ブラジルとアルゼンチンの関係について、歴史を追いながら見ていきます。隣国のライバルとして競いあい相互不信を抱えていた両国の関係は、近年、かつてないほどに良好なものとなっています。
ブラジルとアルゼンチンの両国は、国土面積でも経済規模でも、それぞれ南米で1位、2位となる国であり、国境を接している隣国同士です。
そのため、ブラジルはかつてポルトガルの植民地であり、アルゼンチンはスペインの植民地であったという違いはあるものの、両者は歴史の中で長くライバル関係にありました。
一方で、近年ではライバルとしてではなく、お互いを重要なパートナーとして認識しつつあり、両国の関係はかつてないほど発展しています。
この記事では、ブラジルとアルゼンチンの関係について、歴史の流れを追いながら見ていこうと思います。
まずは、ブラジルとアルゼンチンの関係を簡単にまとめたものから見ていきましょう。
ブラジルとアルゼンチンの関係まとめ
アルゼンチンとブラジルの両国関係は、密接でかつ歴史があり、経済、通商、文化、教育、観光など、あらゆる側面に及びます。
複雑な両国関係は、戦争や対立関係から友好および同盟関係へと変化し、その歴史は二世紀以上に及びます。
19世紀初頭、スペインとポルトガルによる植民地支配から独立を果たしたアルゼンチンとブラジルは、それぞれの宗主国から、一連の「未解決の領土問題」を引き継ぎました。
両国関係の亀裂が最も深刻になったのは、ブラジルの侵攻とバンダ・オリエンタルの併合によって勃発した「シスプラティーナ戦争(1825年~1828年)」の時でした。
ただし、「静かな敵対関係」が続く時期が幾度かあったものの、アルゼンチン・ブラジル関係は19世紀および20世紀のほとんどの期間、あからさまな敵対関係にはなかったと言えます。
1980年代にブラジルが経済成長を遂げると、アルゼンチンは南アメリカにおける第二の大国としてブラジルと和解し、両国は「協調姿勢」に転じました。
1991年、ブラジル・アルゼンチン核物質計量管理機関の設立に伴い、ブラジルとアルゼンチンは、核をめぐる対立状態から、相互信頼に基づく協調関係へと方向転換。
アルゼンチン・ブラジル間では通商や移住が盛んになり、特に1991年のメルコスール(南米諸国の関税同盟)の発足以降、両国関係はより密接になっていきます。
その結果、今日、アルゼンチン・ブラジル両国間の戦略的関係は、「史上最高潮」に達したと考えられています。
アルゼンチンの外交政策は、「あらゆる側面においてブラジルとの戦略的同盟関係を促進」することにとりわけ重点が置かれ、同様にブラジルの外国政策においても、アルゼンチンは「絶対的な優先事項」とされているのです。
ブラジルとアルゼンチンの歴史ダイジェスト
宗主国からの独立から19世紀のブラジル・アルゼンチン関係
アルゼンチンとブラジルは「リオ・デ・ラ・プラタ盆地」を共有しています。
この地は、ポルトガルとスペインの征服者たちがそれぞれの母国のために、新天地征服の野望をもって激しく対立した土地です。
19世紀初頭、イベリア半島のスペインとポルトガルから独立を獲得すると、アルゼンチン共和国とブラジル帝国は、それぞれかつての宗主国から一連の未解決の領土問題を引き継ぎ、そのなかにはリオ・デ・ラ・プラタ盆地にある二つの国「パラグアイ」と「ウルグアイ」も含まれていました。
対立の歴史から始まった両国関係
両国間の初めての武力衝突となる「シスプラティーナ戦争(アルゼンチン・ブラジル戦争)」が勃発したのはこの時期です。
1825年から1828年まで続いたシスプラティーナ戦争で、リオ・デ・ラ・プラタ連合州(独立当時のアルゼンチンの呼び名)の軍はブラジル帝国軍に勝利し、モンテビデオ条約の調印によってウルグアイが両国から独立。
この戦争では両国ともに莫大な軍事費用がかかり、連合州とイギリスとの通商にも損害が及んだため、イギリスは交戦中のリオ・デ・ラ・プラタ連合州(アルゼンチン)とブラジルに対し、リオ・デ・ジャネイロでの和平交渉に臨むよう圧力をかけたのです。
(出典:wikipedia)
イギリスとフランスによる調停の下、リオ・デ・ラ・プラタ連合州とブラジル帝国は1828年、ウルグアイ東方共和国の名の下に、シスプラティーナ州の独立を認めるモンテビデオ条約に調印。
