コソボ紛争をわかりやすく解説してきます。原因や歴史的な経過を追うと同時に、いつくかの抑えておきたい知識までを見ていきましょう。
1998年から1999年にかけて旧ユーゴスラビアの一地域「コソボ」を巡って起きたコソボ紛争は、同地域に住んでいた人の多くが命を起こし、また生き残った人間も難民になるなど、短期間にも関わらず、凄惨な結果を招いた戦争でした。
また、北大西洋条約機構(NATO)が介入することで、1999年には日本でも各局がテレビ中継するなど、他国の一般市民からも大きな注目を集めることになりました。
そんなコソボ紛争に関して、わかりやすく解説していこうと思います。
紛争が起こってしまった原因を歴史的な流れを追いながら確認し、いくつかのポイントを抑えていきながら、この悲惨な紛争について理解を深めていきましょう。
コソボ紛争とは?
コソボ紛争とは、1998年2月後半から1999年6月11日まで、ヨーロッパ南東部バルカン半島のコソボで起こった武力衝突のこと。
旧ユーゴスラビアにおいて元々、自治州で最貧国地域であったコソボの独立を巡って起こった紛争で、同期間の中には以下2つの衝突が含まれます。
- 1998年2月後半から1993年3月
- コソボの独立を求めるアルバニア人の武装勢力「コソボ解放軍(KLA)」とユーゴスラビア軍(当時はユーゴスラビア末期で、モンテネグロ共和国とセルビア共和国のみから成る連邦共和国だった)
- 1999年3月24日から1999年6月10日
- ユーゴスラビア軍とアルバニア人勢力の戦いに加えて、NATOが空爆でアルバニア人勢力を支援したアライド・フォース作戦。セルビア系が狙う民族浄化などの不正・残虐行為を阻止するために行われた
では、このコソボ紛争とは、そもそも何が原因で起こったのでしょうか?
コソボ紛争が起こった原因を中心に、コソボ独立までの動きを以下にわかりやすく解説していきたいと思います。
コソボ紛争の原因と独立までの流れをわかりやすく解説
コソボの地図上の場所と同地域の歴史
まず、コソボ紛争の舞台となったコソボについて、その場所やユーゴスラビア内での立ち位置を確認していくことから始めていきましょう。
コソボは地図上で見ると分かる通り、最盛期には六カ国(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)から構成された旧ユーゴスラビアの南部にある地域。
西暦6~7世紀頃にスラブ人の入植が始まり、それ以降この一体は南スラブ人が居住する地域となっていましたが、17世紀から18世紀頃に当時の政治的な理由から、オスマン帝国によってアルバニア人がコソボに当たる地域に入植させられます。
そして、1912年にアルバニアが独立を宣言した時には、一時コソボも南に隣接するアルバニアの国土に含まれましたが、当時のヨーロッパ列強の介入により、1913年の国境画定で北に隣接するセルビア王国に組み込まれてしまったのです。
相容れないアルバニア系住民とスラブ系住民
そのため、南スラブ人国家が集まってユーゴスラビアが構成された時も、コソボに住む90%近くの人間はアルバニア系でした。
加えて、コソボの人々の多くはイスラム教を信仰している反面、セルビア人はそのほとんどがキリスト教の正教徒です。
結果、コソボでは他のスラブ系住民達の地域とは違う文化や宗教が深く根付いており、同じ国にありながらも、コソボのアルバニア人とセルビア人は全く異なる人々だと言って良い状況でした。
(現在のコソボ南部プリズレン)
このような状況の中で1974年に、コソボは一旦はユーゴスラビアの中で自治権が認められますが、セルビア共和国憲法が1989年に修正された際、コソボの自治権が剥奪されてしまったのです。
これは主に、セルビアはコソボを古くから自らの土地と捉えており、そこに住むアルバニア系イスラム教徒を、数世紀前にオスマン帝国が統治していた頃の名残だとしか考えていなかったからです。
