ケルト人について見ていきましょう。歴史的な背景を踏まえながら、民族的な特徴や文化的な特徴を異なる視点から紹介していきます。
歴史の中では異なる民族や文化が入り乱れ、現代の社会が形成されてきましたが、なかには一時期こそ大きな勢力を持ったものの、衰退してしまった民族も多く存在します。
その一つがケルト人です。
このケルト人とはどういった人々なのでしょうか?
ケルト人を知るためにも、民族的な特徴や文化的な特徴を、歴史的背景も踏まえて見ていきたいと思います。
まずは、ケルト人について簡単な概要を確認することから始めていきましょう。
ケルト人とは?
ケルト人とは、インド・ヨーロッパ語族ケルト語派に含まれる同じような言語並びに似たような信仰、伝統、文化を共有した複数の民族の総称。
古代ローマ人達がアルプス以北へ進出してくる以前からヨーロッパに住んでいたとされます。
しかし、不明点が非常に多く残っている人々で、ハッキリしたことが分かっていません。
そのため、起源についても確実なことは分かっていませんが、ケルト人達はおそらく青銅器時代の末期、およそ紀元前1200年頃に中部ヨーロッパに広がり、その後も移動を繰り返し、イギリス、アイルランド、フランス、そしてスペインを含む西ヨーロッパ広域に拡散したと考えられています。
その後、各部族が統一行動をとらずにばらばらになったままだったこともあり、ケルト人達は徐々に古代ローマの支配下に入っていき、やがて、ローマ人だけでなくゲルマン人にも征服されながら同化していきました。
一方でケルト人は、独特ながらも高度な文化を持った民族で、特にイギリスとアイルランドにおいては、今日においてもケルト人の影響が残っていると言います。
ちなみに、ケルト人達は紀元前5世紀頃から古代ローマ人達に、「ガリア人(ラテン語ではGallī)」と呼ばれるようになりました。
また、古代ローマ人達は、彼らガリア人達が居住した地域を「ガリア」と呼んでいました。
ローマ人がケルト人達に対して使った「ガリア」という言葉については、確固とした起源が分かっておらず、なぜ、ローマ人達がケルト人達を「ガリア人」と呼んだのかについて未だにハッキリとした答えが出ていません。
しかし、ガリア人を示すラテン語の「Gallī」は、
- ケルトのある部族名に由来した言葉
- ケルト祖語の「Galano(力)」から来たものである
という仮説があり、これらによってローマ人の間では、「Gallī(ガリア人)」がケルト人を意味するようになっていったのではないかと考えられます。
ケルト人の特徴を11の民族的・文化的ポイントから考える
ケルト人について簡単な概要を説明してきましたが、ここからは、ケルト人達はどのような特徴を持つ民族グループだったかを知るためにも、ケルト人に関する11の民族的・文化的ポイントを見ていきましょう。
1. ケルト人はどこから来てどこへ消えたのか?
紀元前1200年頃にはヨーロッパの中部に広がっていたケルト人達は、紀元前4〜3世紀頃にはすでに、現在のイギリスに当たるブリテン島やアイルランドを含めた、ヨーロッパのほぼ全土へ拡散していました。
そして、紀元前390年または387年には、一時的にでも都市国家として発展していたローマを占領するにまで至っています。
(青は紀元前1200年前後のケルト人の分布、紫は紀元前400年頃, 出典:wikipedia)
しかしその後は、力をつけたローマによって逆に支配されるようになります。
ヨーロッパ全土へ勢力を拡大し始めたローマによって、ヨーロッパ大陸各地に居住していたケルト人達の多くは殺害されるかローマの支配下へ置かれていったのです。
そして、500年続いたローマ人による支配下においてケルト人達は、ローマの文化に従いました。
さらには、ゲルマン人達によっても圧迫されました。
このような歴史的背景から、ヨーロッパ大陸に広がっていたケルト人達は、その時々の支配者側へ同化していき、これによって独自の文化も失なっていってしまったのです。
一方で、ブリテン島の西部にあるウェールズやスコットランド、そしてアイルランドはローマの支配が及ばなかったこともあり、この地域へ移ったケルト人達と彼らの文化はその後も生き延びていくこととなりました。
古代のケルト語にはピクト語、ルシタニア語、ケルティベリア語、レポント語などがありました。
これらの言葉は今日ではもう話されていない死語ですが、ケルト民族の多くが「ローマ化」されてからも数百年は使われていたと考えられています。
実際に、古代ケルト語は中世まではヨーロッパ大陸でも使われていたようです。
その後に衰退していったのは、「ケルトの人々は統一されていなかった」という点が大きく、この隙間を縫って、より統一された民族の言語が浸透していった結果なのではないでしょうか。
2. 異なるグループの存在を理解することはケルト人を知る上で重要
概要の部分でも説明した通り、ケルト人は単一の民族グループではなく、共通または似たような言語や宗教などの文化的背景を持つ民族グループの総称で、そこにはゲール人、ゴール人、ブリトン人、ブルトン人、ガラティア人など、また、ケルト系民族に分類されるアイルランド人などが含まれます。
