ローマ帝国の分裂と崩壊、そして西ローマ帝国滅亡の裏側には何があったのか?その背景や理由について探求していきたいと思います。
人類の歴史上にはかつて、非常に広範囲の領土を有した古代ローマ帝国(以下ローマ帝国)と呼ばれる帝政の巨大国家が存在していました。
その領土はイタリア半島を中心に、西は大西洋岸から東は中東のユーフラテス川、そして北はイングランドから南は北アフリカ沿岸まで広がっていました。
しかし、このローマ帝国はある時を境にして西と東へ分裂。
やがて、ローマ帝国の中心地であったローマを有する西ローマ帝国は滅亡し、残ったのはローマを有さない東ローマ帝国だけとなりました。
この出来事はそれぞれ、ローマ帝国の分裂やローマ帝国の崩壊と呼ばれます。
この記事では、このローマ帝国の分裂(崩壊)が「いつなぜ起こったのか?」について、その背景や理由として考えられるポイントを含めて見ていきます。
ローマ帝国の分裂(崩壊)はいつ起こったのか?
ローマ帝国の分裂の時期
4世紀に生きた古代ローマ帝国の皇帝「テオドシウス1世」が395年に亡くなる直前、彼は二人の息子にローマを西と東に分けて統治するよう求めました。
(出典:wikipedia)
この分割統治案は当初、決してローマ帝国を完全に二つに分けるというものではありませんでした。
しかし、長男アルカディウスに分け与えられたローマ帝国東部と、次男ホノリウスに分け与えられたローマ帝国西部は、経済的な差などが生まれた結果、その後は別々の道を辿っていき、
- 東ローマ帝国(ビザンチン帝国)
- 小アジアからバルカン半島、そして北アフリカ東部までの領土を持つ
- 首都はコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)
- 西ローマ帝国
- イタリア半島とその周辺を領土に持つ
- 首都はラヴェンナ
と呼ばれるまでになりました。
この様な経緯があるため、ローマ帝国の分裂時期は「西暦395年」と言えるでしょう。
ただし史料などによると、それでも当時の東西ローマ帝国の人々は、別々の国家に分裂したという意識をあまり持ち合わせていなかったようで、東ローマ帝国と西ローマ帝国という呼び名または区分は、あくまでも便宜的に今日採用されているものとなります。
西ローマ帝国の滅亡
東西に分裂する以前から、ローマ帝国はゲルマン人による侵攻に度々脅かされていました。
そして、ゲルマン人による侵攻はローマ帝国が分裂してからも続き、これによって西ローマ帝国の力は衰えていきました。
そんな中、西ローマ帝国において傭兵隊長として働いていたゲルマン系の「オドアケル」が、
もはや西ローマ帝国に皇帝は必要ではない
として476年にクーデターを起こします。
オドアケルは、ローマ帝国の西側部分を統治したローマ帝国最後の皇帝「ロムルス・アウグストゥルス」を退位させると同時に、西ローマにおける皇帝位も廃止。
皇帝を頂点に置く帝政ではなくなった結果、西暦476年に帝政西ローマ(西ローマ帝国)は滅亡したのです。
ただし、帝政が廃止されただけで他の制度などはしばらく残っていましたが、西暦486年にはフランク王国の支配下となり、やがて9世紀頃になると、かつての西ローマ帝国の一部は、西ローマ帝国の継承国家を称した「神聖ローマ帝国」となっていきました。
ローマ帝国の分裂(崩壊)が起きてしまった理由とは?