しかし、ブラジル、ウルグアイおよびアルゼンチンの反乱軍同盟が、(マヌエル・オリベ率いるウルグアイの反乱軍の支援を受けた)ロサス軍に勝利したラ・プラタ戦争(1851〜1852年)で、両国の軍隊は再び相対することとなります。
また、1870年代にはパラグアイに対抗して、ブラジルとアルゼンチンが同盟関係を結んで戦ったパラグアイ戦争の終結後、アルゼンチンがグランチャコ全域を自国の領土にしたいと望んだものの、ブラジルがこれを受け入れなかったことで、また別の新たな戦争が勃発しそうになりました。
国境線を巡った対立が解決されないまま過ぎた19世紀
ブラジルは20世紀初頭まで、正確な国境線をめぐってアルゼンチンと対立していました。
ブラジルは、
- 1851年にウルグアイ
- 1851年および1874年にペルー
- 1853年にコロンビア
- 1859年にベネズエラ
- 1867年にボリビア
- 1872年にパラグアイ
とそれぞれ国境問題を解決しましたが、アルゼンチン、ガイアナ、フランス領ギアナおよびスリナムとは解決が成されないままでいたのです。
ちなみに、19世紀半ばまでにブラジルは、ブラジル帝国の政治的エリートの尽力により、その広大な領土のほとんどを一国の権威下に統合。
対照的にアルゼンチン共和国は19世紀、派閥間の対立抗争を経験。
これは、連邦共和制を望む人々と、ブエノスアイレスの強硬な中央集権主義志向(ユニテリアン)の人々との対立抗争でした。
一国の権威下にアルゼンチンの統一と領土の統合が成されたのは、1880年代になってからのことです。
負の遺産である未解決の領土問題や、表面化してないものの敵対するような時期が幾度かあったにも関わらず、アルゼンチンとブラジルの関係は、19世紀および20世紀のほとんどの期間、あからさまな敵対関係にはありませんでした。
異なる領域やレベルをめぐって対立が起こり、両国の防衛政策は相互不信を反映していましたが、両国関係はあからさまに敵対的なものではなかったのです。
例えば、1850年代半ばを過ぎると、どちらの国も領土問題を解決するのに強硬手段や武力に訴えることはなくなり、ラ・プラタ川流域で勃発した唯一の全面戦争であるパラグアイ戦争(1864年~1870年)では、アルゼンチンとブラジルはウルグアイと三国同盟を結び、一緒にパラグアイに対抗しているといった具合です。
20世紀のブラジル・アルゼンチン関係
20世紀当初のブラジルとアルゼンチンの方向性
ブラジル側
寡頭政治を支持するコーヒー大農園(プランテーション)の経営者らを打倒し、都市の中産階級に権力と商業利益をもたらした「1930年のブラジル革命」が起きた結果、ブラジルでは工業化と近代化が進みました。
1933年までには、新たな産業の強引な販売促進策によって経済が好転しました。
一方で、1920年代および1930年代のブラジルの指導者たちは、アルゼンチンが掲げる外交政策に、
母語がポルトガル語のブラジルを母語がスペイン語の近隣諸国から孤立させ、南アメリカにおけるアルゼンチンの経済的、政治的影響力拡大を促進するという隠された目的があるのではないか
と考えました。
さらに、それにも増して懸念されたのは、強力なアルゼンチン軍が軍事力に劣るブラジル軍に奇襲攻撃をしかけてくるのではという脅威でした。
この脅威に対応するため、1930年から1945年まで当時のブラジルを率いたジェトゥリオ・ヴァルガス大統領は、アメリカとより密接な関係を築いていくこととなります。
アルゼンチン側
対してアルゼンチンは、外交面では反対の方向を向いていたと言えるかもしれません。
第二次世界大戦中、ブラジルはアメリカの忠実な同盟国であり、ブラジル軍をヨーロッパ戦線へ派遣。
アメリカは、大西洋を越えてアメリカ兵やアメリカの軍事物資を輸送するために空軍基地を、対潜水艦軍事作戦のために海軍基地を無償賃借する見返りに、ブラジルへ1億ドル相当以上の軍事物資を貸与しました。
これに対して、第二次世界大戦中のアルゼンチンは、公式には中立国であったものの、時折ドイツの枢軸国側を支持するような姿勢を見せていたのです。
当初はそこまで活発な交流がなかったが20世紀後半になると一変していった
このような状況もあり、20世紀当初のブラジルとアルゼンチン両国間における対話や物質的な融合は限定的でした。
