イラン・イラク戦争についてわかりやすく解説していきます。現在の国際情勢を理解する上でも重要な出来事の原因などを理解しておきましょう。
今日の世界では、中東地域ほど対立や戦闘が多い地域はありません。中東に関する爆撃やテロ攻撃、そして不安定な情勢のニュースをメディアで良く目にします。
しかしこの状況は、決して最近始まった新しいものではないのです。この地域では何世紀にもわたって、いくつもの紛争が起こってきました。
なかでも現代史において特に残虐または悲惨だったと言える戦争が、1980年代に発生したイラン・イラク戦争。
この戦争は、今日中東で見られる多くの問題の土台を形成した出来事と言っても良く、イラン・イラク戦争を理解しておくことは、現在の中東情勢や国際情勢を理解する上で重要になってきます。
この記事では、イラン・イラク戦争について、その原因や背景、そして流れなどをわかりやすく解説していきたいと思います。
イラン・イラク戦争とは?
イラン・イラク戦争とは、1980年9月22日から1988年8月20日まで、イラン・イスラム共和国とイラク共和国の間で続いた武力衝突。
1980年にイラクがイランへ侵攻したことがきっかけで始まった戦争であったものの、その途中で形成は逆転。
しかし再びイラク側が有利になり、結局、1988年に国際連合安全保障理事会(国連安保理)の決議を両国が受け入れる声明を出したことで停戦した戦争です。
また、8年もの長期に渡る戦争であったため、その中では何十万人もの人が犠牲になったとされ、20世紀後半の中東諸国における政治の暴力性を浮き彫りにした事件でもありました。
イラン・イラク戦争をわかりやすく追って原因や流れを確認してみよう
両国でイラン・イラク戦争につながる体制転換が起こる
イラン革命によって新政権がイランで樹立
戦争が始まる前、イランでは大規模な体制転換が起こります。
イランではそれまで何十年にもわたって、西洋寄りの政府(君主制を敷いていたパーレビー王朝の政権)が続いていましたが、アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニーの指導の下、イラン国内の急進派はこの状況に怒りの声を挙げたのです。
(ホメイニー)
その結果、1979年にイラン革命が起こります。
イラン革命は、アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニーを精神的指導者と仰ぐ、イスラム教シーア派の法学者を中心とする革命勢力(イスラム原理主義勢力)によって、イスラムの信仰へ回帰することを目的とした出来事。
このイラン革命によって、イランではパーレビー王朝の政権が倒され、ホメイニー師を初代最高指導者、初代大統領にアボルハサン・バニーサドルを置いた、イラン・イスラム共和国が誕生しました。
イラクもイランと同じような状況を経験していた
一方のイラクも実は、イラン・イラク戦争が始まる以前に同じような状況を経験していました。
1960年代後半に発生したクーデターによりバース党が政権を掌握。
バース党は、当時中東全域で起こっていた政治運動のイラクの地方分派で、社会主義的な性格と強いナショナリズムが特徴です。
(フセイン)
そして1979年の7月には、バース党のリーダーであったサッダーム・フセイン将軍がイラクの大統領に就任。
つまり、1979年はイランとイラクの両方が、後に何年も続くことになる対立のきっかけを作った体制転換を経験した年なのです。
両国間の緊張の高まり
新体制となったイランとイラクの両国の緊張は、ある発言をきっかけに急速に高まります。
それは、イランの新しい指導者となったホメイニー師による、
- 「イラクは再びクーデターを起こしてバース党の支配を覆すべきである」
という発言。
この発言にフセインとバース党支持者は驚愕。
- アラブの国でありイスラム教スンニ派が多数を占めるイラク
