ミケーネ文明とは?場所や滅亡時の謎など。エーゲ文明後期

ミケーネ文明とはどんな文明のことか知っていますか?ギリシャのミケーネを中心に発展した文明で、一時はエーゲ海周辺の多くの地域に影響を与えました。

古代ギリシャにおける最古の文明は、エーゲ海周辺で興ったエーゲ文明とされていますが、このエーゲ文明の後期は「ミケーネ文明」と呼ばれます。

ミケーネ文明は、エーゲ海またはエーゲ海を囲む地域の中でもギリシャ本土で発生した文明で、それ以前から同地域へ大きな影響を与えていたクレタ文明の影響を受けながら形成され、その後はクレタ文明を吸収してさらに発展した文明です。

一方で、その滅亡には多くの謎も残ります。

この記事では、そんなミケーネ文明について詳しく見ていきます。

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ミケーネ文明とは?

ミケーネ文明(ミュケナイ文明)とは、およそ紀元前1600年から紀元前1200年(紀元前1150年)にかけて、ギリシャ本土のミケーネ(現在のギリシャ・ペロポネソス地方アルゴリダ県アルゴス=ミキネス市にあった古代都市)を中心に形成されて発展した青銅器文明。

時ギリシャのペロポネソス地方のみならず、クレタ島そしてキクラデス諸島を中心としたエーゲ海全域で発展しました。

また、古代ギリシャにおける最古の文明「エーゲ文明(注1)」の前半である「クレタ文明(注2)」を吸収する形で発展した、エーゲ文明後半にあたる文明としても知られ、ミケーネ文明では、建築や芸術、そして宗教的な伝統や儀式など、クレタ文明から受け継いだ(それ以前から影響を受けていたものも多いが)ものも多く存在します。

  • (注釈1)
    • 古代ギリシャにおける最古の文明で、一般的には前期のクレタ文明(BC2000頃〜BC1400頃)と後期のミケーネ文明(BC1600頃〜BC1200頃)に分けられる。
    • ただし、BC3000頃〜BC2000頃にエーゲ海のキクラデス諸島に栄えた文明「キグラデス文明」と小アジアのトロイアで平行して勃興したトロイア文明(BC2600頃〜BC1200頃)もエーゲ文明に含めることがある。
  • (注釈2)
    • ミノア文明とも呼ばれ、クレタ島クノッソスを起源とし、BC2000からBC1400にかけて発展した初期文明

ミケーネ文明の中心地ミケーネとそれ以外の主だった場所

ミケーネ文明が起こった中心地ミケーネを地図で確認すると、以下の通りです。

地図上でも分かる通り、北東にアテネがあり、そこからおよそ120km離れた場所にミケーネは位置します。

また、このミケーネ以外に、

  • ティリンス
  • ピュロス
  • テーベ(テーバイ)
  • ミデア
  • グラ
  • オルコメノス
  • アルゴス
  • スパルタ
  • ニコリア

なども、ミケーネ文明発展の中心地になった場所として挙げられ、アテネも含まれていたのではないかとも考えられています。

これらの都市間では貿易が盛んに行われていたらしく、その結果、建築、壁画、陶器、宝飾品、兵器など、共通する文化的要素が多く見つかっているのです。

また、古いギリシャ語の方言を表記するのに使われた「線文字B」も、これらの都市で使われていたことが分かっています。

ミケーネ文明の文化的特徴を4つの点から見ていこう

ミケーネ文明の建築

ミケーネ文明を象徴する文化的特徴の一つとして、ミケーネ文明の宮殿建築を挙げることが出来るでしょう。

ミケーネ文明が繁栄した都市の多くでは宮殿が見つかっていますが、これらの宮殿は地域によって独自の特徴もあるものの、共通となる建築要素が見られ、特に、クレタ文明の建築と比較すると、以下のような違いがあることに気づきます。

  • クレタ文明の宮殿
    • 開放的であった
  • ミケーネ文明の宮殿
    • 模倣的で巨石を使い、堅牢な城壁で囲まれ閉鎖的

(出典:GREEK BOSTON

これは、クレタ文明が発達したクレタ島は、周りを海に囲まれていたことで外敵の脅威が少なかったのに対して、大陸の一部で興ったミケーネ文明では、常に外敵の脅威にさらされる可能性が高かったため、より閉鎖的で守備的なものになったからだと考えられます。

