チェゲバラとは?キューバ革命の英雄の生涯や最後・カストロとの関係

チェ・ゲバラはキューバ革命の英雄として知られる人物です。彼の生涯や最後、そしてフィデル・カストロとの関係などを詳しく見ていきましょう。

キューバ革命の英雄「チェ・ゲバラ」については、具体的に何をした人物なのかは知らなくても、Tシャツや建物の壁に描かれた似顔絵から、その名前を知っているという人は多いかと思います。

しかしチェ・ゲバラは、有名な似顔絵以上に、20世紀の世界へ大きな変化をもたらした人物でした。

キューバ革命におけるもう一人の英雄「フィデル・カストロ」と一緒に、チェ・ゲバラは革命を成功させ、その死後も権力や帝国主義に対する象徴として、多くの人や社会にインスピレーションを与えてきたのです。

この記事では、そのチェ・ゲバラについて詳しく見ていこうと思います。

まずは、チェ・ゲバラの人物像全体を把握し、その後に生涯をダイジェストで見ていき、最後にその他9つのポイントを紹介していきます。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

チェ・ゲバラとは?

エルネスト・ゲバラ(Ernesto Guevara, 1928〜1967年)、通称「チェ・ゲバラ」は、キューバ革命(1956〜1959年)で重要な役割を果たしたアルゼンチン生まれの政治家で革命家

フィデル・カストロと出会い、カストロと協力してキューバ革命を成功させました。

キューバ革命後は一時期、キューバにおいて政治家として活動するも、「ゲリラ戦争による世界革命」を目指して1965年にキューバを離れ、アフリカ各地を歴訪。

コンゴにおいて政府軍の指導役として、コンゴ動乱後の混乱期に参加します。

しかし、1966年にコンゴを離れてキューバへ帰国し、その後に渡ったボリビアで、ゲリラ戦を展開していた1967年に殺害されてしまいました。

一方で、ボリビア軍によって処刑されて以来、何十年にも渡り、チェ・ゲバラは世界中の左派(急進派)から志半ばに倒れた英雄として崇められ、彼のイメージは依然として、反帝国主義や反権力の象徴であり続けているのです。

ちなみに、「チェ・ゲバラ」の「チェ」の由来は、アルゼンチンやウルグアイのスペイン語において、親しみを込めて呼びかける際に使う「che」という言葉。

ゲバラが初めて会った人へ、「チェ、エルネスト・ゲバラ(やあ、エルネスト・ゲバラです)」と挨拶していたことから、キューバの現地人達があだ名として「チェ・ゲバラ」と呼ぶようになったのが理由とされます。

チェ・ゲバラの生涯と歴史ダイジェスト

チェ・ゲバラの生い立ち

その後に革命家として世界の歴史に名を刻む「エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ・リンチ(Ernesto Guevara De La Serna Lynch)」は、1928年6月14日にアルゼンチン第二の都市ロサリオに生まれました。

(出典:wikipedia

ブエノスアイレス大学で医学を学んだ後、ゲバラはまず、祖国アルゼンチンで政治活動を始め、その後、隣国のボリビアやグアテマラへと活動拠点を移動。

そして1955年、滞在先のメキシコで、キューバの革命家「フィデル・カストロ」と、その弟「ラウル・カストロ」に出会うのです。

チェ・ゲバラのその後に大きな影響を与えた思想

ちなみに、裕福な中産階級の家庭に生まれたゲバラは、若い頃に、自宅の書斎に両親が揃えていた書籍を通じて、左翼理論と出合います。

また、医者の仕事をしながらマルクス主義についた学んだゲバラは、南米を周る中で南米各国にあふれていた貧困に遭遇。

この経験はチェゲバラの思想を、マルクスの社会主義思想寄りへ深く形作っていくことになり、彼は後にこの思想を、キューバやその他の国での革命活動に転換していくことになります。

キューバ革命への参加と成功

カストロに出会ったゲバラは、フィデル・カストロが目指すキューバのフルヘンシオ・パティスタ政権妥当に協力することを決意。

反バティスタ武装ゲリラ闘争の一員となり、ここに革命家としてのゲバラが誕生したのです。

1956年からはカストロの軍事アドバイザーとして従事し、ゲリラ部隊を率いてバティスタ軍との戦いを初めていきます。

そして1958年12月29日には、300人のゲリラ軍を率いてキューバ第二の都市サンタ・クララへ突入すると、現地市民の協力もあり6000人に上る政府軍を混乱させて制圧

