セイラム魔女裁判はヨーロッパ植民地時代のアメリカで起きた悪名高い事件です。宗教的な原因や歴史的な原因などが複雑に絡みあうこの事件について、詳しく見ていきましょう。
数万人が無実の罪で裁判に掛けられて命を落とした魔女狩りは、西ヨーロッパで起こった凄惨な出来事として歴史的に有名です。
一方で、魔女狩りの動きはヨーロッパを離れ、少し時間をおいてアメリカでも起こりました。
そして、アメリカで起こった魔女狩りの出来事として悪名高いのが、セイラム魔女裁判と呼ばれる事件。
西ヨーロッパの魔女狩りと比べると、犠牲者の数は圧倒的に少ないにも関わらず、集団ヒステリーが起こると、人間はどれだけ理不尽で非論理的になるのかを証明する歴史的な例として、頻繁に取り上げられる事件で、過去には映画化されたこともあるほどです。
この記事では、そんなセイラム魔女裁判について、異なる視点から詳しく見ていこうと思います。
セイラム魔女裁判とは?
セイラム魔女裁判とは、1692年3月から1693年5月にかけて、アメリカはニューイングランド地方のマサチューセッツ州セイラム村(現在のダンバース)で行われた一連の裁判(起訴や法廷審問など)のこと。
本来は無実であったと考えられる多くの人々が、次々と告発されて裁判にかけられた「集団ヒステリー」または「モラルパニック(社会秩序への脅威とみなされた特定のグループの人々に対して発せられる、多数の人々による激しい感情や行動)」です。
具体的な数字を挙げると、このセイラム魔女裁判の中では、
- 200名以上の村人が魔女として告発される
- 19名(14名が女性で5名が男性)が絞首刑により処刑される
- 1名(男性)の男性は拷問中に圧死する
- 5名が獄中で死亡する
といった形で、多くの人が裁判にかけられ、中には命を落とす者もいました。
また、16世紀から17世紀中頃にかけて最も激しかった西ヨーロッパを中心にした魔女狩りが、時差を置いてヨーロッパ植民地時代下のアメリカで起きた「魔女狩りの一事件」だとも言えます(セイラム魔女裁判が起こった時期にはすでに、ヨーロッパでの魔女狩りは衰退してきていた)。
ちなみに、この出来事は名前に「セイラム」とありますが、1692年の予備審問は、セイラム村以外の場所(セイラム町、イプスウィッチ、アンドーバー)でも行われています。
セイラム魔女裁判は、歴史的な集団心理の暴走事件の例として挙げられることが良くあり、これまでに大衆文学に用いられたり、また、過去にはこの事件をモチーフとした映画も製作されています。
その映画とは1996年に公開されたアメリカ映画の「クルーシブル」という映画で、当時のセイラム村で起こった一連の事件を描写しています。
宗教的な背景と歴史の流れから見るセイラム魔女裁判に繋がった原因
セイラム魔女裁判につながる「魔女に対する集団ヒステリー」の背景には、主に宗教的な原因と歴史的な原因の二つが垣間見れます。
ここでは、その点について流れを追いながら見ていきましょう。
清教徒(ピューリタン)の宗教的背景
清教徒またはピューリタンと呼ばれる人々が、ニューイングランドのマサチューセッツには多く住んでいました。
清教徒とは、イングランド国教会の改革を唱えたキリスト教プロテスタントの厳格なグループで、当時のイギリス国教会の宗教的弾圧から逃れ、この地に移住してきたのです。
清教徒はイギリス国教会の浄化のために本国へ戻るという希望を胸に秘めながらも、特に指導者達は、自分たちが住む植民地が世界中の人々から注目される「丘の上の町(自由で公正な神の国、信仰に基づいて構築された世界の模範となるコミュニティ)」となることを望んでいました。
また指導者達は同時に、「市民は神を重んじ、さらに、教会の指導者に敬意を払って教会に通う」という理想郷を作ることを目標に活動を続けていました。
そして、17世紀の終わりまでにニューイングランド地方の各町において、その理想はほぼ実現しました。
しかし一方で、商人などの中間層が急速に増加して成長していきます。