歴史上で起きたほぼ全ての重大事件が、ある一つの要因だけで起こったわけではないように、ローマの分裂(崩壊)が起こった背景も複雑なものでした。
さらに、東西が分裂して別々の道を歩む様になっていった過程にもまた、いくつかの理由があると言えるでしょう。
ここからは、西ローマ帝国が分裂した背景、そして、その分裂がより鮮明になっていってしまった理由をポイントに分けて見ていきたいと思います。
ローマ帝国の分裂(崩壊)に繋がった背景
奴隷労力への過度の依存と経済不安
ローマ帝国は歴史の中で、ゲルマン人を中心として外部からの攻撃を受けて続けていたわけですが、実は深刻な経済危機によって内部からも崩れ始めていました。
終わりのない戦争と浪費によって帝国の国庫は枯渇し、インフレと高圧的な徴税のために貧富の差が拡大。
徴税を避けるために多くの富裕層は都市を離れ、田舎で独立した生活を営むようになりました。
さらに同時期、ローマ帝国は労働力不足にも苦しめられます。
ローマの経済は農業、工芸、軍事のすべての分野において奴隷労力に依存していました。
特に、軍事分野では「ローマに占領された人々がローマ軍として戦うことを強制される」といったことが当たり前だったのです。
しかし2世紀に帝国の拡大がピークを過ぎたころから奴隷の供給が不足し、また国庫は枯渇し始めました。
このような経済不安が一つの要因となり、巨大な帝国をより効率的に統治するために行き着いたのが分割統治だったと言えるのではないでしょうか。
領土の膨張と軍事費の拡大
ローマ帝国が絶頂を迎えていた時、その領土は大西洋岸から中東のユーフラテス川まで広がる広大なものでした。
しかし、ここまで大きくなりすぎたのも帝国の崩壊を招いた一因かもしれません。
これほど広大な領土を統治するのは、法的にも政治的にも非常に難しいものです。
ローマは非常に高度な道路ネットワークを築きましたが、それでも領土を上手く統治するためには、コミュニケーションのスピードが不足していました。
現地の反乱や外部からの攻撃に対して迅速に兵を送ることができず、2世紀にハドリアヌス帝はブリテン島に有名な「ハドリアヌスの長城」を築いたほどです。
このように帝国維持のために非常に多くの軍事費が使われ続けた結果、ローマの技術の発展は停滞し、公共インフラが機能不全に陥ってしまいます。
そして、その解決方法の一つとして考えられたのがローマ帝国の分割統治でした。
政治の腐敗と不安定
帝国の領土が大きすぎたことに加えて、非効率的で一貫性のない政策によって、ローマの統治はますます難しいものとなっていました。
ローマ皇帝というのは国が繁栄していた時でも決して安泰な立場ではありませんでしたが、特に混乱が続いた2~3世紀においては、75年の間に20人以上もの皇帝が即位するなど、皇帝になったら非業の死を迎えることはほぼ確実なほどで、そのほとんどが後継者によって暗殺されたのです。
また、このような政治不安は元老院にも及び、ローマ市民は政府に対しての信頼を失っている状態でした。
そのため、領土を分けてより目の行き届いた分割統治形態を採用することは、政治不安を取り除いて社会を安定させるための一つの解決策として考えられたのではないでしょうか。
かつて敷いた分割統治が参考にされた
ここまで見てきた3つの背景に加えて、「ローマ帝国の前身である共和制ローマも含めると古代ローマでは度々、分割統治が行われていた」ことも、ローマ帝国の分裂を後押ししたと言えるでしょう。
この分割統治は広大な領土を支配するために帝国領をいくつかに分けて、それぞれを別々な人物に分担させて支配するというもので、古代ローマの歴史の中では何人もの皇帝が帝国を分割統治してきました。
そのため、395年にテオドシウス1世が二人の息子へ東西を分けて分担させることを決めた時点では、まさかその後、帝国がその後別々の道を歩んでいくとは考えていなかったのだと思われます。
ローマ帝国の分裂がより鮮明になっていった理由
ローマ帝国の分裂が引き起こされた背景を見てきましたが、ここからは、分裂後に東西ローマそれぞれが、明暗を分けていった理由を見ていきたいと思います。
東ローマ帝国の興隆
西暦395年にローマ帝国の分裂がなされた後、この政策によって一時はローア帝国東西の統治は楽になりました。
