で行われていました。

カリフォルニア大学バークレー校の 「放射線研究所(Rad Lab:Radiation Laboratory)」では、物理学者のアーネスト・ローレンスが主導となって研究が行われました。

ローレンスの最も重要な功績は、アトム・スマッシャー(Atom Smasher:原子核破壊装置)とも呼ばれるサイクロトロンを開発したことです。

サイクロトロンとは、電子磁石を使って真空管内で原子を加速させ、秒速約40,234kmの速度で原子同士を衝突させられる装置のこと。

ローレンスはこの装置を使えば、ウラン235を電磁同位体分離することが出来ると考えたのです(つまり、ウラン同位体の一つウラン235を分離させれば核分裂反応を起こせることが分かった)

これは、マンハッタン計画において最終的に使用を検討した同位体分離法4つのうちの1つです。

アーネスト・ローレンス出典:wikipedia

さらに同じ時期、カリフォルニア大学バークレー校の教授であったエミリオ・セグレとグレン・シーボーグが、94番元素(後に彼らによってプルトニウムと名付けられます)も核反応に使えることを発見。原子爆弾開発のためのさらなる可能性を提示しました。

そしてコロンビア大学においても、エンリコ・フェルミ、レオ・シラード、ウォルター・ジン、ハーバート・アンダーソンを含む科学者のチームが、連鎖反応を起こす原子炉を用いて、核分裂反応から起こる中性子の放射を測定する実験を行いました。

この研究は1942年の2月にシカゴ大学の冶金研究所に引き継がれ、同年12月2日、原子炉「シカゴ・パイル1号」が臨界に達し、世界で初めて外部刺激を必要としない核分裂の連鎖反応を起こすことに成功します。

この実験によって、原子力はエネルギーを生み出すことが出来ると証明され、さらにプルトニウム生成の実用的な方法も確立されました。

マンハッタン計画の始動

マンハッタン計画は1942年の8月13日に公式に始動しました。

「マンハッタン計画」という名前は、この計画の本部が当初、マンハッタンのブロードウェー270番地にあったことが由来。

計画の最高責任者に任命されたレズリー・R・グローヴスが、この名前を提案して採用された結果、マンハッタン計画と呼ばれるようになったのです。

そして、マンハッタン計画における最初の大規模な資金は、1942年12月にルーズベルト大統領が初期配分として5億ドルを拠出するように指示したことで確保されます。

その後すぐに計画の本部は首都ワシントンD.C.に移されますが、開発の拠点はアメリカ国内の複数の場所に点在することになりました。

様々な開発拠点

ニューメキシコ州のロス・アラモスにあった拠点

マンハッタン計画の拠点の一つはニューメキシコ州のロス・アラモスにあったもの。

J. ロバート・オッペンハイマーの指揮の下、ロス・アラモスの研究所は、原子爆弾製造のための研究と製造そのものを行うことになりました。

物理学者、化学者、冶金学者、爆発物の専門家、軍人など、期間中には何千人もの関係者がこの秘密の町に集まったのです。

一方で、陸軍は物資や資源の提供、計画のサポート、そしてロス・アラモスで行われている極秘計画の警備を任されていました。

テネシー州のオーク・リッジとワシントン州ハンフォードにあった拠点

マンハッタン計画のもう一つの重要拠点は、テネシー州のオーク・リッジに位置していたもの。

マンハッタン計画では、ウランとプルトニウムそれぞれをベースにした2つの原子爆弾の研究が同時に行われていきました。

(オークブリッジにあったK-25)

そしてオーク・リッジには、ウラン濃縮場であるK-25、Y-12、S-59と、最初のプルトニウム製造施設であるX-10黒鉛炉(核分裂後に放出される中性子速度を下げるために黒鉛を使う原子炉)が置かれていたのです。

また、ワシントン州のハンフォードにも同じく重要な研究所がありました。

ここにはプルトニウム製造工場であるB原子炉が建設され、時間が経つと他にもいくつかの原子炉が作られていきます。

他にも数多くあった支部

マンハッタン計画では、上記のもの以外に何十もの支部が存在していました。

例えば、マサチューセッツ州ケンブリッジではハーバード大学とマサチューセッツ工科大において、研究者らがさらなる研究を重ねていました。

また、オハイオ州デイトンでは、モンサント・ケミカル社に、原子爆弾の起爆剤として使われる放射性物質ポロニウムの分離と精製を依頼しています。

さらにカナダにおいても、オンタリオ州に位置するモントリオール研究所とチョーク・リバー原子研究所と協力して研究が進められていました。

一方で、日本に原子爆弾を投下する任務を与えられた陸空軍の第509混成部隊は、ユタ州のウェンドーバー・エアーフィールドとキューバにおいて訓練を行い、計画実行の準備をしていたとされます。

マンハッタン計画の結果として広島と長崎に原爆が落とされる

マンハッタン計画が進み、実際に爆弾を製造する過程に入ると、アメリカ政府は様々な戦略の可能性を検討するようになり、以下の流れで公式に原子力時代の幕開けとなりました。

  • 1945年の5月
    • 陸軍長官のヘンリー・L・スティムソンは、トルーマン大統領の承認を得て、戦時中の原子爆弾の使用と戦後の原子力の利用に関して検討する暫定委員会を設立
  • 6月16日
    • 暫定委員会に所属する科学小委員会が日本に対する原爆の使用を勧める報告書を発表
  • 7月16日
    • 世界初の原爆実験がニューメキシコ州の砂漠のトリニティ・サイトで行われる

(トリニティで行われた核実験)

