マーガレット・サッチャーと彼女の政策の内容までを紹介していきます。鉄の女と呼ばれるサッチャーが推進したサッチャリズムは、経済や政治を学ぶ上で興味深いです。
第二次世界大戦後のイギリスでは、ゆりかごから墓場までという高社会福祉政策のスローガンを下に、多くの物が国有化され、公共サービスとして提供されていました。
しかし、この政策は結果としてイギリス政府の財政を圧迫し、さらに市場での競争を減らすことになり、特に1960年代に入るとその低迷は顕著になりました。
このような難しい舵取りが必要な中で現れたのがマーガレット・サッチャーという名前の女性で、イギリス初の女性首相として、サッチャリズムと呼ばれる社会経済政策を強硬な姿勢で推し進めた結果、見事この難局を打開したのです。
マーガレット・サッチャーと、彼女が推し進めた政策とはどういったものだったのか?
サッチャーのプロフィールと共に、彼女の政策「サッチャリズム」の内容までを簡単に紹介していきます。
マーガレット・サッチャーとは?
マーガレット・サッチャー(1925〜2013)、本名マーガレット・ヒルダ・サッチャーとは、イギリスの政治家で同国の第71第首相を、1979年5月4日から1990年11月28日まで務めた人物。
女性としてはイギリス初の首相で、さらに首相となるおよそ4年前の1975年から(1990年まで)は、イギリス保守党初の女性党首の座にありました。
大西洋のフォークランド諸島の領有を巡って1982年にアルゼンチンとの間に勃発したフォークランド紛争に勝利したり、冷戦時代にはアメリカのロナルド・レーガン大統領と強固に連携してソ連を筆頭とした東側に対抗するなど、強い姿勢で巧みな外交を展開しました。
一方で、内政面でも優れた手腕を発揮しました。
特に、ゆりかごから墓場まで政策によって、
- 社会保障や負担の増加
- 企業国有化による政府財政の負担増
- 国民の勤労意欲低下
- 既得権益の発生
などが起こり、1960年代から長期に渡ってイギリス経済は低迷していた状況で、イギリス経済を再生させることを目的とした社会経済政策(一般的にサッチャリズムと呼ばれる)を打ち出して推進したことは有名。
このサッチャリズムを強い姿勢で推し進めた結果、「イギリス病」と揶揄された長期の社会・経済低迷から国を立ち直らせたのです。
ただし、1989年頃から始まった景気後退に直面して行き詰まったこと、さらに、急進的な側面を見せながらも保守的で、自らの主張を曲げずに強権的な姿勢を取り続けたことに対しての批判が高まった結果、1990年11月28日に首相を辞任することとなりました。
マーガレット・サッチャーは、保守的で強硬な政治姿勢によって「鉄の女」という異名で呼ばれるものの、国の舵取りが難しい時期に強い姿勢で外国から自国を守った点、イギリス病からイギリスを救った点、さらに女性初のイギリス首相という点では評価が高い人物なのです。
サッチャーの政策(サッチャリズム)の内容を簡単に紹介
鉄の女と呼ばれるマーガレット・サッチャーが採用した政策(サッチャリズム)は、弱っていたイギリスを再生させて復活させたわけですが、サッチャー政権が採用した政策とはどういったものだったのでしょうか?