1974年に自治権が認められてから短期的には、セルビアの一部でありながらもコソボとセルビアの間に大きな問題は起こりませんでした。
これは、1963年にユーゴスラビアの終身大統領となったヨシップ・ブロズ・チトーが生きている間であり、その理由というのも、コソボへ自治権を持たせることを決めたのはチトー本人だったから。
(チトー)
しかし、1980年にチトーが亡くなると、セルビア系の国粋主義者スロボダン・ミロシェヴィッチがユーゴスラビアの統治者として台頭し、同時にクロアチアやボスニアなどの共和国も独立を宣言し始めたことで、1981年にはアルバニア系住民の暴動が発生します。
結果、一旦は静かになっていたアルバニア人とセルビア人の対立が深まり、1989年のミロシェビッチによるコソボの自治権剥奪に繋がっていくのです。
コソボ紛争の開始
コソボが自治権を剥奪されてから1998年にコソボ紛争が起こるまで、コソボ側はミロシェヴィッチと交渉をしてなんとか自治権を回復しようと努力しますが、一向に状況は変わりませんでした。
(ミロシェヴィッチ:出典:wikipedia)
ミロシェヴィッチは、コソボとの関係を平和的に解決するつもりは全くなかったのです。
結果、コソボ側(アルバニア系住民達)は、独立を目的として武力組織「コソボ解放軍(KLA)」を立ち上げ、活動を活発にしていきます。
そんな中で、セルビア側はKLAを一掃するための掃討作戦を1998年2月後半に開始、ここにいわゆる「コソボ紛争」が開始されることになったのです。
コソボ紛争へのNATOの介入開始
コソボ解放軍(KLA)がコソボ独立のための行動を起こし始め、セルビア軍との衝突が増えていくと、コソボ市民も犠牲になり始め、セルビアは西欧諸国から批判されます。
しかし、セルビア側はその批判にも関わらず、アルバニア系コソボ人25万人を初冬の凍える森に追放します。
これはコソボ戦争における最初の民族浄化と考えられており、その後も止まることを知りませんでした。
その結果、同地域周辺に配備されていたNATOの航空部隊司令官たちは、コソボを支援するための空爆指示を受け、NATOによるアルバニア人勢力の支援が始まります。
数ヶ月の間、NATOによる空爆、セルビア軍パイロットとのドッグファイト、軍事基地への爆撃などが行われました(※セルビア系のテレビ局本社が爆破されたり、民間人も命を落としいることから、物議を醸し出した)。
加えて、同じ時期、当時のイギリス首相トニー・ブレアは、NATOの地上部隊を動員すること、NATOが拒否した場合は、英国陸軍の大部分を平和維持軍としてコソボに送り込むことを表明しました。
これは平和維持軍に被害が及んだ場合、NATOの条項にある自衛権を発動して武力介入し、最終的にスロボダン・ミロシェヴィッチを排除することを意味していたのです。
これによってミロシェヴィッチは、コソボ人との交渉を行うことを表明。クマノヴォ合意(Kumanovo Agreement)が締結され、1999年6月に戦争が終結したのです。
ちなみに、西欧諸国が動くとなれば必ずその動きに反発するように行動を起こすロシアは、実は当時も動いていました。
セルビアとの歴史的な結びつきを重視する立場を取っており、また、セルビア軍に志願したロシア兵もいるほどでした。
しかし、当時のロシアはソ連解体後に行った政策によって、経済や社会が不安定な時期であり、西欧諸国に喧嘩を売るようなことになれば、それ以上は支持しないと裏でセルビア側へ伝え、また、ロシア政府はミロセヴィッチの強行路線を変えさせようとしていたと言われています。
コソボ紛争にまつわる知っておくべき6つの知識
コソボ紛争が起きた原因から、コソボ独立までの流れをわかりやすくダイジェストで見てきましたが、ここからは、この紛争についてさらに理解するためにも、抑えておきたいいくつかの知識を紹介していきます。
コソボ紛争の原因の一つはセルビア人にとって「聖地」だから
