クレムリンとはなんなのか?ロシアのモスクワ中心にある歴史的宮殿で世界遺産として知られ、現在はロシアの大統領府が置かれている場所について詳しく見ていきます。
大国ロシアの首都モスクワは、1147年にキエフ大公国のユーリー・ドルゴルーキーが会合を行った場所として歴史に登場してからというもの、長い年月の中でロシアの重要な都市となってきました。
そんなモスクワの中心にあるのがクレムリン。
現在はロシアの大統領府や大統領官邸が置かれていることもあり、その名前を耳にすることは多いかと思います。
このクレムリンとは一体なんなのか?
歴史的建造物でありロシアのモスクワを象徴するクレムリンについて、詳しく紹介していきます。
クレムリンとは?
現代社会において一般的に「クレムリン(Kremlin)」という場合、それが指す対象はロシア連邦の首都モスクワ中心にあるかつてロシア帝国時代には宮殿として使われていた、現在は大統領府や大統領官邸が置かれている建物のこと。
周りには、
- モスクワ川(南側)
- アレキサンダー庭園(北西側)
- 赤の広場(北東側)
- 聖ワシリイ大聖堂(この建物はクレムリンとよく間違えられる)
があり、ソビエト連邦時代にはソ連共産党の中枢が置かれ、その「政治の中心」となっている性質上、メディアで取り上げられる際には「ロシア政府の代名詞」として用いられることも多々あります。
その形は変形した三角形をしており、約2.25kmの城壁(高さは5〜19mで厚さは3.5〜6.5mと場所によってまちまち)に囲まれた敷地は、およそ27.5万㎡の広さを有し、そこには大小新旧5つの宮殿、4つの大聖堂、20の塔と20の城門があります。
モスクワのクレムリン(大クレムリン宮殿)の簡単な歴史ダイジェスト
このモスクワにあるクレムリン(大クレムリン宮殿)の原型は、12世紀中頃に築かれました。
ただし、現存する最古の部分は14世紀から15世紀のものと考えられ、現在は変形した三角形状の敷地内の南西部分に位置しています。
城塞としての役目は1620年代に失い、その後、1713年にピョートル1世(後のピョートル大帝)が首都をサンクトペテルブルクへ移す前までロシア政府の中心としての機能を果たし、再び1918年以降も同じ役目を担っています(※1917年10月ボルシェビキが権力掌握してから1991年にソ連が崩壊するまでの時代は、ソビエト政府の中枢として共産主義独裁の象徴ともなっていた)。
そんなモスクワのクレムリンは当初、木造建築でしたが、14世紀に白い石造りに建て替えられ、さらに15世紀後半にはイタリア人建築家によって赤レンガで再建。
以降も修繕と改築が度々行われてきました。
このような背景から現在のクレムリンでは、その長い歴史を現すように、ビザンティン、ロシア・バロック、古典といった様々な建築様式を見ることが出来ます。
そして、モスクワのクレムリン並びに隣接する赤の広場は1990年、ユネスコによって世界文化遺産に登録されました。
「クレムリン」は他にも存在する
見てきたように、一般的に「クレムリン」と言う場合、今日ではモスクワにあるクレムリンを指すことがほとんどですが、実は、「クレムリン」と呼ばれる建築物はロシア国内に他にも複数存在しています。
(カザンのクレムリン)
というのも、クレムリンはロシア語でクレムリ(Кремль/Kreml’)となり、これはかつてクレムニクと呼ばれた「中世期のロシアで築かれた城塞」全般を指すから。
多くは国内の各地にある川沿いの戦略上で重要な地点に築かれ、初期の頃は木材、のちに石やレンガで作られた城壁や堀、塔、銃眼付きの屋根などで囲われていきました。
このような理由から、モスクワだけでなく、
- プスコフ
- ノヴゴロド
- スモレンスク
- ロストフ
- スズダリ
- ヤロスラヴリ
- ニジニ・ノヴゴロド
- カザン
- アストラハン
といった、ロシアの歴史の中で重要だった都市の多くには、大聖堂、王族や聖職者用の宮殿、役所、武器庫などを備えた、古いクレムリンが残っているのです。
クレムリンにまつわる7つの豆知識
クレムリンに関して、基本的な知識を紹介してきましたが、ここからはさらに理解を深めるためにも、15の豆知識を紹介していきたいと思います。