その政策の中でも最も注目を集めたポイントをピックアップして、それぞれ簡単に紹介していきます。
サッチャーの政策1:通貨主義と景気後退への対応
経済の貨幣的な側面を重視するマネタリスト(通貨主義者)で、新自由主義を代表するアメリカの学者であったミルトン・フリードマンによる通貨主義の理論に基づき、1979年、イギリスの金利は大幅に引き上げられました。
例えば、当時の短期金利は20%近くまで上昇しています(参照:鹿児島国際大学)。
この施策は、価格の上昇、つまりインフレの拍車に歯止めをかけることが目的でした。
その結果、失業率は増加したものの、1981年からインフレは鎮静化に向かい、政府が最も危惧していた物価上昇を食いとめる結果となり、サッチャーの政策はその点では成功をおさめました。
またインフレが鎮静に向かい始めた1981年、サッチャー政権で財務大臣を務めていたジェフリー・ハウは、税金を引き上げて公共支出と政府赤字を削減することにも成功しています。
サッチャーの政策2:住宅政策
イギリス病によって拡大した政府赤字を削減する目的のために、サッチャー政権の下では公共住宅が販売される住宅政策が実施されました。
1919年に地方自治体はそこに住む住民に対して公共住宅の供給を義務付けられたこともあり、この政策が実施されるまでのイギリスは、住宅供給のために多くの支出を余儀なくされていたのです。
1980年に実施されたこの政策によって、それまで公営住宅に住んでいたテナント達が、大幅な割引価格で公営住宅を購入することができるようになります。
その結果、1987年を迎える頃には、合計100万件以上の住宅が販売される結果となるなど、不動産を所有することが出来たテナント達から大きな支持を集めると同時に、政府赤字の削減にも繋がっていきました。
サッチャーの政策3:民営化と規制緩和
サッチャー政権は、サッチャリズムと呼ばれる経済政策の中で、主な公益事業を含む数ある国営企業を民営化する政策を実施しました。
それまでは「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる高福祉政策が取られていたため、通信、ガス、水道、鉄道、航空など、多くの事業が国によって営まれていたのです。
これらの国営事業が政府財政に重くのしかかっていたこと、資本主義を謳いながらも共産主義的な政策によって経済面での競争が起こらずに低迷していたことから、マーガレット・サッチャーはこの点に関してメスを入れることにしました。
例えば、1984年には英国電信電話会社を民営化し、200万人以上の人々が会社の株式を購入。その後もブリティッシュ・ガスなど、国営企業の民営化は続きました。
さらに1986年、サッチャー政権は、銀行、金融サービスおよびロンドン市内における大規模な規制緩和を打ち出し、これによってロンドンは21世紀に入ると世界における金融サービスの中心的な場所となっていったのです。
ちなみに、最も議論の対象となった国有鉄道は、サッチャー政権ではなく、サッチャーの辞任後に首相となったジョン・メージャーの政権下で民営化されました。
サッチャーの政策4:労働組合に関する法律の制定
サッチャー政権下では、労働法の改正などによって、労働組合が連帯して活動することが禁止されました。
これは、1970年代から恒常化して頻発していた労働組合によるストライキを鎮静させ、経済を安定させていくために採用された施策です。
この労働組合に対する政策の下で制定された法律は、政治的なストライキを禁止し、労働者がストライキを起こすことのできる理由も規制したのです。
さらに、労働組合がストライキなどの争議行動を起こした結果生じた被害に関しては、組合がその責任を負わなくてはいけないことが明確化され、加えて政府が最大で250,000ポンド(当時の日本円で1億2000〜1億4000万円)を差し押さえることが出来るとしました。
サッチャーの政策5:教育へ競争原理を導入
マーガレット・サッチャーが目標としたイギリスの再生を達成するために採用されたサッチャリズムは、経済面だけでなく社会面でも推し進められていったわけですが、その一例として教育面への施策を挙げることが出来ます。
1988年に制定された教育改革法では、教育現場にも市場と同じ「競争原理」を導入し、それによって国を担う国民の学力レベルの水準を引き上げると同時に、国が水準を一定レベルに維持・管理するためにも中央集権化を目指したのです。
この法律の下で実施された施策の具体例としては、
- 標準到達度試験(Standard Attainment Test:SATs)
- 学校のランキング
- ナショナルカリキュラム
- 学校が異なっても国家が求める水準を満たすための枠組み
の導入などを挙げることが出来ます。
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マーガレット・サッチャーと政策|鉄の女が推進したサッチャリズムのまとめ
第二次世界大戦後のイギリスが大変だった時期において、見事イギリス病から自国を復活させたマーガレット・サッチャーは、今でも多くのイギリス人にとって英雄的な存在となっています。
彼女に関してさらに知りたい場合は、2011年に公開された伝記映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」を鑑賞してみるのもおすすめです。