経済、政治、文化の各方面において両国関係を促進することによるメリットが考慮されるようになったのは、20世紀後半になってからのことです。
水資源管理の論争によって両国の関係促進が妨げられる
1945年以降、両国間の最も激しい論争は、アルト・パラナ盆地の水資源管理に関する問題でした。
ブラジルとパラグアイはイグアス法を制定し、ブラジルとパラグアイ共同の水力発電所「イタイプダム」を、アルゼンチン~ブラジル~パラグアイの国境を流れるパラナ川に建設することを表明。
1973年にはイタイプ条約がブラジリアで調印されました。
しかし、アルゼンチンはこのブラジルの計画が、同地域におけるアルゼンチンの水資源開発計画の妨げとなることを恐れ、約10年の間、論争が続き、これによって両国関係は悪化。経済的および政治的に密接な繋がりが築かれる上で大きな障害となったのです。
最終的に水資源をめぐるこの論争は、熱心な外交交渉によって解決をみました。
1979年10月、技術協力に関する「イタイプ・コルプス多角協定」が締結されたことにより、隣接する三国が納得のいく形で論争は終結し、ブラジルとアルゼンチン両国関係が劇的に改善される道が開かれました。
イタイプ・コルプス協定の締結後、ブラジルのジョアン・フィゲイレード大統領はアルゼンチンを訪問し、40年以上の年月を経て、アルゼンチンを訪問した初めてのブラジル大統領となったのです。
アルゼンチンを公式に訪問した初のブラジル大統領
ブラジルを21年間統治した軍事政権の最後の大統領であったフィゲイレード大統領は、1980年5月にブエノスアイレスを訪問。
(出典:wikipedia)
その他の合意書と共に、核問題に関する一連の協働合意書に調印しました。
また、核不拡散体制に対する両国共有の反対姿勢を反映して、アルゼンチンとブラジルは、核燃料サイクルのあらゆる側面に関して協働し、技術情報、原料よび製品を交換することに合意しました。
そして同時期に、水資源をめぐる論争問題の解決とブラジル大統領のアルゼンチン訪問の実現に続いて、両国関係をさらに促進させる、予想外かつ衝撃的な事件がアルゼンチンで発生するのです。
1982年の「フォークランド紛争」です。
ブラジルとアルゼンチンの関係を促進したフォークランド紛争
チリとアルゼンチンが独立を達成した後、チリとアルゼンチンはこの地域における権利を強く主張していたこともあり、アルゼンチンは同地域に浮かぶ、ピクトン、ヌエバ、およびレノックス各島への侵攻と実行支配を目的とした「ソベラニア作戦」を1978年に開始。
しかし、この作戦は数時間後に中止されてしまいました。
それから3年後の1982年4月、今度はアルゼンチンは、イギリスとの間で領有を巡って争っていたフォークランド諸島へ侵攻。
これによりイギリスとの短期間ではあるものの重大な戦争「フォークランド紛争」が勃発しました。
そしてこのフォークランド紛争に際してブラジルは、フォークランド諸島に対するアルゼンチンの主張を、次のようにな声明を出して支持したのです。
フォークランド諸島問題を検討した結果、ブラジル連邦共和国大統領閣下は、アルゼンチン共和国政府への支持を表明し、現在進行中の交渉は間もなく満足すべき結果を生み出すだろうという確信を再度明言する。
その後、アルゼンチンとイギリスの国交が1990年に完全に正常化するまで、ブラジルは実際にアルゼンチンを利するような行動を度々取っていくようになりました。
このように、宗主国からの独立以降続いたライバル関係と歴史的疑念にも関わらず、フォークランド紛争以降に取ったブラジルの行動と政策は、ブラジルとアルゼンチンの二国間の信頼関係が大きく改善する基盤となったのです。
両国の絆が醸成されていった20世紀後半
フォークランド紛争での対イギリス紛争におけるアルゼンチンの敗北は、当時のアルゼンチンを率いていた軍事政権の終結を急がせる結果となりました。
1983年10月に実施された総選挙の結果、弁護士で急進市民同盟所属のラウル・アルフォンシンが大統領に選出され、軍政時代に終止符が打たれました。
(ラウル・アルフォンシン, 出典:wikipedia)
アルフォンシン大統領の主な業績には、その6年の任期の間で、
- チリとの根強い地域紛争の解消を始めた
- ブラジルとの関係を大きく改善させた
ことが含まれます。
