第一次世界大戦についてわかりやすくまとめていきます。歴史や原因、死傷者数や年表など、第一次世界大戦を理解するためにも確認していきましょう。
現代史の中では人類にとって未曾有の世界的大戦が2つ起こりました。
一つは日本も甚大な被害を被った第二次世界大戦で、もう一つはその第二次世界大戦勃発のおよそ20年前に終結した第一次世界大戦です。
第一次世界大戦はヨーロッパの2つの国の間で発生した緊張が拡大していき、最終的には当時の世界における大国全てを巻き込む人間史上初の世界規模の戦争となってしまったのです。
この第一次世界大戦が勃発した直接的な原因はなんだったのか?どのような流れで終結まで向かったのか?
第一次世界大戦について詳しく、そしてわかりやすくまとめていこうかと思います。
最後には年表も含めてあるので、そちらも確認してみてください。
第一次世界大戦とは?
第一次世界大戦(World War I:WWI / WW1)は、1914年7月28日から1918年11月11まで続いた、ヨーロッパに端を発する世界的規模の戦争。
当時、「すべての戦争を終わらせるための戦争」と言われた第一次世界大戦でしたが、結果的にヨーロッパ人6000万人を含む7000千万人以上の軍人が動員され、人類史上で最大規模の戦争の一つとなりました。
この世界大戦には当時の世界におけるすべての経済大国が巻き込まれ、
- 連合国
- ロシア帝国、フランス、イギリスを中心とした
- 後にアメリカや日本も同盟関係を結んで参戦した
- 中央同盟国
- ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国を中心とした
- 後にオスマン帝国やブルガリア王国も同盟関係を結んで参戦した
の2つの陣営に世界が大きく分けられ、また、時間の経過と共に参戦する国が増えて両陣営の同盟関係が拡大したことで、非常に規模の大きな戦いが繰り広げられていったのです。
第一次世界大戦はまた、その後に起こる第二次世界大戦に次いで、史上最悪の戦争の一つとも考えられます。
第一次世界大戦の直接的な被害を受け、900万人の兵士および700万人の民間人が死亡したと推定されるだけでなく、大戦の結果として起こった大量虐殺と1918年のインフルエンザ大流行により、全世界でさらに5千万人から1億人の死者が出てしまったのです。
第一次世界大戦の歴史(流れ)をダイジェストで見ていこう
第一次世界大戦は一個人の暗殺から始まった
第一次世界体制の引き金は、一個人による一個人の暗殺によって引かれました。
1914年6月28日、サラエボへ視察に訪れていたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が、ボスニア系セルビア人のユーゴスラビアの民族主義者の青年「ガヴリロ・プリンツィプ」によって暗殺されたのです。
(セルビアのベオグラードにあるガヴリロ・プリンツィプの像)
その結果、「七月危機」と呼ばれる、セルビア王国とオーストリア=ハンガリー帝国を中心として、両陣営についた各国間で一連の緊張状態が起こりました。
7月23日、オーストリア=ハンガリー帝国は、セルビア王国に対し最後通牒を発しましたが、それに対するセルビアの回答にオーストリア側は満足せず、両国は臨戦体制へと移行。
相互に連動し合う同盟関係が築かれていたこともあり、七月危機はバルカン半島における二国間問題から、ヨーロッパのほぼ全土を巻き込んだ問題へと発展していったのです。
そして1914年7月までに、ヨーロッパ列強の同盟関係は二分され、
- フランス、ロシア、イギリスの三国協商
- ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリアの三国同盟
- ※三国同盟は当初、防衛的な同盟関係であったのにも関わらずオーストリア=ハンガリーが違反して侵略に出たため、イタリアは同盟国として参戦することを渋り、後に連合国側に参加した
がそれぞれ発足しました。
第一次世界大戦勃発
1914年7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアの首都ベオグラードを砲撃。
これに対してロシア帝国は、セルビアを支援する必要があると考え、軍隊の一部動員を許可し、ついに第一次世界大戦の幕が切って落とされたのです。
7月30日夕方、ロシア側の総動員が発表されました。