ちなみに、ミケーネ文明の宮殿は、長方形の大きな「メガロン」と呼ばれるホールを中心に造られており、大きな吹き抜けのある天井を4つの木製の支柱が支えるデザインが特徴的でした。

また、各部屋には壁画が飾られ、そして床には漆喰が塗られ、装飾豊かなものだったと言われます。

ちなみに、ミケーネ文明のその他の建造物としては、ティリンスにおける洪水対策のためのダムや、切りっぱなしの大きな石のブロックによって造られた橋なども挙げられます。

ミケーネ文明の芸術

フレスコ画、陶芸、宝飾品などで表現される絵では、クレタ文明で採用されていた「自然な形」や「流れるようなデザイン」がミケーネ文明にも受け継がれました。

しかし、クレタ文明のものと比べると、より図式的な表現が多いという特徴を持っていました。

また、陶器類に関しては、クレタ文明と近い形をした作品も多かった一方で、ゴブレット(取っ手のない脚と台の付いた大型の杯)や、アラバストロン(古代の陶器の一種で、香油やマッサージ用油の容器として古代に使われていたもの)のような形のものも含まれていました。

他にも、テラコッタ(赤土の素焼き)で作られた動物の人形や、象牙の小さな彫刻、彫刻のデザインがされた石の器、繊細なデザインの金のジュエリーなども見つかっており、中でも「女性の立ち姿を表したテラコッタの人形」は特に人気を集めていたようです。

そして壁画には、植物、グリフィン、ライオン、飛び跳ねる雄牛の姿、戦いの場面、兵士、チャリオット(古代の戦争に用いられた戦闘用馬車)、8つの盾、人々に人気であったイノシシ狩りの様子などが描かれることが良くあったとされます。

ミケーネ文明の宗教や信仰

ミケーネ文明の宗教的な伝統や儀式については詳しく分かっていませんが、それでも幾つかの興味深い点は判明している、または推察できます。

そこで、ここではミケーネ文明の宗教や信仰に関して、興味深いものを挙げてみましょう。

(出典:wikipedia

  • 動物を生け贄として捧げ、宴を共にし、献酒をし、食物を捧げることを大切にしていた
  • 文明が発展した中心地の多くには礼拝のために設けられた神聖な場所が見つかっている
    • 宮殿の近くに設置されていることが一般的だった
  • クレタ文明の信仰の影響を受けている可能性がある
    • 雄牛の東部の装飾が施された杯や、飛び跳ねる雄牛の姿の壁画が見つかっている(クレタ文明では雄牛は神聖な存在だった)
    • 「女性の立ち姿を表したテラコッタの人形」が見つかっている(クレタ文明では女神を讃える儀式を執り行った)
  • 宮殿の中心と考えられるメガロンは宗教的な役割を持っていたかもしれない
    • 祭壇が壁画に描かれていた
  • 埋葬が重要な儀式であった可能性がある
    • 立派な墓地の存在や、金の仮面、冠、宝飾品、儀式のための刀剣や短剣など、多くの貴重な品々が遺体とともに埋葬されていた

ミケーネ文明の貿易

ミケーネ文明において貿易は重要な商業活動の一つであったと考えられます。

例えば、エーゲ文明における居住地では、当時、この地域で生産されていなかった、金や象牙、銅やガラスなどが見つかっており、他の地域から輸入していたことが伺えます。

また一方で、陶芸品などのミケーネ文明の品々が、エジプト、メソポタミア、レバント、アナトリア、シチリア、キプロスなどの離れた地域で見つかっていることも、ミケーネ文明では活発な貿易が行われていたことが分かります。

ちなみに、この地域ではオイルやワインなどが既に製造されていたことを考えると、当時のミケーネ文化において、これらの品々は貴重な輸出品となっていたのかもしれません。

ミケーネ文明に関する他にも知っておきたい3つのこと

クレタ文明の影響はどのようにミケーネ文明に伝播したのか?

ミケーネ文明で使われていた古代ギリシャ語の線文字Bを解読した結果、ミケーネ人は自分たちのことを「ギリシャ人」だと考えて、「島」のクレタ人達と自らを区別していたことが分かっていますが、ギリシャ本土で出現した初期のミケーネ文明は、クレタ文明の影響を大きく受けていました

(クレタ文明の遺跡)

紀元前1600年から1450年頃のミケーネ人の芸術作品、建築様式、そして兵器などは、同時代のクレタ島のミノア人達のものに非常に似通っており、昔の歴史家たちは古代のギリシャ南部をクレタ島の植民地だと考えていたほどでした。

では一体、このクレタ文明の影響は、どのようにミケーネ文明に伝播していったのでしょうか?

