ペドロ・インファンテというメキシコにおける偉大な有名人を紹介していきます。かつて俳優や歌手として活躍し、国民にとってはアイドル的存在だった歴史的人物です。
ペドロ・インファンテ・クルーズ(1917年11月18日〜1957年4月15日)は、メキシコにおいて俳優そして歌手として活躍した人物。
メキシコ映画界の黄金時代において活躍した、最も偉大な俳優の一人であったとされ、メキシコおよびベネズエラ、グアテマラ、ペルーなどのラテンアメリカの国々の人々にとってはアイドル的存在でした。
また、メキシコの伝統的な音楽ジャンル「ランチェーラ」では、最も優れた歌手として有名でした。
2019年9月現在、NETFLIXはこのメキシコの大スターにインスパイアされた作品を絶賛製作中。
そこで、公開前のちょっとした豆知識として、ペドロ・インファンテの生涯や活躍ぶりを見ていきたいと思います。
ペドロ・インファンテの生涯(ダイジェスト)
ペドロ・インファンテ・クルスは、1917年11月18日にメキシコのシナロア州マサトランで生まれました。
父はバンドのダブルベース奏者であった「デルフィーノ・インファンテ・ガルシア」で、15人の子供のうち、ペドロは3番目の子供として誕生しています。
ペドロがまだ幼い頃、家族はグアムチルという街へ移り、その後まもなくして今度はエル・ロザリオと呼ばれる町へ居を移しました。
10代の頃から音楽の才能を開花させる
家庭が貧しかったために、幼い頃から畑仕事をしなければなりませんでしたが、10代になった頃にペドロは、音楽への興味を強めます。
すると、メキメキと音楽分野における才能を現し、短期間で弦楽器、菅弦楽器、打楽器の技術を身につけ、16歳になると、メキシコの伝統音楽であるランチェーラの楽団「ラ・ラビア」を作るほどまでになりました。
そして、この楽団を通して様々なイベントで演奏していった結果、ペドロ・インファンテの名前は少しずつシナロア州中で知られるようになっていったのです。
結婚が活躍の契機になった
その誕生が公にされることがなかったものの、ペドロが19歳の時には、初めての娘であるグアダルーペ・インファンテが誕生。
その少し後に、ペドロは10歳年上のマリア・ルイサ・レオンと出会い、メキシコシティで結婚しました。
ペドロのキャリアが飛躍したのは、このマリア・ルイサのおかげだったと言います。
というのも、マリア・ルイサは比較的に経済的な余裕を持っていた女性で、それによってペドロは音楽活動に集中しやすくなっただけでなく、マリア・ルイサはペドロが持つアーティストとしての才能に気づき、メキシコシティへの移住を強く説得するなどしたからです。
これによってペドロは、1938年に地元のラジオ局シナロアXEBLからキャリアアップして、全国的なラジオ局XEBに登場するようになりました。
そしてペドロの人気は上昇し、1943年には最初のレコード「エル・ソルダド・ラソ」を録音。
その後、生涯にわたって350枚近くの歌をレコーディングし、メキシコシティではメキシコ映画界の黄金時代に活躍した作詞作曲家やユーモアを混えた作品で知られる「サルバドール・フローレス・リベラ」や「レネ・トゥーゼ」などの作品を歌ったりしました。
ちなみに、ペドロは生涯の中で2人の女性と結婚して、グアダルーペの他にも四人の子供をもうけています。
俳優としても大人気となったペドロ・インファンテ
ペドロは60本以上もの映画に出演しました。
メキシコシティに移って全国的に名前が知られるようになっていったペドロは、俳優としての活動も始めていきました。
その後、映画スタートして頂点に上り詰めていったわけですが、それは、
- ノソトロス・ロス・ポブレス(Nosotros los pobres)- 1948
- ウステデス・ロス・リコス(Ustedes los Ricos)- 1948
- ぺぺ・エル・トロ(Pepe El toro)- 1953
の三部作によってでした。
この作品の中でペドロが演じた人物は、「労働者や田舎から出てきた人々といったメキシコシティの社会の底辺に暮らす庶民に近いものだった」ため、これが映画の観客に受け、メキシコの映画界における彼の地位を不動のものとしていったのです。
またペドロはこの頃、庶民としての役柄だけでなく、他にも宗教的な人物や外国人役など、演じる役柄を広げていき役者としての幅を広げていきました。
その結果、1956年に公開された「ティソック(Tizoc)」という映画によってペドロ・インファンテは、1957年に開催された第7回ベルリン国際映画際で銀熊賞を受賞しています。
