中国四大美人|美女達とその物語を見てみよう!西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃について

中国四大美人に関して出来るだけ詳しく、一方で分かりやすく紹介していきます。西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃の四人の美女達について確認してみましょう。

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中国の長い歴史の中で脈々と語り継がれる「中国四大美人」という言葉を耳にしたことがあるかもしれません。

美しくて有名な古代中国美女のことを指し、そこには西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃の四人が含まれています。

また、伝説によれば、この四人は古代中国で最も美しい女性たちであり、その美貌を武器に王や武将たちに対して強い影響を与え、国政を揺るがすほどの存在だったと言われます。

そんな中国四大美人について、詳しく紹介していきたいと思います。

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中国四大美人① 西施(せいし)

西施は春秋時代(紀元前770年頃から紀元前5世紀頃までの約320年間)の末期、古代中国に存在した越(紀元前600年〜紀元前334年)の首都であった諸曁(しょき)に生きた中国四大美人の一人。

(出典:sohu.com

たいへん美しい女性で、西施が水面の上から池の魚を見ていると、魚たちはその美貌に目がくらんで泳ぐのも忘れ、水面から徐々に沈んでしまったという俗説が残るほどの美女だったらしいです。

そのため、「沈魚美人」という愛称で呼ばれることもある一方、大根足の欠点があったとされ、それゆえ裾の長い衣類を着ることが多かったとかなんとか。

西施の物語

西施は二つの国の争いの中で、復讐のための策謀として利用された悲しき美女。

当時の中国に存在した呉の国の王「夫差(ふさ)」との戦いに敗れたのち、越の国の王「勾践(こうせん)」は一時囚われの身となっていました。

そんな時、勾践の補佐官的役割を担っていた文種(ぶんしゅ)は、夫差が美女に目がないことを知っていたため、夫差の元へ美女を献上する策略を画策します。

その後、もう一人の補佐官的立場の范蠡(はんれい)が、西施と鄭旦(ていたん:こちらも美女だったらしい)を見出して、紀元前490年に呉の王「夫差」に二人を献上したのです。

夫差:出典:kknews.cc

夫差は西施と鄭旦の美貌に夢中になりました。

そして、様々な進言や忠告を夫差に与え、態度を改めないと国が滅びることを夫差に忠告していた夫差の右腕「伍子胥(ごししょ)」を殺してしまいます。

さらに夫差は、蘇州市(そしゅうし)の西15キロ、霊厳山(れいがんざん)の中腹にある離宮のなかに、美女の宮殿の意味を持つ「館娃宮(かんあきゅう)」を建設するほどまで、美女たちに溺れていきました。

結果、国政は疎かになり、呉の勢力はしだいに衰え始め、ついに紀元前473年、越王の「勾践」は復讐とばかりに攻撃をしかけて呉軍を追い詰めることに成功。

呉夫差は伍子胥の進言に耳をかさなかったことを悔やみ、自害して果てたのです。

西施の死

中国四大美人のそれぞれが、悲劇的あるいは不可解な最期を遂げているわけですが、西施の死は謎に包まれています。

(出典:epochtimes.com

西施の運命についてはいくつかの俗説がありますが、その例が以下のようなもの。

  • 西施の美貌によって越王の勾践も骨抜きにされるのを防ぐため、西施は生きたまま皮袋に入れられて長江に投げ込まれて殺害された
  • 美女献上作戦の立案に関わった范蠡のサポートで越を抜け出して生きながらえた

などです。

西施に関するその後

ちなみに、西施は諸曁市の南部、苧蘿山(ちょらさん)のほとりを流れる浦陽江の川岸に建立された西施殿に祀られているそう。

杭州の西湖は西施の化身と言われており、西子湖とも呼ばれ、西子は西施の別名で、西夫人を意味します。

中国四大美人② 王昭君(おうしょうくん)

王昭君は、前漢(紀元前206〜紀元後8年)の南部、秭帰県(しきけん)の名家に生まれた中国四大美人の一人。

(出典:pinterest

伝説によれば、王昭君は馬に乗って故郷を離れ、北へ向かって旅を始めます。

その道中で馬がいななき、王昭君はあまりの悲しみに打ちのめされてしまった結果、鞍にまたがったまま弦楽器で物悲しいメロディーを奏で始めたらしい。

すると、南方へ向かっていた雁(がん)の群れがこの音色を聴き、馬上の若き美人を見た途端、羽ばたくことを忘れて次々と地面に落ちてしまったとか・・・。

以来、王昭君には「落雁美人」のニックネームがつけられているそうですよ。

王昭君の物語

王昭君は紀元前40年以降、前漢の10代目の王「元帝(げんてい)」の後宮に上がります。

後宮にいた間、この美女は元帝の寵愛を特に受けることもなく、宮女のまま過ごしていました。

これについては諸説あるものの、そのうちの一つが、

新たな王妃を選ぶ際に元帝はまず、お妃候補とされる宮女の似顔絵を見て決めており、王昭君の似顔絵に関しては、元帝がたまたま見なかったのか、あるいは実物どおりに描かれていなかったのか、とにかく王昭君は元帝の目に留まることはなかった

