モンゴルの有名人|歴史的な偉人から現代のスポーツ選手まで

モンゴルの有名人を10名紹介していきます。世界中へ強い影響を与えた歴史的な偉人から、現代のスポーツ業界で活躍するアスリートまでを確認していきましょう。

モンゴル、正式名称「モンゴル国」は、東アジア北部に位置する国で、かつて興隆を極めたモンゴル帝国に繋がる国としても知られます。

現在でこそ国際舞台において鳴りを潜めてしまっていますが、その歴史の中では数々の偉人が誕生し、世界中へ大きな影響を与えてきたのです。

そんなモンゴル出身の有名人として、どのような名前を挙げることが出来るでしょうか。

歴史的な偉人から、現代のスポーツ業界で活躍するアスリートまで、モンゴルの有名人を10人紹介していきます。

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モンゴルの有名人1:チンギス・カン

チングス・カンまたはチンギス・ハン(1162〜1227年)は、モンゴル高原の遊牧民を統合し、その後にユーラシア大陸の大部分を征服した歴史的な帝国「モンゴル帝国」を創設した人物であり、初代モンゴル帝国皇帝(大ハーン)。

1206年にモンゴル帝国を建国したチンギス・カンは、皇帝の座に就いてから800年が経っているにもかかわらず、未だにその名前が忘れられることはなく、「1000年に1人の男」と呼ばれることもあります。

12世紀中頃にモンゴル高原の北東部で活動していたモンゴル民族の氏族「ボルジギン氏系キヤト氏」の首長の一人であった、イェスゲイ・バアトルの子供として1162年に生まれ、当時の名前はテムジンでした。

その後、1206年に全モンゴルの部族を統一したことで、テムジンは「チンギス・カン」の称号を得たのです。

19世紀後半に台頭したイギリス帝国(大英帝国)によって影が薄くなってしまいましたが、人間の歴史上でチンギス・カンが建国したモンゴル帝国は史上2番目に大きい帝国となり、最盛期にはなんと約3300万㎢、地球上の陸地部分の約24%にも及ぶ領土を統治するに至りました。

また、2004年にオックスフォード大学が行った遺伝子の研究によって、世界帝国を築いたチンギス・カンの遺伝子は、中東から中央アジアを中心に世界中に広がっており、現代に生きる男系の子孫の数は1600万人に上ると考えられ、歴史上、最も多くの子孫を残した人物だと結論づけられています。

モンゴルの有名人2:クビライ

クビライ(フビライ, 1215年〜1294年)は、「チンギス・カンの偉大な後継者」と評される人物であり、モンゴル帝国の第五代皇帝。

また、鎌倉時代の日本にも攻め込んだことで有名な「元」王朝を、1271年に征服王朝として中国に建国し、亡くなった1294年まで初代皇帝として統治したことでも知られます。

クビライは、チンギス・ハンの四男であるトルイの次男として生まれた人物で、30代半ばになった1251年から、モンゴル帝国の拡大と強化において重要な役割を果たすようになりました。

そして1260年5月、モンゴルの最高意志決定機関であるクリルタイが開かれ、満場一致でクビライが大ハーン、つまりモンゴル帝国皇帝に選ばれたのです。

一方で、歴史的に見てクビライ最大の功績は、唐王朝(618年〜907年)の終わりから分裂していた中国を元王朝の下で統一したことと言えるでしょう。

モンゴル系の王朝としては初めて中国風の元号を立て、漢人官僚を集めた行政府である中書省を新設するなど、モンゴル王朝でありながら中国化していき、歴史学者によっては「正当な中華王国になった国」と称される元を作りあげたのです。

そのため、モンゴルの皇帝としてだけではなく、中国の皇帝として称賛されることもあるモンゴルの歴史的有名人です。

モンゴルの有名人3:クトルン

クトルン(1260年頃〜1306年頃)は、モンゴルの歴史上の人物としては珍しく女性でありながらも有名な人物。

クビライが建国した元に対抗するように中央アジアへ独立国家を建設した、モンゴル皇族「カイドゥ(チンギス・カンの三男オゴデイの五男カシンの子供)」の娘で、女性でありながらも勇猛果敢に戦ったことで知られます。

