トマトの歴史を見ていきましょう。起源や発祥地はもとより、なぜ果物ではなくて野菜として分類されたのかについての背景までを確認していきます。
今日、世界中でトマトは愛されており、日本でも様々な料理に加えられています。
しかし、トマトの歴史を紐解いていくと、元々は日本とは全く縁もゆかりもない食べ物であり、世界的に広まったのも近現代に突入してからというのが分かってきます。
また、「トマトは野菜なのか果物なのか?」という論争がありますが、植物学的に見ると果物に分類されても良さそうなトマトが、なぜ現在は野菜として扱われているのかについて、トマトの起源を遡っていく過程で答えが浮き上がってきます。
この記事では、トマトの起源や発祥地、そして野菜に分類されることとなった由来までを、歴史を紐解いて見つめていきたいと思います。
トマトの歴史: その起源や由来となる発祥地
おそらく、今日世界中で食べられている「トマト」の起源、つまり発祥地は、今日のペルーにあたる地域。
同地にある、
アンデス山脈の西斜面沿いの高原地帯
(引用:山梨県総合教育センター)
であると考えられています。
この一帯には野生種のトマトが多く自生しており、現在でもこのアンデス山脈の地で見かけることが出来るというのが、ここがトマトの発祥地であるとされる理由です。
南米にやってきたスペイン人達によってヨーロッパへ持ち帰られた
15世紀から17世紀にかけて、このアンデス山脈の地を含む南米大陸には、スペイン人の探検者または征服者達(コンキスタドール)がやってきて、様々な征服活動を行っていくわけですが、スペイン人たちが南アメリカにやってきた頃には、現地(主に中米のメキシコ)の人々によってすでにトマト栽培は広まっていました。
一方で、トマトが最初に栽培された場所や、正確にどのようにしてトマト栽培がメキシコまで北上したのかについては、論争が繰り広げられています。
はたして、現地で栽培されていたトマトに興味を持ったのか、はたまた野生種のトマトに興味を持ったのかは定かではありませんが、スペイン人探検家らは、ヨーロッパへ持ち帰るのにトマトは十分な価値を持つと考えたのです。
そして、トマトをヨーロッパへ持ち帰ったのは、メキシコ高原にあったアステカ帝国を征服したスペインのコンキスタドール「エルナン・コルテス」で、トマトの種を持ち帰ったのが、その後にトマトが世界的な食べ物になっていく始まりとなりました。
世界的な食べ物となる以前の歴史では有毒だと考えられていたトマト
しかし、スペインがヨーロッパへトマトを持ち帰った当初、トマトを口元近くに持ってくるような人はいなく、ましてや、食べようとすることなどありませんでした。
当時の民間伝承によれば、
トマトを食べると含まれる毒が体内の血液を酸に変えてしまう
と考えられていました。
そのため、南米に入植したスペイン人を始め、ヨーロッパ人、そして北米へ入植した後のアメリカ人達も、トマトを食用ではなく、単なる観賞用として栽培していました。
これは、トマトの見た目がベラドンナ(熟すると黒色になる点では異なっていたが)という西欧に自生する植物に似ていたのが一つの理由です。
ベラドンナは猛毒を含んでおり、接触しただけでかぶれが起きたり、食べると嘔吐や異常興奮、最悪の場合は死を引き起こします。
さらに、トマトは毒だとする考えを決定付けたもう一つの理由が、
- 当時の富裕層に使用されていた食器には鉛が多く含まれていた
- トマトを載せた食器からはトマトの酸で鉛が溶け出した
- それ(溶け出した鉛)を食べた人たちの中には食中毒を起こす者もいた
というものでした。
実際、トマトの原産地である南アメリカおよび中央アメリカの先住民達は、食用としてのトマトの安全性に関して思い違いをしているようなことはなかったと言います。
※ただし、トマトにもトマチンという微毒が含まれており、特に熟する前の青いトマトには比較的多くのトマチンが含まれる。それでも人間に死をもたらすには、人間が食べられないほど大量のトマトを摂取する必要がある。
18世紀頃から食用として使われ始めたトマト
しかし、 観賞用として栽培されていたトマトを、食用として試みる人々がヨーロッパに現れ始めます。
この人々とは、食料を手に入れるのに苦労していた貧困層で、彼らの試みから始まった試行錯誤は、その後200年ほどの時間をかけて、現在ほど甘みがなくて美味しくなかったトマトを、ゆっくりと現在のトマトに近づけていったのです。
そして17世紀末には、フランス、オランダ、ドイツなどで、食用種のトマトが改良され、18世紀になるとイタリアで「食材」として注目されるようになります。
これが契機となり、トマトはヨーロッパ各地で広く食材として広まり、19世紀には当たり前のように食べられるようになりました。
その後、19世紀中にはヨーロッパ人と、カリブ海経由で連れてこられた黒人奴隷によって、ゆっくりとトマトを食べる習慣が北アメリカへ浸透していきました。
また、アメリカの歴史上最も影響力のあった一人で、「アメリカ建国の父」として知られるトーマス・ジェファーソンも、自らの農園でトマトを栽培し、積極的に食べ物として宣伝したことから、食用としてのトマトの普及へ大いに貢献したと言われます。
ネパールではヨーロッパより早くトマトが食用とされていたという話も存在する
ちなみに、原産地である南アメリカのアンデス山脈地域以外では、ヨーロッパがトマトを食用とした最初の地であるかのように思われますが、実は、
- 16世紀半ばには、ネパールの料理本にトマトについての言及がなされていた
という話もあります。
これが本当なら、一般的にはイタリアを中心に発展してきたため、イタリア料理の典型的な食材と思われているトマトが、実は、地球の反対側の全く異なる大陸でも食材として発展していたこととなり、非常に興味深い歴史のロマンを感じます。
日本へトマトがやってきた起源とは?