というもの。

王昭君の嫁ぎ先であった匈奴:出典:wikipedia

紀元前33年、漢と属国関係にあった匈奴(きょど)の呼韓邪単于(こうやぜんう)が、表敬訪問で長安を訪れます。

呼韓邪単于は元帝と義理の親子関係になる許しを請い、呼韓邪単于は元帝の王女の代わりに、後宮から5人の女性を提案され、そのうちの一人が王昭君だったのです。

ちなみに、宮廷に呼び出された際、廷臣たちは王昭君のあまりの美貌に驚嘆し、呼韓邪単于に嫁がせることを考え直すように元帝に進言したと言われます。

その後、王昭君は呼韓邪単于の寵愛を受け、息子に恵まれましたが、紀元前31年に呼韓邪単于が死去してしまったため、王昭君は前漢の地に戻ることを希望しました。

しかし、漢王朝は王昭君に対して、匈奴の習慣に従い、呼韓邪単于の息子である単于の妻となるように嫌がる王昭君へ命令します。

漢族の間では義理の息子と再婚することは、近親相姦のような不道徳に当たると考えられたため、王昭君は非常に悲しみましたが、命令のためにこれを仕方なく受け入れて単于との間に二女を設けたのです。

そんな王昭君でしたが、匈奴へ尽くしす姿から「寧胡閼氏(ねいこえんし:匈奴を安んずる夫人)」の名を授かっています。

王昭君の死

伝説では、呼韓邪単于亡き後、王昭君は呼韓邪単于の息子との再婚を逃れる唯一の手段として、自害したとされています。

(出典:history.sina.com.cn

しかし、単于との間に二女を儲けていることから、実際にはそのようなことはないと考えられ、史実では王昭君がいつどのように死去したのか、明らかになっていません。

王昭君に関するその後

ちなみに、王昭君は中華民族団結の象徴的な存在でもあるらしく、王昭君は後世の中国人に評価され、墓は後世の世代によって繰り返し補修されています。

さらに、王昭君の悲劇のヒロイン的物語は当時の中国に広まり、各王朝の芸術家達を魅了しました。

その結果、王昭君の生涯をもとにした何千もの作品が、音楽、絵画、詩、演劇、小説などさまざまな芸術分野の作品として残されています。

中国四大美人③ 貂蝉(ちょうせん)

貂蟬は西暦161年か169年に生まれたとされる中国四大美人の一人で、「三国志演義」に登場することで知られる美人女性。

しかしながら、他の三人の中国四大美人とは異なり、貂蟬に関しては、どの歴史資料にも記述がなく、架空の人物であった可能性が高いと考えられているのが特徴。

深夜、貂蟬が月に供物をしていると、嫦娥(じょうが:中国神話に登場する月の女神)が、自分より美しい貂蟬を見て、慌てて雲に隠れたという伝説があるほどの美女だったとか。

貂蟬の物語

貂蟬は古典小説「三国志演義」のなかで、武将「呂布(りょふ)」と将軍「董卓(とうたく)」をめぐる陰謀に登場します。

(三国志)

当時、中国後漢末期に生きた董卓は、政権を掌握して専横を極めていました。

その専横に反発した後漢字の司徒であった王允(おういん)は、董卓を亡き者にしようと考え、董卓の側近で養子(つまり董卓とは父子の関係)になっていた呂布に董卓を殺させようと画策します。