武勇に優れたクトルンは、父の軍隊に従軍して元の軍と戦い、中央アジア以西のモンゴル諸勢力を、モンゴル皇帝(大ハーン)の権力から分離独立させることに尽力したのです。

また、クトルンは、マルコ・ポーロの東方見聞録によれば彼女は、

力技で自らを打ち負かすような男が見つかるまでは、夫をとらない

と宣言し、世界各地の貴族の子息がクトルンに挑んだものの、誰一人としてクトルンに勝つことは出来なかったという逸話が残っています。

ちなみに、クトルンは「アイジャルック」や「アイ・ヤルク」という名前でも知られ、これはテゥルク系の言葉では「月の輝き」を意味するとされます。

モンゴルの有名人4:ジェプツンタンパ1世

ジェプツンタンパ1世(ザナバザル, 1635〜1723年)は、モンゴルにおける活仏の名跡である「ジェブツンダンパ・ホトクト」の初代であり、化身ラマ(この世の人々を教え導くために、如来、菩薩、過去の偉大な仏道修行者の化身としてこの世に姿を現す僧)として活躍したモンゴルの歴史的人物。

また、モンゴルの美術の発展に大いに貢献したことでも有名で、チンギス・カンの直系子孫の一人です。

ジェプツンタンパ1世は、東アジアの影響を受けたモンゴル様式の寺院や僧院の建設において積極的な役割を果たしました。

さらに、ジェプツンタンパ1世は、「神性」を表現するにあたって、モンゴルの伝統的な美の概念を用いて豊かになった人間の姿を模倣。宗教的および伝統的な民俗芸術を組み合わせ、東洋・仏教の仏像作品を革新し、美術史にその名を刻みました。

モンゴルの有名人5:ボグド・ハン

ボグド・ハン(ハーン, 1869年〜1924年)は、外モンゴル(注)が「大モンゴル」として清王朝からの独立を宣言した1911年12月29日にモンゴルの皇帝(ハーン)の座に就き、外モンゴルにおけるチベット仏教の宗教指導者としても活動したモンゴル史の有名人。

東チベットのカム地方(現在は中華人民共和国の四川省)で生まれたボグド・ハンは、化身ラマとしては「ジェプツンダンバ・ホトクト8世」と呼ばれ、また、チベット仏教の序列においてダライ・ラマとパンチェン・ラマに続いて3番目に重要な人物だったことから「ボグド・ラマ」としても知られています。

一方で、皇帝としてのボグド・ハンは、1919年に中国軍がモンゴルを占領した際に権力を失いました。

しかしその後、ロマン・ウンゲルン(外モンゴルで中国占領軍を駆逐して支配的地位に立ったロシアの軍人)がウルガ(現在のウランバートル)を占領する直前に、ロマン・ウンゲルンによってボグド・ハンは開放されて皇帝に復位。

また、モンゴルの革命家として知られるダムディン・スフバートルが率いた1921年の革命の後、 ボグド・ハンは立憲君主制の下で皇帝の座に残ることを許されたことで、亡くなった1924年まで皇帝を務めました。

※外モンゴルとは、北京を基準とする「内」「外」という語彙をもちいてモンゴルを南北に区分する分類法において、ゴビ砂漠の北側部分をさす呼称

モンゴルの有名人6:ジェクテルデミット・グラグチャ

ジェクテルデミット・グラグチャ(1947年〜)は、モンゴル人初の宇宙飛行士であり、モンゴルの国防大臣も務めた有名人。

(出典:wikipedia

モンゴルのグルワンブラグで生まれ、航空宇宙工学の技術者になるためにウランバートルで学びました。

そして、1978年3月1日にソビエト連邦8番目のインターコスモス計画の宇宙飛行士に選ばれ、1981年3月22日にソビエト連邦の宇宙飛行士であるウラジーミル・ジャニベコフと共に、バイコヌール宇宙基地から宇宙へと旅立ち、モンゴル人としては初、アジア人としても2番目の宇宙飛行士となったのです。

また、ジェクテルデミット・グラグチャが飛び立ったことで、モンゴルは宇宙飛行士を輩出した10番目の国になったと同時に、ジェクテルデミット・グラグチャ自身は、世界で100番目の宇宙飛行士となったことでも知られます。