その答えとして現在考えられているのが、上でも挙げた「貿易」。

「本土の」ミケーネ人に及ぼしたクレタ文明の影響の数々は、二つの異なる文明間で行われた「海上貿易」や「物々交換」から来ていたようなのです。

ミケーネ人が「ギリシャらしい」と考えていた特徴は、実は貿易を通して知らず知らずのうちに(または知っていながら?)、クレタ文明から大きく影響されていたのです。

クレタ文明とミケーネ文明が逆転した理由は?

ミケーネ文明に大きな影響を与えるほど栄えたクレタ文明ですが、紀元前1400頃までに「本土のギリシャ人達」に征服され、ミケーネ文明に吸収されてしまいます。

しかしなぜ、ミケーネ文明に大きな影響を与えるほどだったクレタ文明が、そのミケーネ文明に征服されてしまったのでしょうか?

この点に関しては諸説ありますが、幾つかの仮説を挙げておきましょう。

他国との軍事交流がミケーネ文明を強くした

まず、ミケーネ文明のミケーネ人達は、各地域と貿易協定を結ぶと同時に、他国の人間を傭兵として採用することもいとわなかったそう。

(出典:pinterest

例えば、エジプトやヌビア(エジプト南部アスワンからスーダンにかけての地域)の傭兵などが知られます。

これは恐らく「大陸」に暮らしていたため他の民族との交流が自然と起こり、他の民族を受け入れることにそこまで抵抗がなかったからかもしれません。

対して、クレタ文明では他の民族の傭兵は見つかっていません。

これは、ミケーネ文明とは逆に島で暮らしているため、他の民族と関わることがそれほどなかったことが要因として挙げられるかもしれません。

とにかく、このような違いから、ミケーネ文明は他国との軍事交流を盛んにしていき、紀元前14世紀頃にはクレタ島以外の地域にも遠征軍を派遣するほど軍事力が高まっていたというのが、一つの理由だと思います。

ミケーネ人達は常に外敵の脅威にさらされていた

また、ミケーネ文明における建築の特徴部分でも触れたとおり、大陸に住むミケーネ人達は外敵の脅威にさらされやすい環境に住んでいました。

一方のミノア人達は島(クレタ島)で暮らしていたため、外敵の脅威はほとんどありません。

この両者の違いが、ミケーネ文明の宮殿はより「閉鎖的で守備的」、クレタ文明の宮殿はより「開放的」という、それぞれの特徴を生んだと考えられるわけですが、同時に、クレタ文明が攻略される大きな理由にもなったと容易に推察出来ます。

つまり、「開放的な宮殿」は「そこまで守備が強くない宮殿」であった上、そこまで外敵の脅威にさらされてきてなかったミノア人達は、強力な軍事力を持っていたミケーネ人達にしてみれば、かなり攻略しやすかったのではないかと考えられるのです。

突然滅亡してしまったミケーネ文明の謎

ミケーネ文明は紀元前1150年頃、「海の民」と呼ばれる人々によって侵攻され、終焉を迎えることになったと現在では考えられていますが、このミケーネ文明の終焉は多くの謎に包まれています。

といのも、この末期の時期に、それまで繁栄を誇っていたミケーネ文明のあらゆるもの、例えば、

  • 工芸品
  • 芸術品
  • 信仰・宗教
  • 貿易などの交流
  • 線文字B
  • 多くの居住地
  • 人口
  • 高い生活水準

などがミケーネ文明の諸都市の崩壊と共に失われ、その後は「暗黒時代(注)」に突入し、後世にギリシャ周辺で起こった文化などとの繋がりが良く分からないから。

突如として起こった「文明の大量消失」の理由についてはいくつかの仮説が存在し、未だに解明されていない複雑な謎の一つなのです。

(注釈)暗黒時代とは、ミケーネ文明崩壊の紀元前1200年頃から紀元前800年頃のポリス社会成立までを指し、残された記録や資料が少ないためにその繋がりなどが良くわからない時代のこと

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ミケーネ文明とは?場所や滅亡時の謎など。エーゲ文明後期のまとめ

古代ギリシャ最古の文明「エーゲ文明」の後期にあたるミケーネ文明について見てきました。

崩壊後は暗黒時代に突入するなど、謎に包まれる点も多いですが、当時はエーゲ海周辺に強い影響力を持っていた文明がミケーネ文明です。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

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