フィデル・カストロの生涯と人生について見ていきましょう。死亡後でさもキューバ革命の英雄として、チェ・ゲバラと並び記憶される人物です。
カリブ海に浮かぶ社会主義共和制国家のキューバ共和国では、キューバ革命と呼ばれるアメリカの影響からキューバを解放することを目的とした歴史的な革命が、1953年から1959年の間に起こりました。
このキューバ革命を主導し、キューバ革命の父と呼ばれるのがフィデル・カストロという人物で、キューバ革命が成功して以降は、50年近くに渡ってキューバ最高指導者の座に居続け、実質的にキューバを統治しました。
ただ、フィデル・カストロは社会主義を信奉した人物であったことから、西側諸国からは共産主義の独裁者で暴君のように語られたこともあります。
このように、立場の違う人によって異なる見方がなされる人物で、ある人にとってカストロは無慈悲な独裁者であり共産主義の暴君ですが、別な人にとっては解放者であり固い信念を持って平等主義を推し進めた人物として映るのです。
この記事では、そんなフィデル・カストロについて知るために、彼の生涯と人生に関するダイジェストと、5つの興味深い話を紹介していきます。
まずは、フィデル・カストロのプロフィールを簡単におさらいすることから始めていきましょう。
フィデル・カストロとは?
フィデル・カストロ(1926〜2016年)、全名フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルスは、キューバの首相(1959~1976年)と大統領(1976~2008年)、そしてキューバ共産党中央委員会第一書記(1965〜2011年)を務めたキューバの元最高指導者であり政治家。
また、1950年代から1989年まで続いた冷戦(資本主義国アメリカと共産主義国ソビエト連邦が展開したイデオロギー戦争)においては、世界的に革命家としても有名でした。
冷戦においては、アメリカとソ連が直接交戦することはありませんでしたが、キューバのような小国では、資本主義政府と社会主義政府が激しく対立。
カストロ自身は社会主義(マルクス・レーニン主義者)であったことから、反帝国主義や労働者階級の賞賛、そして生産を管理する強力な中央政府の存在を強く信じ、その政治目的を達成するために、もう一人のキューバ出身で有名な革命家「チェ・ゲバラ」を仲間に引き入れて、革命を推し進めていきました。
マルクス主義の指導者であったカストロはゲバラと共に、資本主義政府の打倒を目指す革命「キューバ革命」を指揮し、当時のアメリカ合衆国の事実上の傀儡政権であったフルヘンシオ・バティスタ政権を倒し、共産主義政権の樹立に成功。
キューバを社会主義国に変え、また同時に同国の最高指導者として大きな影響力を持つこととなりました。
そんなフィデル・カストロはまた、立派なひげを生やした顔で、今日でも世界中で有名です。
フィデル・カストロの生涯と人生
法律家を目指した青年期
フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルスはキューバのマヤリ近郊のビランにて1926年、スペインからの移民で裕福な農園経営者であったアンヘル・カストロ・イ・アルヒスの婚外子として生まれました。
そんなフィデル・カストロは家庭環境から恵まれた幼少期を送り、1945年にハバナ大学の法学部に入学。
当時は法律家を目指して勉強していましたが、同時に、この頃から少しずつ反帝国主義運動(注1)に参加するようになっていきました。
(出典:wikipedia)
1947年、カストロは公式にキューバ人民社会党に入党し、革命のアイディアに傾倒。
同年、ドミニカ共和国における革命にも参加しましたが、これは失敗に終わりました。
(注釈1)帝国主義とは、アメリカやイギリスのような強国がキューバのような小国を植民地として支配したり、経済的にコントロールしているという概念で、反帝国主義運動とは、その帝国主義に対して反発する運動や活動のこと。
弁護士になったものの理想との目標達成への物足りなさを痛感する
1950年に大学を卒業すると、カストロは弁護士となり、貧困に苦しむ人のための診療所を開設するなどの慈善活動を積極的に行います。
当時のキューバでは、キューバ国民が貧困に苦しむ一方で、裕福なアメリカ人を対象としたカジノが次々と建設されるなど、深刻な格差が存在していました。
このような現実に疑問を抱いたカストロは、アメリカ流の資本主義に抗議するようになります。
1952年、アメリカ寄りのフルヘンシオ・バティスタ大統領が、キューバにおける社会主義者の取り締まりを強化。
カストロは大統領を相手取って憲法裁判所に訴えますが、退けられてしまいます。
こうしたこともあり、落胆する一方でカストロは、キューバに「変革」をもたらすには「他の手段を使わなければならない」と確信していくのです。
キューバに革命を!