ちなみに、この功績によってソ連時代にはソビエト政府から、「ソ連邦英雄」の称号を与えられています。

モンゴルの有名人7:朝青龍明徳

朝青龍明徳(あさしょうりゅうあきのり, 1980年〜)、本名「ドルゴルスレンギーン・ダグワドルジ」は、日本の大相撲で活躍した元力士であり、第68代横綱の横綱。

(出典:wikipedia

2003年1月にモンゴル人初の横綱に昇進し、dstsに、日本の相撲史において最も成功した横綱の1人だと考えられています。

朝青龍は、曙と武蔵丸に続いて、外国出身力士としては3番目の横綱になりました。

また、弱冠22歳で横綱になった朝青龍は、若くして横綱になった力士の1人としても知られます。

このような功績から、モンゴルでは英雄と称賛されることもあり、相撲界から引退した後は、モンゴルレスリング協会の会長や日本担当の外交顧問および大統領特別大使などを歴任すると同時に、銀行を経営するなどして活躍し、モンゴルのセレブ的存在となっています。

モンゴルの有名人8:ナイダン・ツブシンバヤル

ナイダン・ツブシンバヤル(1984年〜)は、モンゴル人として初めて同国にオリンピック金メダルをもたらしたことで知られる有名な柔道家。

Tuvshinbayar Naidan – Mongolian Legend

2008年の北京オリンピックにおいて、男子柔道100kg級でカザフスタンのアスハト・ジトケエフを敗り、モンゴル人として初めてオリンピックで金メダルを獲得。

帰国後にはモンゴルで最高の栄誉とされる「労働英雄賞」や「スポーツ功労賞」を始めとした様々な賞や賞金が授与されました。

また、2012年のロンドンオリンピックでは銀メダルを獲得し、モンゴル人として初めてオリンピックで合計2つのメダルを獲得した選手となっています。

その後もナイダン・ツブシンバヤルは活躍し、2014年に韓国の仁川で開催されたアジア競技大会で優勝。

2015年にカザフスタンのアスタナで開催された世界柔道団体選手権大会では銅メダルを獲得し、2016年にウズベキスタンのタシュケントで開催されたアジア柔道選手権大会では優勝するなど、モンゴルを代表するアスリートの一人として国内では英雄扱いされています。

モンゴルの有名人9:白鵬翔

白鵬翔(はくほうしょう, 1985年〜)、本名「ムンフバッティーン・ダーワジャルガル」は、日本の大相撲力士であり、朝青龍に次いでモンゴル人としては二番目に横綱となった第69大横綱。

(出典:wikipedia

モンゴル相撲で大活躍し、メキシコオリンピックではレスリング重量級の銀メダリストとなってモンゴル国内で国民的英雄として扱われるジグジドゥ・ムンフバトの息子として、1985年に誕生しました。

大相撲史においては史上ナンバー1に輝く記録をいくつも残しており、数多くある記録の中から少しだけ例を挙げると、通算最多幕内勝利回数通算最多幕内優勝回数などがあります。

このように、大相撲史においては偉大な横綱であり絶対王者として頂点に君臨してきた白鵬は、父と同じようにモンゴルの国民的英雄です。

一方で、2019年9月にはモンゴル国籍から離脱して日本国籍を取得し、日本へ帰化したため、国際的な定義としてはモンゴル系日本人となっています。

モンゴルの有名人10:バダムガラヴ・ガンガーマー

バダムガラヴ・ガンガーマー、通称B.ガンガーマーは、七大陸の最高峰を制した「七大陸最高峰登頂者」として知られる人物。

THE FIRST MONGOLIAN SEVEN SUMMITEER – GANGAAMAA BADAMGARAV

2010年にヨーロッパ大陸最高峰のエルブルス山に登頂したのを皮切りに、2011年にはモンゴル人女性として初めてエベレストに登頂。

そして、他の大陸の最高峰も制していき、2016年にはついに、南極大陸最高峰のヴィンソン・マシフへ登頂して、七大陸最高峰登頂者となりました。

B.ガンガーマーはまた、これらの功績によって、スポーツ分野で著しい活躍をした人物に送られる「スポーツ功労賞」を受賞しています。

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モンゴルの有名人|歴史的な偉人から現代のスポーツ選手までのまとめ

モンゴルの有名人を10名紹介してきました。

モンゴルには他にも歴史的な有名人などが多くいますが、まずは上の10人を覚えておきましょう。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

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