- ペルシャの国でありイスラム教シーア派が多数を占めるイラン
という対立構造が元々あったため、イラクはイランに対して脅威を感じていたところ、上記のホメイニーの発言は、その脅威をさらに高めて決定的なものにしたのです。
加えて、イランとイラクの間には国境線をめぐる対立が複数存在し、これも状況を悪化させました。
フセインが抱く野望がイラクを行動へ移した
サッダーム・フセインは、イラクの指導者として非常に高い野望を持っていました。
彼は自国イラクの力や威信、そして影響力を拡大し、中東における指導者的国家に登りつめようと考えていたのです。
その野望を実現させるためにも必要だと考えたのが、中東における脅威でありライバルになり得る大国イランを攻撃することでした。
そうすれば国土と権力を拡大し、新しい油田を手に入れ、そして威嚇的な態度を取るイランに対してはっきりとした態度を示すことが出来るからです。
そのため、戦争開始の数か月前から、サッダーム・フセインは大規模な戦力の動員と強化を開始。
イラク軍はまた、20万人近い兵力、何千もの戦車、そして何百もの戦闘機を保有することに成功していました。
一方のイランは、イラン革命の影響により、イランの軍隊は大規模な高官の解雇と処刑を行ったばかりだった。ただし、空軍は比較的強力な戦力を維持していた。
イラン・イラク戦争がついに開戦
1980年9月、イラクはイランに奇襲攻撃をしかけ、戦争が開戦。イラクはイラン南西部の国境を接する地域から大規模な侵略を開始したのです。
その地域は山岳地帯であったため、攻撃のほとんどは戦闘機を使ってイランの空軍基地を空から爆撃する形で行われました。
その後、イラクの地上軍がイラン国内に入った時、お互いに全く協調性を持たずに統率に欠けるイランの警察や軍隊に遭遇するなど、地上戦ではイラクが有利に戦いを進めて行きました。
しかし、まもなくイランは大規模な空爆を、特にイラクの首都であるバグダッドを標的に合わせて開始。
加えて、イラン海軍も戦争に参加し、イラクの重要な採油地であるバスラを攻撃。
数週間の間、両国の様々な地点で様々な戦闘が繰り広げられます。中でも特に大きかった衝突は、1980年10月から始まったイラン南西部にあるホッラムシャフルを巡って起こったホッラムシャフル解放戦でしょう。
(緑の部分がホッラムシャフル:出典:wikipedia)
1980年の11月頃になるとイラクの進出は止まり、戦争は膠着状態に陥ります。
その時点において両国の戦いは、まるで第一次世界大戦時のような戦略、戦車と防御作戦を用いた塹壕戦が繰り広げられていました。
戦闘の継続
その後数年間にわたって、戦争は爆撃、空爆、そして塹壕戦という同じ戦略を繰り返す形で続いていきました。
その中でイランは、歩兵による奇襲を繰り返し、戦線の一部の地域でイラクを疲弊させることに集中。
イラン軍も激しい痛手を受けていましたが、イラクは以前制圧したイランの地域で大規模な敗北を喫し、少しずつ撤退していきました。
そしてイランは、イラクの戦力をイラン国内から完全に追い出すことを目的とした大規模な襲撃を行います。
結局、イランは自分たちの土地からイラク人を追い出すため攻撃を開始し、戦争は以前にも増して激しいものになりました。
1984年までに、イラクはおよそ15万人の兵士を失い、イランはその2倍も多く損失を出したと言われます。
両国が進行と撤退を繰り返すパターンはさらに数年間続き、多くの民間人も戦闘に巻き込まれ命を落としていったのです。
ちなみに、この一連の流れの中では、以下のように両国の形勢が変化していった点は、イラン・イラク戦争を理解する上で大切でしょう。
- 開戦当初 → イラクが優勢
- 特に地上部隊においての戦いはイラク側が有利であった
- 1982年4 → 形勢がイラン側へ傾く