そして翌日の7月31日、これに対抗するようにオーストリア=ハンガリーおよびドイツも同様の発表を行い、ドイツはロシアに対して12時間以内に軍の動員を解除するよう要求。
しかし、ロシアがこれを拒否すると、ドイツはオーストリア=ハンガリー帝国を支持して8月1日に宣戦布告。オーストリア=ハンガリー帝国も8月6日、これに続きました。
一方、フランスは8月2日、ロシアを支援するために総動員を指示しています。
ちなみに、第一次世界大戦が始まった当初のドイツでの戦略は、西部のフランスと東部のロシアに対抗するためにも戦線を、
- 西部戦線
- ベルギー南部からフランス北東部にかけて構築された戦線
- 東部戦線
- 中央ヨーロッパから東部ヨーロッパにかけて構築された戦線
に分け、まず、西部戦線へ迅速にドイツ軍の大半を投入して4週間以内にフランスに対して勝利を収め、その後、ロシア軍が完全に態勢を整える前にドイツ軍を東部戦線へとシフトさせることでした。
このドイツの戦略は後にシュリーフェン・プランとして知られるようになります。
日本なども巻き込む世界規模の大戦となった第一次世界大戦
1914年8月2日、ドイツはフランスに対して速やかに勝利するために不可欠な、「ベルギー国内の無害(無抵抗)通行権」を要求します。
しかしこれが拒絶されると8月3日にドイツ軍はベルギーへ侵攻し、同日、フランスに対して宣戦布告。
対するベルギー政府は1839年のロンドン条約を行使。
その結果、条約の取り決めに従って8月4日、イギリスがドイツに対して宣戦布告しました。
そして8月12日にはイギリスおよびフランスが、オーストリア=ハンガリー帝国に対しても宣戦布告を行い、8月23日になると、日本が中国および太平洋地域におけるドイツ領を狙って、三国協商側(連合国側)についたことでアジア圏にも大戦の影響が拡大。
それから少し時間が経過した1914年11月、ついにはオスマン帝国が三国同盟側(中央同盟国)について参戦し、コーカサス、メソポタミア、シナイ半島にて戦線が構築されました。
さらに、第一次世界大戦はヨーロッパ列強各国の植民地でも戦闘が繰り広げられ、また植民地も利用されたことから、戦闘はアフリカにも及び、地球をまたぐ世界的規模の大戦となっていったのです。
ちなみに、この拡大の過程で、三国協商とその同盟関係にある国々はやがて連合国と呼ばれるようになり、オーストリア=ハンガリー帝国とドイツおよびその同盟国から成る三国同盟は中央同盟国として知られるようになっていきました。
長期化する第一次世界大戦
ドイツのフランスへの進軍は、マルヌ会戦(1914年9月:ベルギーを突破したドイツ軍をフランス軍がマルヌ河畔で食い止めた第一次世界大戦中の戦い)にて食い止められ、1914年末までに西部戦線は消耗戦の様相を呈します。
一連の長い塹壕線を特徴とし、それは1917年までほとんど変わることがなかったのです(これとは対照的に東部戦線では占領地の入れ替わりがはるかに激しくて特徴的だった)。
また1915年、三国同盟として参戦することに躊躇していたイタリアは連合国側につくことを決定し、これによってアルプスでの戦線が開始されます。
さらに同年にはブルガリアが中央同盟国側へ、1917年にはギリシャが連合国側へ参加し、第一次世界大戦はバルカン半島へも広がりをみせました。
アメリカの参戦
第一次世界大戦の中でアメリカ合衆国は当初、表向きは中立を保っていました。しかし、実際には連合国側を支援するような結果となっていたと言えるでしょう。
例えば、連合国がアメリカから物資を調達するにあたって阻むことは一切ありませんでした。
その一方で、連合国によって効果的に封鎖が行われた結果、ドイツはアメリカから物資調達を出来ず、アメリカは連合国側にとって重要な軍事物資の供給国となっていったのです。
やがて、ドイツの潜水艦によるアメリカ商船の沈没事件が起こり、さらに、ドイツがメキシコでアメリカに対する戦争を仕掛けさせようとしていたことが発覚すると、1917年4月6日、アメリカはドイツに対して宣戦布告を行い、ここにアメリカの第一次世界大戦への参加が決定。
実際にアメリカから大規模なアメリカ軍が派遣されることは1918年半ばまでありませんでしたが、最終的にアメリカの外征軍は、およそ200万人の数に達したとされます。
第一次世界大戦の終焉
第一次世界大戦の中では、セルビアが1915年に敗北し、ルーマニアが1916年に連合国側へ参戦したものの1917年に敗北を喫するなど、局所的には戦いに敗れる国が出てきましたが、1918年まで大戦から退いた大国はひとつもありませんでした。