原爆実験の結果は凄まじいもので、「ガジェット」と呼ばれたプルトニウム爆弾は20キロトン(20,000トン)もの威力を持って爆発。

高さ13kmに及ぶ巨大なキノコ雲を作りだし、後には、幅300mで深さが3mのクレーターが出現したほどでした。

広島への原爆投下

そして1945年8月6日、ついにマンハッタン計画の中でアメリカは、人間の居住地に対する世界初の原子爆弾を広島へ投下

広島原子爆弾投下の瞬間エノラゲイ「リトルボーイ」

リトル・ボーイ」の名で知られるこの原爆は、ウランを用いたガンバレル型のもので、約13キロトンの威力で爆発しました。

投下から4ヶ月の間に、広島では9万から16万6千人の人が亡くなったと考えられています。

また、アメリカ側は投下後5年以内に約20万人の人が原爆によって亡くなったと推定していますが、広島市は直接的・間接的合わせて(やけど、放射線障害、癌を含む)23万7千人が命を落としたと発表しています。

長崎への原爆投下

広島への原爆投下の3日後である1945年8月9日には、2つ目の原子爆弾が長崎に投下されました。

Atomic Bombing Nagasaki (1945)

ここで用いられた核兵器は、「ファット・マン」の愛称で知られる21キロトンのプルトニウム型のもので、爆発直後に4万から7万5千人が亡くなり、さらに6万人が重傷を負い、1945年の終わりまでに合計で8万人が亡くなったのではないかと推定されています。

そして5日後の8月14日に大日本帝国政府は、連合国側へ降伏を受け入れる(ポツダム宣言の受託)と通達することとなったのです。

マンハッタン計画の興味深い話

マンハッタン計画の全貌を順を追いながら見てきましたが、最後にマンハッタン計画にまつわるいくつかの興味深い話を紹介しておきます

計画実施の鍵となった一方で除外されたアルバート・アインシュタイン

ルーズベルト大統領に手紙を送り、大量のウランがあれば核の連鎖反応が起きて非常に強い威力の原子爆弾が製造できるかもしれないこと、さらに、ドイツも原子爆弾の開発に着手し始めることなどを知らせた天才物理学者アインシュタインは、言ってみればマンハッタン計画の産みの親の一人です。

しかし、機密取扱許可が得られな方ため、アインシュタインはマンハッタン計画に参加することはなく、さらに、マンハッタン計画に参加していた科学者たちは、アインシュタインに相談することも禁止されていました。

一方でこれによって、物理学の大いなる発展に貢献したアインシュタインの功績が血で染まることがなくなり、後世にアインシュタインの名前が汚れることが無くなったとも言えます。

リトルボーイとファットマン

上でも簡単に触れたとおり、広島と長崎に落とされた原爆はそれぞれ「リトルボーイ」と「ファットマン」という名が付けられていました。

リトルボーイ

「リトルボーイ」はウラニウム235から作られた爆弾のコードネームで、鯉のような形をした核爆弾。

日本陸軍基地のある広島に落とされました。

ファットマン

「ファットマン」は日本に落とされた2つ目の原子爆弾で、胴体部分が丸々と太ったような形状をしていることから、その名前が付けられました。

プルトニウムを使って作られており、リトルボーイよりも威力のあるものだとされています。

長崎上空で爆発し、長崎市の40%以上が壊滅状態になりました。

マンハッタン計画はトップシークレットだった

マンハッタン計画は最高レベルの機密プロジェクトでした。

これは、ドイツや日本がアメリカの核開発技術に関する情報を入手し、自国の核兵器を強化するのではないかと心配されたためです。

自国内においても情報漏洩が起こらないように徹底しており、全体60万人ほどが知ってか知らずかマンハッタン計画に関わったとされるのに、この計画の全貌を知っていたのは全米でたったの50人程度だと言われます。

また、計画の秘密を漏らした人間は、10年間にも及ぶ投獄が課される可能性がありました。

加えて、プロジェクトのために雇用された労働者の数は膨大だったため、セキュリティチェックのために特別諜報部隊が編成されたり、嘘発見器を使用した検査も行われました

さらに、労働者が死亡した場合、その棺がチェックされることもあったそうです。

プロジェクトにかかった費用は比較的少ない

これほど大掛かりで、戦争を終結させるに至った結果を見ると、マンハッタン計画には莫大なコストが掛かったように思われます。

マンハッタン計画全体に要した費用は20億ドル弱で、今日の金額に直すと220億ドル(日本円で2.2兆円)

確かに巨額ではありますが、第二次世界大戦中のアメリカの支出のおよそ9日分相当で、計画がもたらした結果を考えると、意外にそこまで費用が掛かっていないことが分かります。

ちなみに、マンハッタン計画の出費のうち90%が施設の建設と核分裂性物質(核分裂を起こす物質)の製造に充てられ、実際の爆弾の開発と製造に掛かった費用は10%足らずだったと言われます。

マンハッタン計画におけるイギリスの役割

第2次世界大戦中、イギリスはアメリカが初の原子爆弾を開発・製造するために協力し、イギリスの専門的な知識がマンハッタン計画の完成に大きな役割を果たしました。

それ以前にイギリスではより発展したプロジェクトが進んでいましたが、アメリカが戦争に参戦したことでそのプロジェクトに陰りが出ます。

結果、イギリス政府は自国の原子力開発を一旦保留にし、アメリカの核開発を支援することにしたのです。

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マンハッタン計画とは?第二次世界大戦中に原子爆弾を製造&投下したプロジェクトのまとめ

マンハッタン計画は、近代の人類史において核の脅威を知らしめたプロジェクトでした。

一方で、このマンハッタン計画によって、その後の冷戦化では核の製造競争が起こり、現在の核保有国を作り出してしまったとも言えるのです。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

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