ちなみに、ここで言う「クレムリン」とは「モスクワのクレムリン」を意味することとします。
クレムリンの豆知識1:ヨーロッパ最大の要塞である
ルーシ(ロシアをはじめとする東スラヴ地域の古名)の歴史を記録した年代記の一つ「イパーチー年代記」に初めてその存在が記されたのは、1147年にモスクワ川の左側の川岸にスーズダリ公国の王子であったユーリー・ドルゴルキーによって要塞が建てられた時でした。
その後、当初は「grad of Moscow」と呼ばれたこの場所周辺に定住する人が増え、キタイゴロドスキーの壁、ベールイ・ゴロド、そしてゼリャノイ・ゴロドなど、新たに建てられた要塞に囲まれた郊外地も広がり、その規模は大きくなっていきました。
そして、1331年までには「クレムリン」と呼ばれるようになり、この頃にはロシアの最高権力が位置する場所となり、モスクワの世俗的そして宗教的な中心となって、15世紀後半から16世紀初頭にクレムリンは、ヨーロッパで最大の要塞の一つとなりました。
今日でもクレムリンはロシア国内だけでなく、ヨーロッパ全域においても最大の要塞で、こうした建築物でもっと大規模なものが存在したことは確かですが、現在も使用されているのはクレムリンだけなのです。
クレムリンの豆知識2:大国ロシアを感じさせる3つのもの
27.5万㎡の広さを有するモスクワクレムリンの内側には、様々な建造物を見つけることが出来ますが、大国ロシアを象徴する物として次の3つは気になるかもしれません。
イヴァン大帝の鐘楼
15世紀後半から16世紀初頭までモスクワ大公としてモスクワ大公国を率い、その支配領域を4倍にまで拡大した名君イヴァン大帝の名前が付けられた「イヴァン大帝の鐘楼」は、クレムリンの建物の中では一番高い高さ81mを誇る建造物。
1508年に建てられました。
その後の1555年にクレムリン城壁の外側に位置する聖ワシリイ大聖堂が建設されると、この聖ワシリイ大聖堂がモスクワ全体で一番高い建物となりましたが、1600年にイヴァン大帝の鐘楼が改築されて高さが増した結果、1883年に救世主ハリストス大聖堂が建てられるまでの300年弱、モスクワでは最も高い建造物となっていました。
ちなみに当時のモスクワでは、この鐘楼よりも高い建物を建てることは禁止されていました。
ツァーリ・コロコル
「鐘の皇帝」を意味するツァーリ・コロコルは、クレムリンに展示されている巨大な鐘で、世界一大きな鐘としても有名。
イヴァン大帝の鐘楼の隣に展示されています。
この鐘の大きさは高さ6.14m、直径6.6mで、重さはなんと160〜220トン。
その巨大さと重さから、持ち上げられることが叶わなかったため、過去に一度としてこの鐘が動いたり、吊るされたり、または鳴らされたりしたことはありません。
ツァーリ・プーシュカ
大砲の皇帝という意味を持つツァーリ・プーシュカは、クレムリンに展示されている近世の巨大な大砲で、
- 重量約18トン
- 全長5.34m
- 口径890mm
- 外径1,200mm
というサイズを誇り、榴弾砲(りゅうだんほう)として史上最大の口径を持つことからギネスブックにも登録されています。
1586年に熟練したロシア人の青銅鋳造職人「アンドレイ・チョーホフ」によってモスクワで作製され、現在はロシア大砲鋳物芸術の遺物だとされています。
ちなみに、この大砲はどちらかと言うとシンボル的なもので、戦争で使われたことはありませんでしたが、少なくとも一度は発砲された後が残っているとされます。
クレムリンの豆知識3:一時期は見捨てられて放置されたこともあった
建設以降は常にロシアにとって重要な建築物であったとイメージされるクレムリンですが、一時期は見捨てられていたこともありました。
18世紀の初頭にロシアの首都がサンクトペテルブルクに遷ると、クレムリンは主に宗教的な行事を行う場所となります。
(エカチェリーナ2世)
その後は引き続き戴冠式を中心に使われていましたが、1773年にエカチェリーナ2世がワシリー・バジェーノフに彼女の住居をここに作らせるまで、短期間ではあるもののクレムリンは見捨てられて放置されていたのです。
クレムリンの豆知識4:他国に占領されたことがあった
