北センチネル島と危険な部族センチネル族について見ていきます。インド洋に浮かぶ外部から遮断された島について詳しく確認していきましょう。
北センチネル島というインド洋に浮かぶ島を知っていますか?
危険な部族「センチネル族」が住むとして知られ、物理的にはもちろん文化的にも、恐らく他の人々が住んでいる多くの国や地域から遠く離れた島なんです。
また、現在は島へ近づくことが禁止されており、謎が多く残る場所でもあります。
そんな北センチネル島とセンチネル族に関して、基本情報から知っておくたいいくつかのポイント、そして、これまで起こった外部との接触の略歴までを見ていきたいと思います。
北センチネル島とは?
北センチネル島はミャンマーとインドネシアの中間、インド洋ベンガル湾に点在する572の島々から成るアンダマン・ニコバル諸島の一部で、インド領に属するため、行政面から見ればインド共和国に含まれる島。
また、広さは約73㎢で、東京の渋谷区、目黒区、品川区、港区を足した大きさより少し狭いぐらい。
そして、低地で深い森林に覆われ、周りはサンゴ礁で囲まれています。
一方で、このインド洋ベンガル湾の奥深くに位置する北センチネル島は、地球上で最も孤立した場所の一つ。
これについては、人里離れた場所に隔離されたように位置している物理的な側面もありますが、最大の理由は、地球上最も危険な原住民と言われる「センチネル族」の住み家だから。
この周辺を航行すると豊かな自然の美しさに目を奪われますが、それは同時に、この島があまりにも未開拓だということの裏返しであり、北センチネル島には石器時代から変わらずに生きてきたと言っても良い人々(つまり現代社会とは異なる社会で暮らす人々)が未だに暮らしているのです。
ちなみに2006年、密漁目的で島に近付いた漁師が原住民に殺害されたニュースが伝えられた際、北センチネル島は注目を浴びることとなりました。
この出来事以降、島の周囲およそ4.8kmは立ち入り禁止ゾーンに設定されています。
北センチネル島の場所(地図)
インド領のアマダマン諸島に含まれる北センチネル島は、インド洋のベンガル湾内にあり、アンダマン諸島の南西部、南アンダマン島の西、およそ30kmに位置するとされ、地図で見ると以下の場所になります。
(出典:wikipedia)
左の「赤色」で塗られた場所が北センチネル島で、右に見える縦に長い部分はアダマン諸島のその他の島々です。
また、上の地図だけでは北センチネル島を管轄するインドや、その他の国との位置関係が分かりにくいので、以下へより拡大した地図を掲載しておきます。
この地図を見ると分かる通り、本土のインドやその他の国々からはとても遠くにあって孤立した島であることが分かります。
北センチネル島にいるセンチネル族について
上でも触れた通り、北センチネル島にいるのは外部からの接触を頑なに拒み続けることで有名な「センチネル族」という少数部族で、数千年〜数万年にわたって島に住みついていると言われる人々。
(出典:Tribunstyle)
彼らは近代文明を持たず、島に近づくよそ者は誰それ構わず殺害してしまう危険な部族と言われています。
この島に近づいた人はすぐに逃げ出すか、到着と同時に彼らに捕まってなぶり殺しにされるかしかないなどと言われ、これまで幾度も槍や矢によって、近づこうとした漁師やジャーナリスト、人類学者、政府の役人らが追い払われてきました。
センチネル族はアフリカからやって来た?