これは、各グループが統一する動きを見せずにヨーロッパ各地へ広がった点に大きく起因します。
以下では、ケルト人に属するグループの具体例として、ガラティア人とブルトン人について見ていきましょう。
バルカン半島とアナトリアにおけるケルト人:ガラティア人
ケルト人の一派であるガラティア人とは、バルカン半島へ進出し、古代ギリシャ人によって建てられたマケドニア王国などを征服していき、紀元3世紀には小アジア(アナトリア半島)へ進出したケルト系グループ。
小アジアに進出してからは、そこへガラティア王国を建国しました。
ブルターニュ地方のケルト人:ブルトン人
ブルトン人とは、今日ブルターニュ地方と呼ばれるフランス北西部の地域に居住していたケルト系のグループ。
フランスの中でもこの地域は地理的に他の地域と離れているため、ケルトの文化や伝統は滅ぼされることなく、現在にも受け継がれてきました。
例えば、今日でもケルト時代に起源をもつ祭りやイベントが数多く行われ、フランスに住むブルトン系の子孫は、コアフと呼ばれるケルト伝統の帽子を被ることでも知られます。
さらに、一部の人々は今もケルト語系のブルトン語(ブレイス語)を話しています。
3. 今日でも話されるケルト系の言語
ブルトン語はインド・ヨーロッパ語族ケルト語派に含まれるブリソン諸語に属する下位言語で、同じブリソン諸語にはイギリスのウェールズで話されるウェールズ語や、イギリスのコーンウォール地方で話されるコーンウォール語があります。
これらの言語は現在でも話されており、それぞれの言葉はお互いに似ているのが特徴です。
また、インド・ヨーロっパ語族ケルト語派には他にも、アイルランドの一部で話されるアイルランド・ゲール語(アイルランド語)や、スコットランドの一部で話されるスコットランド・ゲール語などの、今日でも生き延びている言語を見つけることが出来ます。
4. ケルトと宗教
ケルト人の宗教は元々、自然崇拝の多神教で、ケルト系民族が拡散していった様々な地域を合わせた場合、合計で300以上の神や女神が信仰されていたと言います(ただし、地域をまたいで広く共通して信仰されていた神々は限定されていた)。
また、霊魂の不滅など、ある意味で日本人に感覚的に近い信仰を持っていました。
(ケルト十字)
しかしその後、西暦4世紀頃にはケルト人の間でもキリスト教が広まっていくこととなり、多くのケルト人達はキリスト教徒となりましたが、ケルトの宗教的観念や伝統の一部は、ブリテン島やアイルランドを中心に残りました。
ちなみに、ケルト人達の間で広まったキリスト教は、キリスト教とケルト文化が融合したケルト系キリスト教と呼ばれ、現代のケルト系キリスト教(ケルト教会)は、
- 自然愛
- 教義性の欠如
- 他宗教への寛容と友好性
を強調しているという特徴があります。
また、ケルト十字はこのケルト文化とキリスト教の融合を象徴しているとされます。
5. 記録を残さなかったケルト人
かつてヨーロッパ全体に広がったとされるケルト人について、起源を含め不明な点が多いのは最初の方で述べた通りですが、これは、ケルト人達が記録を残さなかったからというのが大きな理由です。
実際、ケルト人の文字文化についてはほとんど分かっておらず、文字記録の断片はいくつか見つかっていますが、過去の出来事についての記録はないのです。
暗記された物事に大きな意味があると考えていたのか、代わりにケルト人達の記録は、ドルイドと呼ばれる神官や一部の識者達によって口伝という形で語り継がれました。
そのため、古代におけるケルト人に関する記録のほとんどは、古代ギリシアやローマのもので、当然ながら、中には敵であったケルト人への偏見に基づいているものも多くありました。
とにかく、このような背景が、ケルト人を謎大き歴史的な民族集団にしていると言えるのです。
ケルト人は優れた戦士だったが統一されていなかった
ケルト人の多くの部族は好戦的だっただけでなく、ケルトの戦士達は極めてよく訓練され、どんな敵よりも強かったとさえ言われます。
そのような評判が立ったこともあり、紀元前3世紀にはエジプトのプトレマイオス二世がケルト人の傭兵を雇ったほどでした。
一方で、優れた戦士達を抱えたケルト人が最終的に古代ローマ人に屈した理由の一つとして、
戦いの訓練は良くなされていたのに、統一されていなかった
ことが挙げられます。
この記事でもすでに何度も触れていますが、「統一がされていなかった」というのは、ケルト人やケルト文明が衰退した大きな理由になってしまったことは間違いないでしょう。
野蛮人だと見なされたケルト人
一時はローマを征服したこともあるケルト人(ガリア人)に対してローマ人の多くは、偏見を持っていたわけですが、その結果、彼らが残した記録には「ケルト人は野蛮人である」と取れる内容が多く記されていました。
その結果、当時、ケルト人達は未開な野蛮人であると印象が生まれ、ローマ人がケルト人を呼ぶ際の呼称「ガリア人」は野蛮人を意味するという説まで登場したほどです。
しかし、これは明らかな嘘で、ケルト人は洗練された高度な交易ネットワークをローマ人達よりも早く作りあげた人々だということが分かっています。
ケルト人は交易を好んだ?