1952年、カストロはバティスタ政権に対抗する地下組織を結成します。
そして1953年7月26日、160名の仲間と共にバティスタ軍のモンカダ兵営を襲撃。
しかし失敗に終わり、襲撃に参加した人の多くが逮捕・処刑されました。
(出典:wikipedia)
この時、カストロ自身も投獄されますが、獄中で「7月26日運動」と呼ばれる革命運動組織を結成。
さらに革命理論を説く学校を設立するなどして、ますます革命運動に力を入れるようになりました。
また、釈放された後もバティスタ政権への反抗を続け、必要な時には暴力を使うこともいとわない姿勢を見せます。
一方でバティスタは不正な選挙によって再選を果たし、社会主義者や政府に反対するものを次々に逮捕するようになりました。
そのため、カストロと弟のラウルはメキシコに逃亡。
そしてそこで初めて、アルゼンチン出身の革命家エルネスト・チェ・ゲバラに出会います。
二人はその後、メキシコで支持者を集めて1956年11月、「グランマ号」と呼ばれる小さなヨットに総勢82人で乗り込んでキューバに向かいました。
チェ・ゲバラと共に武装闘争開始
12月2日、グランマ号はキューバに上陸。
カストロやゲバラを中心とした他の革命家たちは山間部に身を潜めました。
そして翌年の1957年1月には、ラ・プラタの軍事基地を占領。
そこで農民たちが嫌悪していた農園の監視人を殺害した結果、その地域の貧しい農民達と強い絆を築くことになります。
以後、カストロがハバナに向けて更新する際、キューバの農民たちは進んでカストロらをかくまったり、食糧や武器を提供したりするようになるのです。
また同じ年、カストロらはキューバ政府と人民に向けた「シエラ・マエストラ・マニフェスト」を発表し、新しい政府、農地改革、工業化、そして多党制を要求しました。
ちなみに、山間部に潜伏していた間、カストロらは「長いあごひげ」を生やすようになり、このひげは、革命に参加する意図があることを表明する暗号のようなものとなりました。
またこの頃にカストロは、目的を正当化するために世界のメディアに向けて発信を繰り返し、ニューヨーク・タイムズのインタビューを受けたこともありました。
バティスタ政権の打倒
カストロが指導する革命派は、全面的な武装対決よりも急襲や待ち伏せ、迅速な撤退などを繰り返すゲリラ戦を展開。
1958年になると、革命派はシエラ・マエストラ山脈とその近郊の町からキューバ政府を完全に追い出し、独自に病院や学校、印刷所、そして葉巻工場を運営するようになっていました。
このような勢力変化の下でバティスタ大統領は、崩れつつある経済のなかキューバ国民の支持をほとんど失い、またアメリカもバティスタ政権に対する軍事的援助を停止してしまいます。
大統領は全軍を送り込んでカストロに対抗しようとしますが、政府側のキューバ軍はゲリラ戦に慣れていないだけでなく、兵士の多くがカストロ側に寝返りました。
その結果、1958年12月、バティスタ政権によるキューバ政府は敗北。
バティスタはアメリカに亡命し、その後すぐにカストロがハバナ入りを果たしたのです。
そして、1959年2月にカストロはキューバの首相に就任し、社会主義政権を打ち立て、アメリカの侵略を受けることを恐れたカストロは、ソ連との関係強化を始めていきました。
キューバと冷戦
キューバはその後、当時の世界で起こっていた西側の資本主義・自由主義国と、東側の共産主義・社会主義国との対立構造「冷戦」に急速に組み込まれていくこととなりました。
ピッグス湾事件
1961年4月、アメリカは在米亡命キューバ人部隊をCIAの支援の下でキューバに送り込みました。
この攻撃は部隊が上陸しようとした湾の名前を取って「ピッグス湾事件」と呼ばれています。