一方、1917年、ロシアで2月革命が起こり、それまでの帝政による政治に代わって臨時政府が政権を掌握。
しかし戦争による負担に対する不満は変わらず、これが後の10月革命を引き起こし、レーニン率いるヴォリシェヴィキが政権を掌握した結果、ソビエト・ロシア共和国が成立。
ソビエト・ロシアの新政府は1918年3月、中央同盟国側と講和条約である「ブレスト=リトフスク条約」を結び、これによりロシアは第一次世界大戦から離脱することとなりました。
これを受けてドイツ軍は、大規模な軍隊を東部戦線から西部戦線へと移動させることが可能となり、その結果として1918年、ドイツの春季攻勢(西部戦線におけるドイツ帝国の最後の大攻勢:皇帝の戦い)が始まります。
しかし、春季攻勢は最初こそ成功するかに見えましたが、連合国軍が持ち直し、百日攻勢(連合軍による怒涛の反撃・快進撃)にてドイツ軍を撃退。
ブルガリアは中央同盟国のなかで最初に休戦協定(1918年9月29日のテッサロニキ休戦協定)に調印し、1918年10月30日にはオスマン帝国が降伏してムドロス休戦協定へ調印。
そして11月4日、オーストリア=ハンガリー帝国がヴィラ・ジュスティ休戦協定を締結。
同盟関係にあった国々が敗退し、国内ではドイツ革命が起こり、軍隊もこれ以上の戦闘を行うには限界の状態となったこともあり、11月9日にヴィルヘルム2世が退位したドイツは、1918年11月11日、連合国側と休戦協定に調印して、ここに第一次世界大戦が終わりを迎えたのです。
第一次世界大戦のその後
第一次世界大戦は、政治、文化、経済、社会における、世界情勢の著しい転換点だったと言えるでしょう。
第一次世界大戦およびその余波は、終戦後すぐに起こった数々の革命運動や暴動の火付け役となっていったのです。
また、四大列強(イギリス、フランス、アメリカおよびイタリア)は、敗戦国に数々の条件を課し、1919年のパリ講和会議にて採択された一連の条約にそれらを盛り込みました。
ドイツとの間に締結された講和条約「ヴェルサイユ条約」は最も有名です。
そして、最終的に第一次世界大戦の結果として、オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国、ロシア帝国は崩壊し、多くの新国家が誕生しました。
しかし、連合国側の決定的勝利にもかかわらず、また、パリ講和会議の結論として今後の戦争を未然に防ぐ目的で「国際連盟」が発足したにも関わらず、それからたった20年後には第二次世界大戦が勃発することになりました。
第一次世界大戦に関するいくつかのポイントまとめ
第一次世界大戦について、その流れを大まかに見てきたところで、ここからは原因、大戦における主要プレーヤー、そして死傷者(死者および負傷者)の数をまとめていきたいと思います。
第一次世界大戦の原因
第一次世界大戦が引き起こされる原因を深く掘り下げていくと、開始以前のヨーロッパにおける国際関係や歴史などが関わっていることが分かりますが、その直接的なきっかけは、
- オーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公がボスニア系セルビア人のガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された
- セルビア王国の対応にオーストラリア=ハンガリー帝国が満足出来なかった
- 両国間の緊張が高まった
- オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告した
という一連の流れであるのは、第一次世界大戦の歴史の中で見た通りです。
第一次世界大戦に参戦した主要プレーヤー
連合国
フランス、ロシア、イギリスを中心として、ベルギー、ギリシア、イタリア、モンテネグロ、ポルトガル、ルーマニア、セルビア、日本、米国など。
※当初、イタリアは三国同盟を結んでドイツ側についていたが、防衛的な同盟関係であったのにも関わらずオーストリア=ハンガリーが違反して侵略に出たため、後に連合国側に参加した
※米国は中立を宣言していたが、自国の商船がドイツの潜水艦に攻撃されたことにより参戦した
中央同盟国
ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリアを中心として、ブルガリア、オスマン帝国など。
第一次世界大戦による死傷者(死者数・負傷者数)