その結果、宗教的に清教徒と対立する勢力の脅威が増すと同時に、それ以上の脅威として17世紀末までに、世俗化した教会の指導者が増加。
世俗化した教会の指導者の中では、教会の規律を負担に思う気持ちが高まっていったのです。
加えて清教徒にとってさらに痛手となった、マサチューセッツチャーター(Massachusetts Charter)と呼ばれるイギリス国王による特許状(または憲章)が、1691年に発行されました。
この文書の中には、宗教において異なる思想を持つ者もより寛容に受け入れるべきこと、そして、教会に属しているかどうかではなく、財産に基づいて選挙権を与えることが明記されていたのです。
この状況が集団ヒステリーのキッカケとなる
このような状況になったことは、ニューイングランドが清教徒の理想郷ではなく、事実上のイギリス直轄植民地に変わってしまったことを意味していました。
これは、イギリスでの弾圧から逃れ、理想郷の建設を目指してやってきた清教徒の多くにとってはとても衝撃的なことで、「大きな怒りや不満、そして失望」が広がったのです。
その怒り、不満、失望はやがて、1692年に沿岸部のセイラム村で起こった「魔女に対する集団ヒステリー」へと発展していきます。
魔女に対する集団ヒステリーを加速させた2つの原因
ニューイングランドで盛んだった魔女信仰
加えて17世紀頃、キリスト教の清教徒が多いニューイングランドでは、もともと魔女信仰が盛んだったため、これもまた、魔女に対するヒステリーを加速させた大きな理由の一つでした。
実際にこの地では、セイラム魔女裁判以前にも、魔女として告発された出来事が複数存在しています。
セイラム町との関係
さらにセイラム村は、当時、港湾都市として栄えていたセイラム町から約13km離れた場所にあるのにも関わらず、セイラム町に対して税を払う必要があったりと、セイラム町から支配されているような状況でした。
そのため、この両者の間には大きな格差が生じ、セイラム村はなかなか発展できず、村人の間には多くの鬱憤が溜まり、また双方の間では、資源、政治、宗教をめぐる争いが頻発していました
そして、この地政学的な状況を客観的に見れない村人の中には、村が発展しない(セイラム町と比べて圧倒的に貧しい)のは「村に悪魔が取り付いているからだ」という考えに陥りやすい人もいたのです。
セイラム魔女裁判の始まりから終わりまでの一連の流れ
セイラム魔女裁判につながった少女達の降霊会
1691年~1692年の冬、3人の思春期を迎えた少女達が、村の牧師「サミュエル・パリス」の自宅で降霊会を行っていました。
(ティテュバ:出典:wikipedia)
その際、台所にいた南アメリカ先住民の使用人(奴隷)のティテュバが挙げたブードゥーの話に、少女達は強い関心を持ちます。
また少女達は、、グラスの水の中に卵を割り入れ、その形状で将来の夫の占うことなども試したと言われます。
奇妙な行動が目立つようになった少女達
その後、日が経つにつれて少女たちは奇妙な行動をとるようになりました。
- わめきたてる
- 四つ這いで這い回る
- 村人に向かって吠える
- はっきりした理由もなく痙攣する
などといった行動を始めたのです。
そして医師が診察した結果、彼女達の奇妙な行動は悪魔の仕業だという診断が下されました。
その後、少女の一人の親であるサミュエル・パリス牧師はティテュバを疑って尋問し、「ブードゥーの妖術を使ったことを自白」させ、また、少女達にも問い詰めたところ、少女たちは、
- ティテュバ
- サラ・グッド
- サラ・オズボーン
(※どの女性も村で立場が弱かった)
の3人が魔女であると答えたのです。
魔女狩りによってセイラム魔女裁判が始まる
少女たちの告発に基づき、名前が挙がった3人の女性が1692年2月29日に逮捕されます。
そして、翌日の3月1日には判事による予備審査が行われますが、その際、告発されたサラ・グッドとサラ・アズボーンが尋問されている時、列席していた少女達が突然床に転がり暴れ始め、告発された二人が魔術を使ったのが原因だと証言しました。