このセンチネル族は、アフリカ大陸から渡ってきた人類の直系子孫であると考えられ、一説によると約6万年前にアダマン諸島に移り住んできた後、北センチネル島へ住むようになった先住民だと言われます(※いつ頃からこの地に住んでいるのかやその起源は良く分かっていないため、あくまでも参考程度にお願いします)。
(出典:SUNDAY EXPRESS)
そして、現在の人口はおよそ250から400の間と推定されており、これまで外部との接触を完全に拒否し続けてきたため、今もなお石器時代の生活を維持する世界で唯一の民族と考えられています。
つまり、センチネル族は未だに狩猟・採集が中心の生活を営んでおり、獣を狩り、魚を釣り、野草を摘んで生活し、農耕の形跡は無いとされるのです。
加えて、センチネル族の話す言葉は独特で、アンダマン諸島の他の島で使われている言語とも異なるため、外部の人間がコミュニケーションを取るのは不可能であり、これがまた、何千年にも渡り外部との接触がなかった理由だと考えられます。
危険な部族と言われるセンチネル族について知っておきたい4つのこと
この非常に危険な部族と言われるセンチネル族をもう少しだけ理解するために、4つのことを紹介しておきます。
センチネル族の食生活に関して
センチネル族の生活を直接体験したり、彼らへの聞き取り調査はこれまで行われてきませんでしたが、外からの観察記録によると以下のようなことが分かっています。
- 主食はココナッツと魚
- 浜辺の浅瀬で見つけることが出来る
- 肉類の摂取
- 北センチネル島に生息する亀と小型の鳥類を狩猟して食べる
また、センチネル族は基本的には石器時代の人類が営んでいた生活をしていると言われますが、センチネル島付近に流れ着いた沈没船から金属を採取して、その採取した金属を削ることで、いくらかの金属を使った道具や矢先を作っているようです。
生活様式
センチネル族の生活様式に関して分かっていることとして、次の2つの点を挙げておきます。
2種類の家屋
まず第一に、センチネル族の生活において基本となる異なる2種類の家屋。
一つは数家族が暮らす大きめな集合住宅で、これとは別に、一時期的な仮住まいとして、核家族向けの囲いの無い小屋の様な建物が浜辺に建築されています。
衣類について
そして二番目は男女の衣類について。
女性は衣類の代わりに、腰、首、頭の周りに、繊維でできた紐を巻くようにして身につけています。
男性も同様に、首や頭の周りに装飾品を着用しますが、腰に巻く紐(ベルト)は女性より太く、また、槍、弓、矢を携帯しています。
大津波を予見出来たのか?
2004年、スマトラ島沖地震によって、インド洋の各島々には大津波が押し寄せました。
そして、この大津波によってセンチネル族の多くも犠牲になったのではないかとの恐れがありましたが、被害は軽微で済みました。
これは非常に驚くことで、近隣諸国では230,000人以上の人が犠牲になったのに対して、センチネル人達は全くと言って良いほど被害を受けていなかったようなのです。
このことに関して一説では、センチネル族は津波の襲来を予見出来る能力を持ち、波が到達する前に高地に避難することが出来たのが理由だと言われています。
ちなみに、津波の3日後に、インド海軍は部族の無事の確認と非常物資の食料を浜辺に投下する目的で、ヘリコプターを島へ飛ばしましたが、センチネル族の戦士達がジャングルから現れて槍と弓矢で威嚇し、ヘリコプターを追い払おうとしたことからも、彼らが無事で外界からの助けを必要としていないことは明らかです。
センチネル族の社交性と危険性
1970年代、インド当局はセンチネル族と友好関係を築くため、北センチネル島に数回関係者を派遣しました。
ある時、贈り物として豚1頭と人形を浜辺に残しましたが、センチネル族の人々は、その豚を槍で打って、人形と共に埋葬してしまいます。
(出典:ati)
そして1980年代に入ると、このような訪問がより頻繁に試みられるようになりました。
派遣団は矢による攻撃が届かない場所に上陸を試み、ココナツ、バナナ、少量の鉄などを、贈り物として残すなどします。
時折、センチネル族は友好的なジェスチャーを見せることもありましたが、別の時には、贈り物を森に持ち込ぶ一方、派遣団に火をつけた矢を浴びせることもあったのです。