1959年1月1日にバティスタがドミニカへ亡命した結果、同年1月8日にカストロがハバナへ入り、ここにチェ・ゲバラ達によるキューバ革命は成功したのです。

キューバ革命以降に様々な要職に就いたゲバラ

フィデル・カストロとチェゲバラは政権を奪い、ゲバラは革命成功の功績が認められてキューバの市民権を得た後、1959年、カバーニャ要塞刑務所の責任者となりました。

その任期中にゲバラは、司法手続きを踏まずに処刑の命を下し、156人から550人の人々を処刑したと推定されています(これによって、英雄としてだけでなく無慈悲な人物としてもその名を残している)

さらに同年、ゲバラはキューバ新政府の国立銀行総裁となって、キューバの貿易相手国をアメリカからソビエト連邦へ転換することに関わり、また、1961年にはキューバの工業大臣に就任しました。

キューバを離れて世界を周り、ボリビアで最後を迎えたチェゲバラ

1965年、国際的な革命闘争に参加してキューバ革命の信念を世界に広めるため、ゲバラは要職の地位を捨ててキューバを離れ、まずはアフリカへ渡り、1966年にはコンゴ共和国で続いていたコンゴ動乱(ベルギー領コンゴがコンゴ共和国として独立した直後に勃発した反乱から始まる混乱後の混乱)期に革命を主導しようとします。

(※)チェゲバラがキューバを離れた理由には他にも、カストロとの関係が悪化したことや、当時、工業大臣としてキューバでの工業化に失敗し、キューバ首脳陣の中で孤立を深めていたという点も挙げられます。

コンゴでの革命の試みは、現地のコンゴ兵士達の士気が低かったこともあり、ほとんど上手くいきませんでした。

さらに、コンゴで喘息に苦しめれるなど、幾つかの不運が重なったため、失意のままゲバラは秘密裏にキューバへ帰国したのです。

カストロとの関係を修復したゲバラは、南米における革命の拠点を作るために、カストロによって1966年にボリビアへ派遣されます。

そして、チェ・ゲバラはゲリラ部隊を組織するなど、反政府活動を展開するものの、思ったようにうまく行かず、政府軍との1年近い闘争の後、ついに1967年10月8日、ボリビアのイゲラ村近くで捕まり、翌日の10月9日に銃殺刑により処刑されたのです。

チェ・ゲバラの生涯に関する興味深い9つの話

チェゲバラの生涯をダイジェストで追ってきましたが、ここからは、その生涯に関して他にも興味深い9つの話を紹介していこうと思います。

「反逆者」アイルランド人の血を引いていた

チェ・ゲバラの10代前の祖先であるパトリック・リンチは、1700年代にアイルランドから現在のアルゼンチンに移住してきた移民でした。

そのため、チェ・ゲバラはアイルランド系の南米人ということになります。

そして、このアイルランドの血筋」はたまに、革命家チェ・ゲバラが誕生した理由として挙げられることがあるのです。

1916年、当時のアイルランドはイギリスの支配下にあったため、この支配を終わらせようと多くのアイルランド人達が「イースター蜂起(1916年)」を起こし、これにより、アイルランド人達はイギリスから「反逆者」と呼ばれました。

実際、チェ・ゲバラの父親はこう語ったそうです。

特筆すべきことは、息子にはアイルランドの反逆者の血が詰まっていることだ

実はラグビー好き!?

チェ・ゲバラの両親は、サン・イシドロ・ラグビークラブというチームの会員で、またチェ自身も若い頃に、このチームのスクラムハーフのポジションでプレーしていたそう。

さらに、1951年にはラグビー雑誌『タックル』を自身で発行しています。

一方で、ラグビー好きのチェ・ゲバラを苦しめる問題も存在していました。

それは、チェを生涯にわたって苦しめ、コンゴからキューバへ帰国する理由の一つにもなった喘息

しかし、その喘息にも関わらずラグビーを続けたことから、チェ・ゲバラが持っていたラグビー愛の強さがわかります。

詩も好きだった

チェ・ゲバラはラグビーだけでなく、詩も好きだったそう。

喘息のために学校へ行けず、自宅で勉強していた際に詩と出会い、ゲバラは詩を生涯愛することになります。

亡くなった時も、古びた緑色の手帳を身につけていました。

チェ・ゲバラはそこに、チリの詩人「パブロ・ネルーダ」、ペルーの詩人「セサル・バレホ」、そしてキューバの詩人「ニコラス・ギレン」の詩を書き写していたのです。

医者としてのチェ・ゲバラ

喘息に苦しんでいたチェ・ゲバラは医学を勉強し、革命家となる前には医者だったことでも有名ですが、喘息を直すためなのか、医者としてはアレルギー疾患の原因を探っていたよう。

医学を学ぶために1948年にブエノスアイレス大学に入学し、1953年に内科医として卒業した後、メキシコへ渡ったチェ・ゲバラは、メキシコシティの病院でインターンとしてアレルギー疾患の研究をしていたのです。