しかし、時が経つにつれて二つの帝国は少しずつ離れていきます。
東西に広く広がっていた領地を分けたとあって、外部からの脅威に対して両者は協力して立ち向かうことができず、また、資源や軍事援助を巡ってお互いに対立することがしばしば起こり始めました。
さらに、ラテン語を話す西ローマ帝国が経済不振に陥っていたのに対し、ギリシャ語圏の東ローマ帝国は貿易を拡大し富を蓄えていきました。
このような両者の距離感は時と共に広がっていき、これがローマ分裂を決定的なものとしていきました。
そして、東ローマが非常に強力な国家となったために蛮族は東ローマを避け、弱り切っていた西ローマを攻撃していくようになります。
東ローマのコンスタンティヌス大帝は首都コンスタンティノープルの防御をしっかりと固めたのに対して、西ローマの中心都市ローマは隙だらけだったのです。
キリスト教の広がりと伝統的価値観の喪失
ローマ分裂が起こる少し前、ローマ帝国が衰退していた時期に、帝国内ではキリスト教が広がりを見せました。
そして、313年のミラノ勅令によってキリスト教が認められ、380年にキリスト教はローマ帝国の国教として採用されます。
これによって何十年も続いたキリスト教徒への迫害は終わりましたが、同時にローマの伝統的な価値観も崩れていくことになりました。
具体的には、キリスト教によって以下のような価値観の変化が起こりました。
- 皇帝を神格化する多神教のローマの伝統信仰は衰えた
- 国民の意識は国の栄華から唯一神に対する崇拝へと移っていった
このように、一つのローマ帝国としてまとまる上で重要な価値観が失われていった結果、ローマ帝国が分裂した後、人々は西と東で強く結びつく連帯感を保てなかったのではないかと考えられ、これもまた、東西の距離が広がってしまった理由だと言えます。
蛮族の侵略によって西側が衰退した結果生まれた東西の格差
上でも触れたとおり、ローマ帝国は歴史の中で幾度もゲルマン人による侵攻に耐えてきたわけですが、東西に分かれた後には特に西ローマ帝国がその標的となりました。
その結果、西暦410年には、ゲルマン系の西ゴート族の王アラリック1世によって、首都ローマが3日間に渡って略奪にあいます。
そして度重なる侵攻の結果、西ローマ帝国の経済は疲弊し、社会不安は高まり、富を蓄えて繁栄を始めていった東ローマ帝国とは大きな格差が広がってしまったのです。
ローマ部隊の弱体化によって採用された外国人たち
ローマ軍は長いこと古代世界の羨望の的でしたが、東西に分裂する少し前の衰退期になると、その栄光は急速に弱まるようになります。
市民の中から十分は兵を集めることができなかったため、ディオクレティアヌス帝やコンスタンティヌス帝は外国人の傭兵を雇うようになっていたのです。
すると短期間のうちにローマ軍のほとんどがゲルマン系のゴート族や他の蛮族で構成されるようになり、もともと「野蛮人」を意味した「バルバルス(barbarus)」という言葉が「兵士」を意味するようになったほどでした。
ゲルマン系の兵士は非常に強力ではありましたが、帝国に対する忠誠心はほとんど持っておらず、権力に餓えた高官がローマを裏切ることは日常茶飯事でした。
その結果、ローマ帝国が東西に分裂した後に西ローマ帝国が衰弱していくと、それを機会と見たゲルマン系の指導者オドアケルが476年に反乱を起こして皇帝ロムルス・アウグストゥルスを追放。
ローマ帝国の分裂から1000年近く栄えることとなった東ローマ帝国とは対照的に、西ローマ帝国は滅亡に至ったのです。
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ローマ帝国の分裂と崩壊から西ローマ帝国滅亡の裏側のまとめ
ローマ帝国の分裂と崩壊に繋がった理由から、両者がそれぞれ別々の運命を辿ることになった要因までを見てきました。
ローマ帝国の分裂後、東ローマ帝国はおよそ1000年に渡り存続していきましたが、最終的には15世紀、オスマン帝国によって滅ぼされ、ローマ帝国と直接的な関係を持たない神聖ローマ帝国をローマ帝国の後継国家でないと考えた場合、事実上、1453年にローマ帝国は完全に滅亡しました。