ブラジルとの関係改善を構築しようとするアルゼンチンの意図は、同じことを求めるブラジルの意図と一致。
軍事政権下にありながら、当時のブラジルは南アメリカの隣国との関係改善政策を開始し、ブラジルの政策においてアルゼンチンは、この取り組みにおける主要国として位置づけられていたのです。
そして、1964年以後初の文民によるブラジル大統領としてジョゼ・サルネイが当選し、ブラジルで民政移管が実現した1985年以降、この取り組みは加速。
サルネイ大統領は政権獲得後間もなくアルフォンシン大統領と会談し、その後、一連の外交的取り組みと大統領訪問が実現しました。
これらの交流の目的は、アルゼンチン・ブラジル間の文化的、政治的、および経済的親交関係の回復プロセスを深めようというものでした。
民主化した両国による強力な協調関係の開始
軍事政権時代が終焉して民主化された両国の間では、強力な統合と協力関係が始まっていきました。
1985年、両国は、地域貿易協定であるメルコスールの基礎となった「フォス・ド・イグアス宣言」へ署名。
また、両政府が核および宇宙プログラム開始した1950年代以降、科学の分野においてブラジルとアルゼンチンは長くライバル関係にありましたが、両国による核エネルギーの平和的利用の誓約を検証するブラジル・アルゼンチン核物質管理局(ABACC)の確立など、複数の同意が締結されました。
さらに、軍事面でも大きな関係改善がありました。
両国の陸軍は友好政策に従い、両国間にある国境に配置していた主要部隊を解散または移動。
他にも、ブラジルの兵士がキプロスにあるUNFICYPのアルゼンチン平和維持部隊に配属されたり、ハイチでも共同活動を行っています。
その他の例としては、ブラジル海軍航空母艦空母サン・パウロから定期的に作戦行動を行っているアルゼンチン海軍の戦闘機があるなど、両国間における軍事的協力は強固になっていったのです。
21世紀におけるブラジルとアルゼンチンの関係
21世紀に入ってからもブラジルとアルゼンチンの緊密な関係は続いています。
2003年から2007年までアルゼンチンを率いたネストル・キルチネル政権は、ブラジルを外交政策の優先事項とし、ブラジルとの関係を戦略的としていました。
一方のブラジル大統領ルーラ・ダ・シルヴァ(2003〜2011年)もまた、アルゼンチンを自国の外交政策の最優先事項としていたため、これは、両国関係の発展と維持に大きく繋がりました。
特に、ルーラ・ダ・シルヴァが次期大統領として最初に訪問した国は、2002年12月のアルゼンチンであったことは強調すべきでしょう。
両国関係の関係発展に関する具体例を挙げると、2003年以降、アルゼンチンとブラジルは多国間のフォーラムにおいてそれぞれの立場を連携させています。
これは、
- メキシコのカンクンで開催された世界貿易機関閣僚会議の農業交渉への共同参加
- 米州自由貿易地域構築に関する両国共同の見解
- グローバル金融システム改革を目的としたG20での声明
などを通して明らかで、歴史的に相互不信が強かった両国には、この頃から相互信頼が構築され始めました。
さらに経済分野では2008年、アルゼンチンとブラジルはともに米ドルの使用をやめ、二国間の商取引には自国の通貨の使用を始めました。
そして、第36代ブラジル大統領に就任したジルマ・ルセフは、両国間の「特別かつ戦略的」結びつきを示す目的で、大統領としての最初の訪問国としてアルゼンチンを選択。
ブエノスアイレスへの公式訪問中の2011年1月31日、ルセフ大統領は「最初の訪問国としてアルゼンチンを選択したのは、安易な決断ではなかった」と述べ、アルゼンチンを自国の「戦略的同盟国」として称賛しています。
このように、21世紀に入ってからのブラジルとアルゼンチンの関係は、歴史的に見ても過去にないぐらい良い状態となっているのです。
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ブラジルとアルゼンチンの関係を歴史の流れと一緒に見ていこうのまとめ
ブラジルとアルゼンチンの関係について、歴史の流れも追いながら見てきました。
南米を知る上ではこの2つの大国は絶対に抑えるべきで、両国間の関係もまた、南米を理解する上では重要なポイントの一つとなるでしょう。