ペドロ・インファンテの早すぎる死
二回も飛行機事故に遭ったにもかかわらず、ペドロ・インファンテの趣味は飛行機を操縦することでした。
最初の事故では無傷だったものの、二回目の事故では頭蓋骨に金属板を埋め込む手術を受けるほどの怪我を負っています。
しかしそれにも関わらず、ペドロは飛行機に乗ることをやめず、1957年4月15日、軍用飛行機(正確には戦闘用の重爆撃機から貨物機に改良された物)を操縦している時、離陸してからわずか5分後に墜落。
その結果、メリダという都市の中心部に機体が突っ込む形で墜落し、乗客二人と地上にいた二人を巻き込んでペドロ・インファンテは帰らぬ人となったのです。
ペロド・インファンテは未だにメキシコ人に人気なアイドルである
ペドロ・インファンテがなくなって60年以上が経ちますが、メキシコ国内で彼は、未だに多くの人の記憶に残っています。
例えば、2010年にテレビ番組がメキシコの偉人を選ぶ調査を行なったところ、ペドロは二位に選ばれました。
このことは、庶民出身であるペドロ・インファンテが、メキシコの大衆ととても近い文化的な象徴であったことを示しています。
また、死後も失われない彼の人気もあり、ペドロの遺体が埋められたメキシコシティのパンテオン・ハルディンは、有名な観光地となっています(※パンテオン・ハルディンには他にも多くの著名人の遺体が埋葬されている)。
ペドロ・インファンテに関して抑えておきたい他2つのポイント
特に人気となった楽曲
数多くの楽曲を世の中に送り出したペドロ・インファンテは、特にメキシコの民俗音楽のスターとして人気を博し、生涯で350を超える楽曲を残したわけですが、その中でも特に有名で人気となったものには次のようなものが含まれています。
- Amorcito Corazón(私の小さな愛と心)
- Te Quiero As(このようにあなたを愛します)
- La Que Se Fue(去った彼女)
- Corazón(心)
- El Durazno(桃)
- Dulce Patria(愛しい祖国)
- Maldita Sea Mi Suerte(呪いこそ私の幸となれ)
- Así Es La vida(人生はこのようなもの)
- Mañana Rosalía(また明日ロザリア)
- Mi Cariñito(私の小さな愛しい人)
- Dicen Que Soy Mujeriego(人は私を女たらしという)
- Cien Años(100年)
- Flor Sin Retoño(芽のない花)
※カッコ内は対訳
さらに、世界的に有名となったコンスエロ・ベラスケズ作曲による「Bésame Mucho(ベサメ・ムーチョ)」の英語版は、ペドロ・インファンテが唯一英語でレコーディングを行った曲だったりします。
ペドロ・インファンテとスポーツ
ペドロは優れた歌手、俳優であっただけでなく、スポーツやジムで自分の体を鍛えていたことでも記憶されており、実際、ボクシングと野球が大好きでした。
例えば、ペドロの最初の妻であったマリア・ルイサ・レオンによると、ペドロ・インファンテはよく、朝5時にランニングや近くの公園の湖で行うパドリングに出かけ、それで満足出来ない時にはジムへ行って昼頃までウェイトトレーニングをしていたと言います。
このように、体を鍛えていた俳優は当時のメキシコ芸能界において珍しく、おそらく俳優としては先駆者だったのではないかと考えられています。
また、ペドロ・インファンテは優れたボクサーでもありました。
1953年には映画「ぺぺ・エル・トロ」の中で、その優れたボクシングスキルを披露しています。
さらに、ペドロ・インファンテと結びつけて考えられるもう一つのスポーツが野球です。
ペドロがアマチュア野球チームに入っていたという記録はありませんが、ハリケーンに襲われたキューバを支援するためのチャリティーを目的として、出身地であるシナロア州のマサトランで開催された野球の試合に出場していたことが知られています。
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ペドロ・インファンテ|メキシコの俳優で歌手でアイドル的存在の偉人のまとめ
メキシコの歴史上、最も国民の脳裏に記憶されている俳優で歌手だった一人、ペドロ・インファンテの生涯や活躍ぶりを見てきました。
2019年9月現在、Netflixではこのメキシコの大スターでアイドル的存在だったペドロをモデルにした作品が製作中です。
今後、公開された際にはペドロ・インファンテの生涯を再確認しながら、作品を楽しんでいくと良いかと思います。