しかし、アメリカは援軍を送りこみますが、この作戦に失敗します(この失敗は今日でもアメリカ軍にとっては恥ずかしい出来事と言われる)。
さらなるソ連との関係強化とキューバ危機
ピッグス湾事件の後、カストロはさらなるソ連との関係へ邁進していきます。
この一連の流れの中で、ソ連の書記長のニキータ・フルシチョフは、アメリカがトルコに原子力を配置したのに対し、キューバにミサイルを配置することで対抗しようと提案。
カストロはこの意見に反対的でしたが、最終的には冷戦において国民の命を守ることを最優先するために承諾したのです。
その結果、アメリカはキューバがミサイルを受け取れば、それは戦争の始まりを意味すると脅し、その後の数日間、世界中が緊張に包まれました。
結局はソ連がミサイルを引き換えしたため事なきを得ましたが、実際、世界は核戦争の一歩手前にまで来ていたのです。
そしてこの事件はその後、キューバ危機(1962年)と呼ばれて世界史に刻まれることとなりました。
最終的には経済危機を招いてしまった
一方で、その後の協議については、ソ連とアメリカの間でのみ行われ、キューバは参加を許されませんでした。
このようにキューバがはぶられる状況になったことでフィデル・カストロは、自分は結局大国の駒として使われているに過ぎないことを悟ります。
そして1962年、キューバの経済を崩壊させることを目的にアメリカは、キューバに対して禁輸措置を取ったため、カストロ率いるキューバはますますソ連を頼らざる得なくなりました。
そのため、1991年にソ連が崩壊すると、キューバは経済危機に陥ってしまったのです。
指導者としての晩年は資本主義諸国との関係改善に務めたカストロ
その後、カストロは改革の必要性を実感し、これまでの姿勢を変え、資本主義国との関係改善に努めていくようになりました。
しかし、2008年になるとカストロは、健康状態の悪化を理由に退任。
弟のラウル・カストロが後任者として大統領に選出されます。
さらに、2011年にはキューバ共産党中央委員会第一書記の座も明け渡し、キューバの政界からは完全に退くこととなりました。
そして、2016年11月25日にフィデル・カストロはついに死亡。
享年90歳でこの世を去ったのです。
フィデル・カストロについての興味深い5つの話
革命直後はアメリカで英雄扱いされていた
アメリカの政治家やマスメディアから中傷されるようになる前のフィデル・カストロは、バティスタ独裁政権を打倒したヒーローとして褒め称えられていたこともありました。
キューバ革命が成功した直後、当時のアメリカで最も人気があったバラエティ番組の司会者エド・サリヴァンは、実際にキューバへ飛んでカストロのインタビューを録画し、その中でサリヴァンはカストロのことを「いい若者だ」と褒め称えていました。
また、他の番組も同様に、司会者であったジャック・パールをハバナに送り込み、カストロへのインタビューを行っています。
そして、1959年4月19日に会見が開かれた際にアメリカの記者たちは、キューバにおける弁護士(法律学博士)への敬称を使って「ドクター・カストロ」と呼んでいました。
革命直後の時点ではまだ、カストロはマルクス主義者であることを明確に宣言していなかったため、アメリカの人々はカストロを英雄のように扱っていたのです。
スポーツに秀でたフィデル・カストロ
フィデル・カストロは強肩のピッチャーで、米国のメジャーリーグのスカウトからも注目されたことがあるという逸話が残っています。
また、当時のアメリカに存在していた野球チーム「ワシントン・セネタース」のスカウントマン「ジョー・カンブリア」がカストロをピッチャーとして誘ったものの、契約するまでには至らなかったという話もあります。
他にもカストロは、高校生のときにアスリートとして優秀な成績を残し、1943〜44年のハバナ市の優秀な学生スポーツマンとして表彰されました。