紀元前600年頃に、ギリシア人は交易のために植民都市マッサリア(現在のフランスのマルセイユ)を建設し、ケルト人と交易を行うようになりました。
ケルト人の部族はオリーブオイルやブドウといったギリシアの商品を手に入れるようになりましたが、当時最も好んだのはワインでした。
一方で、ギリシア人達は地中海地域では手に入らなかった、毛皮、錫、塩、琥珀をケルト人から買っていました。
このようにケルト人は未開な野蛮人ではなく、非常に早くから交易を行って生活を成り立たせる優れた文化を持つ人々だったのです。
ケルト人はローマ人より早く交易路を造った
初期のケルト人達は、紀元前625年頃にドナウ川の水源近くに交易の中心地を作ったとされます。
そこはケルト人にとって150年間にわたり最も重要な交易地でした。
そして、ケルト系のグループがヨーロッパ各地へ拡散していったこともあり、紀元前450年頃までにケルト人の交易ネットワークはヨーロッパ中に広がり、活発な交易が行われていたようなのです。
これは、古代ローマがヨーロッパを中心に領土を広げ、その勢力下で交易ルートを拡大していったのよりも以前のことでした。
ローマ人より早く鉄製の武器を開発した
ケルト人がローマ人と遭遇する以前、統一されていないにも関わらずヨーロッパ各地に広がり、一時は大きな勢力になった主な理由の一つが鉄製の武器。
紀元前1200年から紀元前500年にかけて、ケルト人はハルシュタット文化を発展させたと言われますが、この文化の初期に大きな影響を与えたと考えられているのが製鉄技術で、鉄で武器を作る技術はその後、紀元前6世紀までにケルト人の間で広まりました。
実際、
ケルト社会は鋭利な鉄製武器を身に付け、馬に引かれた戦車に乗った戦士階級に支配されていた
と考えられており、この当時としては最新鋭で強固な鉄製の武器は、ケルト人が一大勢力となってヨーロッパ中に広がっていく過程で非常に役立ったようです。
ただし、鉄製の剣は紀元前5世紀頃までにはヨーロッパ各地で使われるようになったため、当時のケルト人がどれほど優位だったのかはわかりません。
とはいえ、初期の段階でケルト人は、それなりの優位性を持っていたのではないでしょうか。
ケルト人は優れたデザインセンスも持っていた?
見てきたように、実は非常に優れた文化や技術を持っていたケルト人達は、歴史の中で美術や技術面での革新も行ってきたと言えます。
例えば、ケルト人達は複雑な石の彫刻や繊細な金属加工の技術などを持っていたようです。
さらにケルト人は、金銀や宝石を使った豪華なデザインの美術品を多く残しました。
合わせて読みたい世界雑学記事
- ケルト神話の妖精・女神・神・魔女10体の名前や伝説を紹介!
- アングロサクソン人|特徴・意味・歴史から分かるイギリス人のルーツ
- ゲルマン民族|ゲルマン人とは?その特徴を10部族の歴史を紐解きながら見ていこう!
- スラブ人とは?スラブ民族の特徴から東西南スラブの関係に関する議論
- ノルマン人とは?ヴァイキングと呼ばれノルマンコンクエストを起こした民族グループ
- →こちらから世界の民族に関する情報をさらに確認出来ます
ケルト人とは?民族的・文化的な特徴や歴史を見ていこう!のまとめ
ケルト人について、民族的・文化的な特徴を見てきました。
未だに謎が多く残されているケルト人ですが、特に西欧の文化が形成されていく歴史の中では非常に重要な存在だったことが分かります。