- 隣国シリアはイランを支援したため、シリア経由のパイプラインが止められたイラクは石油の輸出が出来なくなった(シリアはシーア派の一派「アラウィー派」のハーフィズ・アル=アサド政権下にあった)
- アラブ諸国と敵対していたイスラエルもイランを援助していた
- 反欧米を掲げるリビアもイラン革命後に反米となったイランを支援した
- 北朝鮮もイランを支援した
- 1986年 → 形成が再びイラク側へ傾く
- アメリカがイラクを支援して介入した(イラン革命の影響で他にも反米の国が生まれてしまうことを懸念した)
- サウジアラビアやクウェートなどの湾岸諸国(歴史的にペルシャのライバルであるアラブの国々)から支援を受けていた
- ソ連もイラクを支援した
戦争の終焉
1988年、フセインはイランに対して大量破壊兵器を使うと脅迫。
イラクは既にイランのクルド系住民の地域において化学兵器を使用しており、何千もの死傷者を出していました。
そのような残虐行為が繰り返されていく中で、また、劣勢にあったことで、イランのホメイニー師は、国連が提示した停戦の提案「安保理決議598号」を承諾することにし、その後しばらくした1988年8月20日、戦争は停戦という形で終結を迎えます。
そして、1989年6月にはホメイニー師が死去し、1990年9月10日には、イランとイラクの両国間で国交が回復しました。
イラン・イラク戦争:3つの特徴
イラン・イラク戦争を理解する上では、この戦争の大きな3つの特徴を知っておきましょう。
世界大戦よりも長く続いた戦争
1つの特徴は、異様なほど長引いたこと。
およそ8年にも渡って続いたイラン・イラク戦争は、約4年間続いた第一次世界大戦や、約6年間続いた第二次世界大戦を凌ぐものでした。
これはイランに戦争を止めるつもりがなく、一方のイラクは戦争を止めることが出来なかったことが主な原因でしょう。
特に、1982年にイラン側に形勢が傾いた際、イラクは一方的な停戦宣言をしますが、勝機が見えて打倒フセインの勢いに乗ったイランは、停戦を受け入れる必要はないと判断したことが、この戦争を長引かせる上での転機だったと言えるかと思います。
両国が置かれた非対称性
また、イラン・イラク戦争は、両国が最終的に置かれた非対称的な状況も特徴的です。
両国はどちらとも、
- 石油を輸出していた
- 武器を輸入していた
という点では同じでした。
しかし、イラクは「クウェートやサウジアラビアなどの他のアラブ諸国からの支援および資金提供によって資金が潤沢で、最終的には先進的な武器や専門知識をはるかに多く入手出来た」という、イランと比べた場合の非対称性が目立ちます。
これによって両国の形勢は再び逆転し、イランは国連安保理による停戦決議案を飲まなくてはいけない状況に追いやられたのです。
1945年以降に起きた戦争にはなかった3つの攻撃が含まれていた
さらに、イラン・イラク戦争では以下の3つの攻撃が、1945年以降、それまでに起きた他の戦争と比較すると異なり、特徴的な点です。
- 弾道ミサイルによる都市部への無差別攻撃(両国行ったがイラクは特に)
- 広範囲にわたる化学兵器の使用(主にイラク)
- ペルシャ湾にある第3国(他国)の石油タンカーへの攻撃
- 合計500回以上にも渡った
イラン・イラク戦争の全体像をさらに理解するために抑えておきたい3つのポイント
甚大な被害規模によってイラン・イラクどちらにもメリットがなかった
中東の近隣国であったイランとイラクは、泥沼化した戦争をしたことで数十万の死傷者を出し、何十億ドルもの被害を出し、どちらにも大したメリットが無かった点が、イラン・イラク戦争を象徴付けるポイントの一つです。
その被害規模はおよそ8年の間で、少なく見積もっても50万人、推定ではその2倍の100万人が命を落としたと言われるほどです。
そして、少なくとも50万人の心身に障害が残り、直接的な支出は2280億ドル、被害額は4000億ドル(ほとんどが石油施設への被害だったが、都市部も被害を受けている)に上ると見積もられています。