野球以外にも陸上競技(高飛びと中距離走)、バスケットボール、そして卓球に秀でていたと言われます。
もしもカストロが、あともう少しだけいずれかのスポーツに打ち込み、潜在的な能力を開花させていたら、キューバ革命という歴史的出来事は起こらなかったかもしれません。
文人であったフィデル・カストロ
読書家で文学好きのカストロは、ノーベル賞受賞作家たちと交流がありました。
そして、ゲリラ戦の戦法については、米国人作家アーネスト・ヘミングウェイによるスペイン内戦(1936〜1939年)を舞台にした小説『誰がために鐘は鳴る』から着想を得たと述べたことがあります。
ちなみに、ヘミングウェイはキューバに家を持っていたことで有名でしたが、カストロとヘミングウェイが一緒に写っている写真が広く出回ったこともあります。
(カストロのガルシア=マルケス)
また、カストロは他の作家とも交流があったようで、例えば、コロンビアの作家ガブリエル・ガルシア=マルケスとはとても親しくしていたと言われます。
特に、このガルシア=マルケスとカストロの友情は、ガルシア=マルケスの作品『百年の孤独』に対してカストロが払った敬意から生まれたもので、ガルシア=マルケスもカストロについて「繊細で優れた文学的感性を持つ」と評し、両者の友情は長く続きました。
「あごひげ」はとても役立った
フィデル・カストロは長いあごひげで有名で、キューバ革命の際、「革命に参加する意図があることを表明する暗号のようなもの」であったことは既に触れましたが、他にも以下のような点でカストロにとっては大切だったようです。
- 革命参加者にとっては名誉の勲章なようなものとなり士気を高めることに繋がった
- 山中で革命運動を行なっていたために髭を剃る時間がなかったことが、参加者が皆、長いあごひげを蓄えることにつながった
- あごひげはスパイを見破るためにも使われた
- 革命成功のシンボルとなって求心力を保つ上でも役立った
- 革命成功後もカストロはあごひげを生やし続け、これは「偉大なカストロ」を象徴するシンボルとなった
- 実際にアメリカはカストロを象徴するあごひげをなくさせる極秘の計画を練っていたとも言われる
「葉巻」も自己イメージに結びつけて役立てた
あごひげと同じように「葉巻」もカストロを連想させるものとしてよく挙げられます。
実際、何十年もの間、カストロが葉巻をくわえている姿は、あごひげと同じぐらいカストロのイメージとして定着していました。
そして、そこへゲリラ時代からの作業服を加え、自己ブランディングへ上手に採用することで、人々が「革命を成功させたカストロ」という記憶を忘れてしまうのを防ぎ、国民からの指示を維持することに役立てたのです。
ただし、15歳から葉巻を吸ってきたカストロは、国を挙げての健康キャンペーンを支援するために59歳で葉巻をやめています。
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フィデル・カストロの生涯と人生|死亡後もキューバ革命の英雄として記憶される人物のまとめ
キューバ革命の父であり、その後のキューバの最高指導者として国を率いてきたフィデル・カストロの生涯と人生について見てきました。
カストロに対する意見は今でも人々の間で大きく二つに分かれます。
一方では人道主義的な革命のヒーローと捉えられるのに対して、もう一方ではキューバ経済の崩壊を招いた暴力的な共産主義の独裁者であると描かれるのです。
いずれにせよ、弁護士としてスタートしたカストロは、反帝国主義運動に触発されてキューバ革命を成功させたのは事実であり、この革命におけるカストロは、現在でも大国が絶えず小国を操ろうとする世界で、真にキューバの人々のために戦った革命家として記憶されています。