ロシアにとっては重要な要所であり、時代によっては政府の中枢が置かれたクレムリンですが、歴史の中では2度、他国によって占領されたことがありました。
まず一度目は、ロシア・ツァーリ国時代の動乱期のことで、クレムリンは1610年9月21日から1612年10月26日までの二年間、ライバル関係にあったポーランドによって占領されました。
そして2度目は、1812年のナポレオン・ボナパルトによるロシア侵略の間のことで、9月2日から10月11日まで、フランスがクレムリンを占拠しました。
(ナポレオン・ボナパルト)
この1812年に起こった「1812年ロシア戦役」では最終的に、ナポレオン率いるフランスが敗北して退却することになりますが、ナポレオンは自身がモスクワから去る際、クレムリン全体を爆破するように命じています。
その結果、全てが爆破されることは免れたものの、クレムリン・アルセーナルと呼ばれる兵器庫、クレムリンの壁の一部、そしていくつかの塔は爆破によって破壊され、また、その時に発生した炎によって一つの宮殿といくつかの教会はダメージを受けました。
ちなみに、ナポレオンの命令に反してクレムリンが全体的な爆破から免れた理由は、爆破中に雨が降り、それによって幸いにも導火線の一部が機能しなくなり、予定していた通りの爆発が起こらなかったのが理由だと言います。
クレムリンの豆知識5:赤い星はもともと鷲だった
クレムリンには20の塔があり、その中には先端に星のシンボルである「クレムリンの赤い星」がついた、
- トロイツカヤ塔
- ホロヴィツカヤ塔
- スパスカヤ塔
- ニコリスカヤ塔
- ヴォドヴズヴォドナヤ塔
という5つの塔が含まれています。
ただし、かつてこれらの塔には星のシンボルではなく、ロシアの国章とされる「双頭の鷲」が設置されていました。
しかし、1935年、当時のソビエト連邦最高指導者であったヨシフ・スターリンは、政府の指令所であるクレムリンから「帝政時代の名残」を全て消し去る目的で、双頭の鷲を撤去し、星のシンボルへ付け替えたのでした。
ちなみに、ヴォドヴズヴォドナヤ塔にある星は、それ以外の4つの塔から双頭の鷲のシンボルが取り外されて星のシンボルへ取り替えられた後、少ししてから加えられたものです。
また、このクレムリンの赤い星は、設置されてからの80年間でその照明が消されたのは2回だけであることでも知られています。
1回目は第2次世界大戦中に空襲を避けるために、2回目は映画の撮影のためでした。
クレムリンの豆知識6:元々ある塔には全て名前が付いている
クレムリンはには元々、18の塔が建てられており、現在ある20の塔に増やされたのは17世紀に入ってからのことでした。
このような背景があるため、元々あった18の塔には全て名前が付いているものの、新しく建てられた2つの塔に関しては正式な名称がついていないという差異が生じています。
新しく建てられた2つの塔はそれぞれ、「第1無名塔」と「第2無名塔」と呼ばれ、20の塔の中で最も高いものは80mを誇るトロイツカヤ塔。
そして、もっとも有名なものは赤の広場とクレムリンを結び一番格式が高いとされ、クレムリンの時計塔としても知られる「スパスカヤ塔」です。
クレムリンの豆知識7:第二次大戦では被害がほとんどなかった
世界中を巻き込んだ第二次世界大戦において、クレムリンはほとんど被害を受けることはありませんでした。
というのも、クレムリンは大戦中、住宅街に見えるように念入りにカモフラージュされていたからです。
大聖堂や有名な緑色の塔はそれぞれ灰色と茶色に塗られ、クレムリンの壁には見せかけのドアや窓の絵が描かれ、さらに赤の広場には木造の建築物が置かれました。
モスクワ自体は1941年から42年にかけて激しい空襲を受けましたが、クレムリンの被害はそれほどではなかったのです。
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クレムリンとは?ロシアのモスクワにある歴史的宮殿であり世界遺産のまとめ
ロシアのモスクワ中心部にある歴史的に重要な建造物「クレムリン」について見てきました。
クレムリンは現在のロシアだけでなく、ロシアの歴史を語る上で無くてはならない存在です。
ロシアの文化や歴史に興味があるなら、確実に押さえておきましょう。