しかし、1955年にカストロ兄弟と出会うと、そこを辞めて革命家として歩み始めますが。

二度の旅行によって初期の政治信条が形成された

チェ・ゲバラは、医学生時代に二度にわたって南米を旅して回りました。

  1. 1950年のバイク一人旅
  2. 1952年からの友人「アルベルト・グラナード」とのバイク旅

の二つです。

(出典:wikipedia

これらの旅の中で、チェ・ゲバラは南米にはびこる激しい貧困と、労働者や農民の搾取を目の当たりにしました。

そして、「資本主義によって搾取されて体を震わせている生身の被害者」を見たことで、チェ・ゲバラは資本主義や権力者と闘う決意をしたのです。

グアテマラでの経験が米国への敵視を促した

革命家としてのチェ・ゲバラは、資本主義を取り入れていた米国を、まるで「帝国主義国家」のように考えて敵視していましたが、この米国への敵視は彼のグアテマラでの経験が大きな要因となったようです。

南米を周っていたチェ・ゲバラは、1953年に一時期、グアテマラに落ち着きました。

これに関しては、この国の土地を農民に再配分した、ハコボ・アルベンス・グスマン大統領の政策が気に入ったことが理由の一つでした。

しかし、同政策はグアテマラのエリート層とアメリカ資本のユナイテッド・フルーツ社を怒らせます。

そしてその年、CIAの支援を受けた団体が、民主的に選ばれたアルベンス大統領を権力の座から引きずり降ろしたのです。

その後、臨時政府は右翼のカスティーリョ・アルマス大統領を選出し、ユナイテッド・フルーツ社に土地を返還。

この出来事が、チェ・ゲバラのアメリカに対する敵視、社会主義や共産主義思想、そして革命に対する想いを強くしたのは確かでしょう。

実際、チェ・ゲバラは、革命運動に初めて直接参加し、成功はしなかったものの、グアテマラで小さな反乱グループと共に戦っています。

5人の子供達の父だった

世間一般には「革命家」としてのイメージが強いため、チェ・ゲバラが結婚をして5人の子供の父親であったことはあまり想像がつかないかもしれません。

チェ・ゲバラはキューバ革命が始まる前年の1955年に、イルダ・ガデアという女性と結婚。

そして、1956年から1965年の間に5人の子供をもうけているんです。

キューバ革命の英雄のあまり知られていない顔だと思います。

遺体からは手が切り落とされて1997年まで行方不明だった

ボリビアで革命を扇動しようとしていた1967年にCIAに支援されたボリビア軍に捕らえられ、その翌日に大統領令によって処刑されたチェ・ゲバラの遺体からは、ボリビア軍医師によって両手が切り落とされました

これは、指紋照合をして、殺害した人物が本当に本人であるかを確認するためでした。

一方で、遺体は他のゲリラ兵の遺体と共に集団墓地に投げ込まれたため、長い間、行方不明になってしまったのです。

それから28年後にようやく、チェ・ゲバラの遺体がボリビアのバジェグラン市にある滑走路近くへ埋められていることが判明。

大規模な捜索が行われ、両手がないこと、そしてジャケットのポケットにパイプ用のタバコが入っていたことも手伝って、1997年7月に掘り出された遺体がチェ・ゲバラのものであると確認されました。

そして現在、チェ・ゲバラの遺体は、キューバのサンタ・クララにある彼の巨大な銅像の基部に埋葬されています。

死後に数多くの映画のモデルとなってきた

チェ・ゲバラはまた、その死後に数多くの映画のモデルとなっています。

その一つが、2004年に公開された「モーターサイクル・ダイアリーズ」でしょう。

チェ・ゲバラは、1952年に行った南米旅行の様子を手記に書き留めており、この映画はその手記を参考に作られたのです。

この映画はまた、アカデミー賞歌曲賞を受賞し、カンヌ国際映画祭パルムドールにもノミネートされるなど作品としての完成度が高く、さらにチェ・ゲバラが革命家となった背景を理解するためにも役立つので、興味があれば鑑賞してみるのが良いかもしれません。

合わせて読みたい世界雑学記事

チェゲバラとは?キューバ革命の英雄の生涯や最後・カストロとの関係のまとめ

キューバ革命の英雄で、死後も伝説的な人物となったチェ・ゲバラについて見てきました。

キューバ革命後は、キューバにおいて裁判なしに囚人の処刑を命令するなど、無慈悲な面もありましたが、それでも権力に抵抗する象徴として、チェ・ゲバラが世界中の人々を勇気付けてきたことは確かでしょう。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

error:Content is protected !!