トマトが日本へやってきたのは、当時の江戸時代に貿易相手として交流があったオランダを経由してだと考えられています。
その時期は17世紀後半から18世紀始め頃で、最初はヨーロッパと同じように観賞用として輸入されました。
その後、ヨーロッパで広く食用としてトマトが普及した結果、明治期には食用に改良されたトマトが持ち込まれますが、トマトの臭いや色に慣れていなかった当時の日本人の間では普及せず、あくまでも日本に滞在する一部の外国人用の食べ物として栽培されていました。
しかし、大正時代から徐々にソースやケチャップのような形で庶民の舌がトマトの味に慣れていき、第二次世界大戦が終わって以降は、食糧難や食生活の欧米化などの影響から、トマトが一般的な食卓へ一気に普及していったのです。
歴史の中でトマトはなぜフルーツではなくて野菜とされたのか?
トマトはよく、「野菜なのか果実(フルーツ)なのか?」でよく議論されます。
特に果実(フルーツ)とは、
草木の果実の食用となるもの
と定義されることからも、草木の果実でありながら野菜としているトマトについて疑問が投げかけられることがあります。
実は、トマトが野菜として流通することになった点にも、歴史的な背景があるのです。
特に、その歴史的な由来となった最大の理由は、「アメリカ合衆国最高裁判所と貪欲なアメリカ政府にあった」といえるかもしれません。
1887年、アメリカの関税に関する法律によって、野菜に対して10%の関税が課されることになりましたが、この時、果実(フルーツ)は例外とされました。
そこで、税金が掛からないようにと、トマト輸入業者のジョン・ニックスは、ニューヨーク港の収税官エドワード・L・ヘデンに対して訴えを起こし、
- トマトは「正真正銘の」果実であるのだから、関税の対象外とされるべきである
と主張しました。
植物学的な見解からすると、この問題に議論の余地はないでしょう。
トマトは、花が熟して丸みを帯びた種のある果実です。
しかし、学術的な知見に対し、巷の一般常識と農務省の役人の圧力が勝利した形で、1893年に最高裁判所は、
- トマトは野菜であり、それ故、関税の課税対象となる
との判決を下したのです。
当時の裁判官を務めていたグレイは、
植物学的な観点からすれば、トマトは、つる植物の果実であり、キュウリ、カボチャ、豆、エンドウなどと同じだ。しかし、一般的な概念では、こうした果実はどれも野菜とされている。加熱調理しようが生のまま食べようが、たいていディナーの席で登場し、スープや魚料理、肉料理の付け合わせとして、あるいはその後に提供されるもので、正式に食事の一部分を構成するものであり、一般的にデザートとして提供されるフルーツとは異なる。
と述べています。
この時の判決によって、その後、トマトは野菜として流通するようになったというのが歴史の裏側で、今日でも「トマトは野菜である」として扱われる由来だと言えるでしょう。
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トマトの歴史|起源や発祥地から野菜に分類された由来までのまとめ
現在でこそ世界中で当たり前のように食べられるトマトは、当初、猛毒の植物であくまでも観賞用とされていました。
しかし、一部の人々の試行錯誤によって、食用としての立場が確率され、現代では欠かせない食材の一つとなっています。
これからトマトを食べる際には、このような歴史の裏側を思い出してみると楽しみが増えるかもしれません。