このように、幾度も友好的な接触を試みたものの、一向に関係を築けず、派遣団は命の危険が脅かされ続けたのに加えて、センチネンタル族は過去ずっと外部から干渉されずに自らの文化や生活に満足していると結論付けられ、1996年に派遣団を送るミッションが停止されます。
北センチネル島におけるセンチネル族との接触の略歴
北センチネル島とそこに住む危険な部族と言われるセンチネル族に関して、基本的なことを紹介してきましたが、最後に、これまで起こったとされる、外部の人間とセンチネル族との接触の略歴を記載しておきます。
外部が自発的に試みた接触
1880年:イギリスとの接触
1880年、当時20歳だったイギリスの植民地行政官、モーリス・ビダル・ポートマン率いる重武装した大部隊が北センチネル島に上陸し、恐らく初めてとなる外部の人間による島の探査が行われました。
侵入者が近づくと島民はジャングルに隠れてしまうため、部族の人間と接触するまでには時間がかかったと言われます。
上陸から数日が経ったある日、ようやく部隊は逃げ足の遅い年寄り夫婦と、何人かの子どもたちに出くわしたのです。
ポートマンはこの夫婦と4人の子供をポートブレアに連行しましたが、老夫婦はすぐに体調を崩して死亡してしまいました。
これに関しては、おそらく彼らがヨーロッパの病原菌である天然痘、はしか、インフルエンザなどに耐性がなく感染したからだと考えられています。
そのためポートマンは4人の子どもたちを解放し、贈り物と共に島に帰すことにしました。子どもたちはジャングルに消え、二度と現れなかったと言います。
1967年から1990年代前半まで:インド当局による平和的な接触
1967年以降、インド当局は文化人類学的調査を目的に、センチネル族と平和的な接触を試みていますが、1970年代初めに訪れたいくつかの少人数のチームは矢で追い払われています。
また、1974年にはこの危険な部族を取材に訪れたドキュメンタリー映画の撮影隊と警察官もこの荒々しい出迎えを受け、監督の太ももには「2メートル以上の長い矢」が突き刺さりました。
そして、1980年代後半から90年代初めにかけては、政府の支援で少人数の探査チームが短時間、この島を訪れることがありました。
これは主に、インドの文化人類学者の指揮の下に行われ、チームは「贈り物」としてココナッツ、ナイフ、布、砂糖菓子、アルミ鍋、鏡、ゴムボール、ビーズのネックレス、プラスチックバケツなどを島に置いていきましたが、結局1996年には停止されてしまいます。
外部との偶然の遭遇
1896年:インド囚人との遭遇
1896年、インド人の囚人が脱走し、即席のイカダを作ってインド洋を渡ろうとした結果、流されて北センチネル島に漂着しました。
そして数日後、捜索隊によって、矢が刺さり喉を切られた囚人の遺体が浜辺で発見されます。
1981年:香港の貨物船の乗組員との接触
1981年8月2日、香港の貨物船プリムローズ号がインド洋を航行中にベンガル湾の荒波に流され、サンゴ礁に座礁して身動きが全くとれなくなってしまいました。
そのため、乗組員達はそこで数日間過ごしていると、槍や弓矢で武装した島民が接近してきているのが分かり、船長が無線で救助を要請。
結局、乗組員はヘリコプターで無事救出され、大事に至ることはありませんでした。
2006年:密漁をしていた人間との接触
2006年、島の周辺で密漁をしていた2人の人間が矢で撃たれ死亡し、この接触が、記録上は直近のものとされます。
ちなみに、この遺体を収容しにヘリコプターが向かいましたが、矢を放たれて威嚇され続けたため、結局追い払われてしまいました。
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北センチネル島と危険な部族センチネル族|インド洋の島で外部から遮断された謎の場所のまとめ
いまやパソコンと、インターネットにつながる環境さえあればGoogle Earthでどんな秘境でも覗くことが可能になりました。
しかし、インド洋に浮かぶ北センチネル島に関しては、Google Earthで覗こうとしても詳細を確認することが出来ない場所の一つです。
そして、そこに古来より住むセンチネル族は、今日に至っても多くのことが知られていない、昔からの生活を維持し続けて暮らす非常に貴重な人々なのです。