そのために、

  1. 貂蟬をまず呂布と
  2. 後に董卓と結婚させた

という方法を実行しました。

これが、呂布と董卓2人の間に貂蟬をめぐる感情の対立を生み、やがて呂布は養父であった董卓を殺害してしまうのです。

この作戦はまた、「連環計」としても知られます。

貂蟬の死

他の中国四大美人と同様に、貂蟬の死に関しては諸説あります。

(出典:artnet

一つ目の話

民話の一つでは、下邳の戦い(かひのたたかい)で呂布が殺されたのち、貂蟬は曹操(そうそう)に捕えられたと言われます。

そして、当時の武将の一人関羽が自分の下に長く留まるつもりがないと考えた曹操は、関羽を誘惑して自分の下に残らせるために貂蟬を送りました。

しかし、貂蟬が呂布と董卓を裏切ったことを知る関羽は、自らも罠にはまらないように、また、これ以上誰も貂蟬に欺かれないように貂蟬を殺害してしまったという話です。

二つ目の話

さらに、以下のような話もあります。

下邳の戦いの数年後、劉備、張飛、関羽の3人が皆そろって貂蟬を妻にしたいと望み、3人は貂蟬をめぐって激しく対立。

3人の争いに終止符を打つため、関羽が貂蟬を殺害したという逸話です。

三つ目の話

また他にも、次のような話も存在します。

貂蟬は関羽と出会い、関羽は貂蟬を尼僧にしました。

これを聞いた曹操は、貂蟬を我が物にしたいと望みましたが、その知らせを聞いた貂蟬は自害して果てたというものです。

貂蟬に関するその後

一般的には実在しなかったと考えられる貂蟬ですが、歴史上に実在したと考える説もあります。

その説によると、貂蟬は山西省忻州市の南3キロにある木芝村でその女性は暮らしていて、本名を「任红昌」といったとか。

木芝村には今なお、「貂蟬の故郷」と書かれた石碑や貂蟬墓、寺があり、国のために自らの生涯を捧げた尊敬すべき女性「貂蟬」をしのぶものとなっているそうです。

中国四大美人④ 楊貴妃(ようきひ)

楊貴妃の名で呼ばれる楊玉環(ようぎょっかん)は、唐の時代に生きた中国四大美人の一人。

西暦719年から756年まで生きたとされ、唐の第9代皇帝である玄宗(げんそう)の妻です。

もともとは玄宗皇帝の息子「李瑁(りぼう)」の妃だったけど、眩しすぎる美しい美貌を持った楊玉環に玄宗のオッさんがゾッコン。

なんと息子から奪い自分の妃にしてしまったんです。

その後は、毎日のように楊貴妃に夢中となった玄宗オッさんが国政を怠って国が不安定になり、安史の乱という歴史的な反乱を引き起こす元凶となったとしても有名な美女です。

また、ちょっとした豆知識として、楊貴妃は一時期、道教の尼僧であったことから、そのときの名である太真にちなんで楊太真(ようたいしん)と呼ばれることもありました。

楊貴妃の物語

楊玉環は古くから知られた役人の家に生まれました。

生まれつき美しくて素直な性格を持ち、また、音楽、歌、舞踊、リュート演奏など、多くの分野で才能に恵まれていたと言われます。

こうした芸才に加えて教養もあったことから、後宮の内妻のなかで頭角を現し、それが玄宗皇帝の寵愛を勝ち得た一つの理由です。

玄宗皇帝:出典:wikipedia

さらに楊玉環は、当時としてはふくよかな体格であったことでも知られていますが、外見的な美しさに加えて、その肉感を刺激する体もまた、玄宗皇帝が彼女にのめり込み過ぎてしまった原因なのかもしれません。

ちなみに、楊玉環は美しき前漢成帝の皇后「趙飛燕」と比較され評されることが多いです。

楊玉環は豊満な美女であった一方、趙飛燕はほっそりとした体型であったことが知られており、これが、四文字熟語「環肥燕瘦」という、美人の種類を言い表す四文字熟語の元になりました。

環肥燕瘦は分かりやすく説明すれば、楊玉環のようなグラマーな女性と、趙飛燕のようなスレンダーな女性を意味しており、優れた容姿を持つ女性を表現する時に使います。

楊貴妃の死

楊貴妃に夢中になって国政を怠った結果、国内は不安定になり、西暦755年、唐の地方組織勢力が軍事的な反である有名な「安史の乱(安禄山の乱)」を起こします。

この時、玄宗皇帝は楊貴妃と共に長安を逃れましたが、2人が馬嵬坡(ばかいは)に到着すると、同行した軍隊はそれ以上前進するのを拒否してしまいます。

というのも安史の乱は、楊貴妃が玄宗皇帝を骨抜きにしたために国が衰え、加えて楊貴妃の従兄にあたる楊国忠も敵の挙兵を招いた原因であると考える兵士が多かったから。

結果、玄宗は軍をなだめるために、馬嵬坡にて楊貴妃に自害するよう命じる他なくなってしまい、楊貴妃は命を落とすことになったのです。

楊貴妃に関するその後

今日、楊貴妃の墓は陝西省興平市にあり、墓の前には大理石でつくられた楊貴妃の白い彫像が立っています。

また、後世になって、詩人の白居易が長編の漢詩『長恨歌』を詠み、玄宗の楊貴妃に対する愛と、楊貴妃を失った永遠の悲しみを詠いました。

『長恨歌』はたちまち古典となり、後世の中国の学校教育において子どもたちに教えられ、暗唱された他、日本でもたいへん有名になり、そこからインスピレーションを受け、帝と内妻「桐壷」との不運の愛を描いた古典小説『源氏物語』が誕生したとされます。

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