国 | 死者数 | 負傷者数 |
アメリカ | 116,516 | 204,002 |
イギリス | 908,371 | 2,090,212 |
イタリア | 650,000 | 947,000 |
オーストリア=ハンガリー帝国 | 1,200,000 | 3,620,000 |
オスマン帝国 | 325,000 | 400,000 |
ギリシア | 5,000 | 21,000 |
ベルギー | 13,716 | 44,686 |
セルビア | 45,000 | 133,148 |
ドイツ | 1,773,700 | 4,216,058 |
フランス | 1,357,800 | 4,266,000 |
ブルガリア | 87,500 | 152,390 |
ポルトガル | 7,222 | 13,751 |
日本 | 300 | 907 |
モンテネグロ | 3,000 | 10,000 |
ルーマニア | 335,706 | 120,000 |
ロシア | 1,700,000 | 4,950,000 |
合計(その他含む) | 約8,500,000 | 約21,200,000 |
第一次世界大戦の年表
最後に、第一次世界大戦の流れを年表としてまとめておきます。
1914年6月28日 |
セルビアのテロリズム志向の民族主義秘密結社「黒手組」と結びつきのあるガヴリロ・プリンツィプが、オーストリア=ハンガリーのフランツ・フェルディナント大公を暗殺 |
1914年7月28日 |
オーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告して第一次世界大戦が始まる |
1914年8月1日 |
ドイツがロシアに宣戦布告 |
1914年8月2日 |
オスマンとドイツが同盟の密約を締結 |
1914年8月4日 |
ドイツがベルギーに侵攻。米国のウッドロウ・ウィルソン大統領が米国の中立を宣言。ベルギーがドイツに宣戦布告。 |
1914年8月10日 |
オーストリア=ハンガリーがロシアに侵攻し、東部戦線が開かれる |
1914年8月23日 |
日本がドイツへ宣戦布告して大戦に参加。 |
1914年9月12日 |
フランスで第一次エーヌの戦いが始まり、塹壕戦が始まる |
1914年11月3日 |
ロシアがオスマン帝国に宣戦布告 |
1915年4月22日〜5月25日 |
第二次イーペルの戦いで初めてドイツ軍が広範囲に毒ガスを使用 |
1915年5月7日 |
ドイツのUボートが英国の客船ルシタニア号を撃沈。アメリカ人128人を含む1,198人が死亡 |
1915年5月23日〜1917年11月 |
イタリアでイゾンツォの戦い |
1916年2月21日〜12月18日 |
フランスでヴェルダンの戦い。第一次世界大戦中最長の戦いで、100万人近くが死傷 |
1916年5月31日〜6月1日 |
デンマーク近郊の北海でユトランド沖海戦。英国海軍とドイツ海軍の海戦 |
1916年7月1日〜11月 |
フランスでソンムの戦い。英軍が初めて戦車を導入する |
1917年4月6日 |
米国がツィンメルマンの電報を傍受し公表。また3隻の米国商船がUボートによって撃沈されたことを理由にドイツに宣戦布告 |
1917年6月26日 |
米軍がフランスに上陸を開始 |
1917年11月20日〜12月6日 |
フランスでカンブレーの戦い |
1917年12月3日 |
ロシアがドイツと休戦協定を締結 |
1918年3月3日 |
ロシアがブレスト=リトフスク条約に調印し、中央同盟国との間の戦闘を終結して戦争から撤退 |
1918年9月29日 |
ブルガリアが休戦協定に調印 |
1918年11月3日 |
オーストリア=ハンガリーが休戦協定に調印 |
1918年11月11日 |
ドイツが同盟国による休戦条件を受諾し、戦争が終結 |
1919年6月28日 |
フランスのベルサイユ宮殿でヴェルサイユ条約が調印される |
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第一次世界大戦まとめ|原因・年表・死傷者数などをわかりやすくのまとめ
人類史における初の世界規模の大戦である第一次世界大戦について詳しく見てきました。
第一次世界大戦は、その後の国際情勢を決定する非常に大きなインパクトを国際社会に残しました。
そして、20年ほどしてから起きてしまった第二次世界大戦と合わせ、戦争の悲惨さを表す教訓として、人間の歴史に刻まれています。