また、死者の中には化学兵器で命を落とした民間人も多く含まれます。
フセインの計算違い
サッダーム・フセインは故意に戦争を始めましたが、計算違いが2つあったと言えるでしょう。
1つ目は、
「イランは革命によって混乱状態だったが、同時に革命によって国内は非常に活気があった」
ということ。
これにより、イラクが侵攻してきた際、「国を守るため」に国民は強固な団結を実現出来たのです。
2つ目は、戦略におけるミス。
「奇襲攻撃を仕掛ける上で、戦略的な思慮が足りていなかった」
のではないでしょうか。
イラクの奇襲・先制攻撃は「ほぼ何もないところ」に行われ、手薄な国境警備軍や警察と相見えただけでした。
しかし、奇襲攻撃というチャンスを活かすのであれば、もっと大規模な攻撃を仕掛け、イラン側へ甚大な被害を最初に与える方が効果的だと言えないでしょうか。
そうすれば、早い段階でイラク側が提示した条件の停戦協定を、甚大な被害を受けたイラン側へ飲ませることが出来た可能性もあったはずです。
イランの誤算
一方、イラン側にも誤算が生じていたと言えます。
1982年に形勢がイラン側へ傾き、イラクが一方的な停戦を宣言したものの、フセイン打倒の勝機と見たイランは停戦を拒否したわけですが、革命期にあったイランには、効果的な攻撃を続けるのに必要な物資が足りていませんでした。
反欧米を掲げてイラン革命を起こした結果、
- それまでイランが依存していたアメリカの支援による武器の供給は絶たれていた
- 前政権の将校たちの多くは国外追放、投獄、あるいは殺害されていた
という状況を生み出しており、かつての強大で近代的な軍を再編成することは困難だったのです。
イラン軍とイラン革命防衛隊だけでは、強力な迫撃砲に支援されながらの大規模な歩兵攻撃しか出来ませんでした。
イランは、
- 国民の士気の高さ
- 人口の多さ
- イランが4000万人に対してイラクは1300万人
の2つを利用して戦争を続けましたが、歩兵がイラクの防衛戦を時に破ることができたとしても、それは生身の人間の波による攻撃でしかありません。
大きな犠牲を払うことになる上、決定的な結果をもたらすほど深く攻め込むことは不可能だったのです。
このイランの戦力不足が戦争の集結の決めてとなったと言える
その結果、1998年には、イランは度重なる「最終」攻撃の失敗と止まることを知らない死者数、民間向けの製品や軍事品の輸入能力の低下に直面し、また、テヘランに対するスカッドミサイル攻撃によって軍の士気は失われ、疲弊していました。
そして、遅ればせながらイラクが地上における戦闘に主力を戻し、また、湾岸諸国やアメリカの支援を受けた結果、敵へ立ち向かうことを躊躇するようになっていたイラク軍兵士の代わりに、機械化された戦闘方法へシフトでき、イラク軍はイランに対して大規模な攻撃を仕掛けられるようになります。
このように、誤算によって再度形勢がイラク側へ傾いて追い詰められたイランにとって、即時停戦を求めた国連安保理の「安保理決議598号」は渡りに船だったのです。
イランはすぐにその呼びかけに答え、この戦争が停戦という形で集結することになったのです。
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イラン・イラク戦争とは?わかりやすく原因やアメリカの介入などの背景を追っていくのまとめ
イラン・イラク戦争は、イランとイラクの間で1980年から1988年まで続いた残酷な武力衝突で、何十万人もの死傷者を出しました。
そして、イラン・イラク戦争は終結を見たものの、この戦争後に両国の内政はさらに不安定な状態に陥り、それはまた、中東の不安定かを助長することにもなりました。
結果、現在の不安定な中東情勢にも繋がってしまったと言え、このイラン・イラク戦争は現在の国際情勢を考える上では避けて通れない出来事なのです。