そのため、容疑を否定したのにも関わらず、グッドとアズボーンの二人は有罪となってしまいます。
一方のティテュバは「自白すれば減刑されるという清教徒の法解釈が動機となった」のか、求められるままに容疑を認めました。
さらに予備審査の際、ティテュバは容疑を認めただけでなく、大勢の村人の名前を挙げて「他にも魔女がいる」ことを示唆して傍聴人を驚かせます。
その後間もなくして、数十人の少女が同じ様に激しい発作を起こすなど、奇妙な行動をとるようになった結果、村中で魔女が告発されるようになり、数か月の間にセイラム村の収監施設は村人でいっぱいになりました。
捕らえられたのは男性、女性、子供など様々で、皆、魔女として告発された人たちでした。
またこの過程で、悪魔が村にいるという噂が広まり、村人は集団パニックに陥ったのです。
魔女として訴えられた人々の例
マーサ・コーリーの例
セーラム魔女裁判が始まってから数か月後、マーサ・コーリーが逮捕されました。
ある農民はコーリーと口論をした直後に自分の家畜が数頭死んだと証言し、またフィービー・チャンドラーという少女は「あなたは毒を盛られるだろう」と言うコーリーの声が聞こえた直後に激しい胃痛に襲われたと証言しました。
そして、コーリーの実の子供たちまでもが「母親が自分たちを魔女になるように誘った」とコーリーに不利な証言をしたのです。
(マーサー・コーリー)
中でもコーリーに最も不利な証拠となったのは、数人の少女たちが審査室に入った時、彼女を見て苦痛で大きな叫び声をあげ始めたことです。
少女たちはコーリーの耳にささやく悪魔が見えると言いました。
判事はこれを有力な証拠だとして判決を下し、その数日後にコーリーは絞首刑になりました。
レベッカナースやジョージ・ジェイコブズの例
マーサー・コーリーの事件から数ヶ月後、今度はレベッカ・ナースという非常に人望のあった71歳の人物が告発されました。
彼女は、信ぴょう性のある証拠はなかったにも関わらず絞首刑にされてしまったのです。
さらに、ジョージ・ジェイコブズという人物も魔女として告発されています。
妻が告発されたされたため、その告発者に対する疑念を口にしたところ、逆に自らの使用人である少女に「魔女だ」と告発されて絞首刑とされてしまったのです。
セイラム魔女裁判の終焉
告発がセイラム村の外へと広がるにつれて、マサチューセッツのリーダーたちは、魔女狩りが制御できない事態になることを心配し始めます。
そして、少女たちがハーバード大学の学長で名高い牧師であったサミュエル・ウィラードを告発した時、裁判所の判事達は驚き「もう沢山だ」という雰囲気が広がります。
そしてついに、マサチューセッツ湾直轄植民地の総督であったウィリアム・フィップスの妻が少女達から告発されるという事件が起きたのです。
(ウィリアム・フィップス:出典:wikipedia)
このことに呆れかえると同時に、自分の妻が魔女として処刑されるかもしれないと悟ったフィップスは、この事件に介入して特別法廷を停止。
新しく上級裁判所を設け、この裁判所はいわゆる怪奇的な証拠を全て却下し、その時に裁判にかけられていた56人の被告のうち3人だけを有罪とします。
それに加えて後にフィップスは、この3人とそれ以前に死刑を宣告された5人に恩赦を与えました。
さらに、1693年5月にフィップスは、魔女として告発され収監されていた全員に恩赦を与え、セイラムの魔女裁判と呼ばれる一連の事件はここに終止符を打ったのです。
ちなみにその後、告発を行なった人の一部が公に謝罪し、また、議会で可決された法案によって、魔女とされた人たちの名誉が回復され、その相続人に弁償がなされました。
セイラム魔女裁判をより包括的に理解する上で挙げておきたい3つの原因の仮説
① セイラム魔女裁判の原因の一つは財産や権力争いだったのか?
サミュエル・パリスは生活が苦しくなっていた?