上でコソボ紛争が起こった原因に関して歴史的な流れで見てきましたが、実は、コソボ紛争の原因の一つとして他にも抑えておきたいのが、コソボはセルビア人にとって「聖地」であるという点。
コソボ紛争以前には、中世に建てられた由緒ある聖堂や修道院など、セルビア正教徒にとっては大切な文化的遺産が数多く存在しており、セルビア正教の聖地だったことが、セルビア側がコソボを諦めきれない理由の一つだったのです。
ちなみに、セルビア正教にとって大切な文化遺産の多くは、コソボ紛争の時に破壊されてしまったとされます。
緊張関係をエスカレートさせてしまった国際社会
コソボ紛争が起きた原因として、国際社会の対応の悪さも指摘出来るでしょう。
国際社会は当初、アルバニア人とセルビア人の緊張関係がエスカレートしている事実に対して、何も対策を取りませんでした。
それが原因で、国際社会は軽率にも過激派を支援する事になってしまったのです。
コソボのアルバニア系住民はコソボ解放軍(KLA)を1990年代初頭に組織した後、セルビアの警察、政治家を襲撃し始め、1998年までの間、全面的な暴動を起こし、結果として悲惨な戦争へと発展してしまったのです。
コソボからは非常に多くの難民が発生した
ユーゴスラビア軍とセルビア軍は、コソボ紛争の期間中、民族浄化運動を継続的に行っていました。
ユーゴスラビア政府は村々を破壊し、人々に家から立ち退くよう圧力をかけるだけでなく、女性へのレイプや大虐殺を行ったのです。
その結果、1999年5月末までにおよそ100万人弱の人々が家を追われ、難民となってしまいました。
また、その難民達の姿が当時のメディアで映し出されたことが、西欧諸国によるコソボ紛争への介入を決める大きな動機になったとも言われます。
セルビア側でも民間人の死亡や人口流出が発生した
1999年にフランスに於いて、コソボとセルビアの代表者による和平交渉(ランブイエ和平交渉)が始まりました。
しかし、セルビア側は協力を拒否。
それに応戦する形で、NATOは政府の建物やインフラ施設の破壊を主なターゲットとした、セルビアに対する空爆が始まったわけですが、その中では民間人の死亡や、難民のような形で近隣諸国へセルビア人が流出するようなことも起こってしまいました。
その後も続く緊張状態
1999年6月にNATOとユーゴスラビアは、コソボ紛争を終結させる為の和平協定を結びます。
その中で、ユーゴスラビア政府は軍隊の撤退と難民の帰還に合意しました。
しかし残念なことに、コソボにアルバニア系住民が戻った後、民族間の緊張状態は21世紀になっても続き、例えば2004年3月、コソボ地域全体で反セルビア勢による暴動が起こった結果、20人が死亡、4000人以上のセルビア人とその他の少数民族達が避難する事態になっています。
コソボは独立したが独立国として認めていない国も存在する
コソボが独立を宣言した後、ほとんどのヨーロッパ諸国はコソボを独立国として認知しましたが、セルビアの一地方が反乱を起こしていると捉え続けた国々も多かったのです。
特に中国とロシアは、コソボを国として認識することを拒否しており、加えてセルビア人たちは、未だにコソボを独立国として認知しておらず、代わりにセルビアの完全なる自治区として、コソボ政府が地方自治を行なっているとしています。
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コソボ紛争|原因などをわかりやすく解説!多くの難民や死傷者が出た悲惨な紛争のまとめ
コソボ紛争について、歴史を追いながら、その原因や流れまでをわかりやすく見てきました。
総じてコソボ紛争とは、ヨーロッパに於ける最も混沌とした紛争の一つであり、その地域に住む人にとって、忘れる事の出来ない痕跡を残しました。
この紛争は「大虐殺(ジェノサイド)」や「人道に対する罪」と言った言葉を造り出しただけではなく、NATOによる介入や空爆など、大きな論争を引き起こす原因となった事件だったのです。