当時のセイラムはボストンに次いで発展しつつあるセイラム町と、発展が進まないセイラム村に分かれていたため、村人達はこの状況に不満を抱えていたのは先述した通り。
村ではセイラム町から独立することに関しての議論が繰り返されていく中で、1689年、村人達は自分たちの教会を建てる権利を手に入れ、元商人のサミュエル・パリス牧師(悪魔に取り憑かれたと騒いだ少女の一人の父親)をその教会の牧師に選びました。
(サミュエル・パリス:出典:wikipedia)
ところがパリス牧師の冷たく厳しい態度や報酬の要求によって、村人達の間では不信感が募ります。
結果、村人の多くはパリス牧師を追放するように要求し、1691年10月にはパリス牧師の給料の分担金に対する寄付を止めてしまったのです。
このような状況下にあった当時のサミュエル・パリスの生活は、実は苦しくなりつつあったのかもしれないという点は見逃せないポイントでしょう。
権力の低下に直面していたパットナム家
また、降霊会に参加して悪魔に取り憑かれたと診断されたサミュエル・パリスの娘を含めた少女達は、当時のセイラムで最も実力があり、権力を持っていた一家「パットナム家」の娘「アン・パットナム」の親友だったことも興味深い点です。
アン・パットナムは家庭で多くの不満を抱えていた少女であったと言われ、また、セイラム魔女裁判では魔女の告発を主導していた張本人でもあります。
このアンの主張を、両親は(本音かどうかは別として)そのまま真に受けるように支持し、これが魔女告発の大きな弾みとなりました。
そして実は当時、パットナム家はセイラムにおける権力の低下に直面していたとも言われており、もしかしたら、自分たちの社会的地位を回復するための手段として、「魔女狩り」を持ち出したのかもしれないという説があるのです。
告発された人々は権力に逆らうような人が多く含まれていた
また、セイラム魔女裁判の裏にちらつく権力問題に関して、次のような事実も判明しています。
それは、
- 告発された人の殆どは女性で、多くは当時の伝統的な女性像に反する人だった
というもの。
例えば、
- 家庭の外で商業に従事していた女性
- 教会に通わない女性
などで、それらの殆どが
- 中年以上の年齢
- 息子や男兄弟はいなかった
といった共通項を持っていました。
つまり、魔女として告発された女性の多くは、「財産を相続する立場にある自立した女性」だったのです。
そのため、穿った見かたをすれば、仮に裏で糸を引いていた権力者がいたとした場合、権力に従わないだけでなく、社会に新しい価値観などを持ち込んで既存の権力を破壊してしまうかもしれない彼女達は、潜在的な脅威となり得る邪魔な存在だったとも言えなくもないのです。
② セイラム魔女裁判では知識の欠如が原因の一つになった
セイラム魔女裁判の原因の一つとして、当時の医師や専門家達が、現在ほど科学的な知識を持ち合わせていなかったという点もあるでしょう。
降霊会の後から少女達が奇妙な行動を取り始めた時、当時の医師はただ呆然と見つめていることしか出来ず、結局、悪魔に取り憑かれたと結論付けて終わりにしました。
しかし、もしも当時の医師やその他の専門家が現在と同程度の、生物学、医学、心理学の知識を持っていたら、おそらく診断結果は全く異なっていたことでしょう。
③ 村人に植えつけられた恐怖も事件を拡大させた原因である
さらに、セイラムにおける魔女狩りが拡大した原因の一つは、村人達に植えつけられた恐怖だったと言えるでしょう。
つまり、誰がいつ何処で自分を魔女と告発するか分からない状況が続いて行く中で、人々は戦々恐々とした毎日を送っていくことになり、その結果、
- 告発する前に告発してしまえ!
- 魔女として告発する側にまわってしまえば告発されないだろう
という心理状態が生まれ、これが、さらに多くの人々が魔女として告発されることを加速させたのでしょう。
だからこそ、今日であれば信じられないような証言や噂を基にした告発が増えていき、多くの人が無実の罪で裁判に掛けられたのです。
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セイラム魔女裁判|原因や歴史を追う!映画にもなった悪名高い実話のまとめ
セイラム魔女裁判について詳しく見てきました。
本当の原因が何であれ、セイラム魔女裁判は当時のセイラム村における集団心理の法則を反映したものであることはまず間違いありません。
ちなみに、この事件がセイラム村で起きた集団ヒステリーであり、逆に集団ヒステリーに陥っていない集団からすれば非常に滑稽な事件であったことを示すものとして次のような話が残っています。
1692年のある日、セイラム近隣のイプスウィッチの町で、悪魔に取り憑かれたとされる少女の集団がある老女と橋の上で出会いました。
その時、少女達は「魔女がいる!」と叫んで地面でのたうち回って見せたことがあったそうです。
当然のことながら、イプスウィッチの町の人々は集団ヒステリーに陥っていなかったため、誰も興味を示さなかったところ、少女たちは起き上がって立ち去ったという話です。