エイブラハム・リンカーン大統領はどんな人?名言・演説・生涯を見ていこう!

エイブラハム・リンカーン元アメリカ合衆国大統領について見ていきす。名言や演説、生涯などを確認して、リンカーンについての理解を深めていきましょう。

アメリカの歴史には幾人もの有名人が存在しますが、エイブラハム・リンカーンほど偉人として尊敬されている人物は少ないかもしれません。

19世紀のアメリカの混乱期においてアメリカの第16代大統領を務めた人物で、アメリア史上最悪の本土で行われた戦いとして知られる南北戦争で北側を主導。

また、奴隷解放宣言を行って、アフリカ系アメリカ人を奴隷制から解放しました。

この記事では、そのエイブラハム・リンカーンについて、基本的なプロフィール、いくつかのポイントに分けた見る生涯の話、そして、リンカーンにまつわる豆知識の3つのパートに分けて紹介していこうと思います。

中にはリンカーンによる名言や演説も含まれるので、気になったら確認してください。

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エイブラハム・リンカーンとは?

エイブラハム・リンカーン(1809年2月12日〜1865年4月15日)とは、アメリカの政治家であり弁護士、そして1861年3月4日から1865年4月15日までアメリカ合衆国第16代大統領を務めた人物

アメリカ本土で起こった内戦「南北戦争」において北部州側(アメリカ合衆国)を指導して南部州側(アメリカ連合国)と戦い、南北戦争の最中である1962年9月には「奴隷解放宣言」を行ったことでアメリカ史に名を残しています。

そのため「偉大な解放者」や「奴隷解放の父」と呼ばれることがある上に、正直で誠実な人柄のため、「正直者のエイブ」という愛称でも親しまれていました。

実際、奴隷解放に関してリンカーンが残した、

Whenever I hear anyone arguing for slavery, I feel a strong impulse to see it tried on him personally.

誰かが奴隷制について主張すると、私は個人的に奴隷制を体験させたいという強い衝動に駆られる。

という言葉は、彼の誠実さを物語る名言の一つでしょう。

一方で、南北戦争において南部側の軍を率いたロバート・E・リー将軍が降伏してから6日後の1865年4月15日、リンカーンは観劇中に銃殺され、アメリカ史上初の暗殺された大統領となったことでも知られています。

エイブラハム・リンカーンってどんな人?生涯をいくつかのポイント別に分けて見ていこう

エイブラハム・リンカーンに関する基本的な知識をつけたところで、ここでは、彼の生涯をいくつかのポイント別に分けて確認していき、「リンカーンはどんな人だったのか?」をより掘り下げていきたいと思います。

リンカーンと家族

幼少期と独学

エイブラハム・リンカーンは1809年、ケンタッキー州の農業や大工の仕事をしていた父トーマス・リンカーンと母ナンシー・ハンクスの間に生まれました。

その際、生まれた場所が丸太小屋であったという話は、リンカーンの出生にまつわる有名なエピソードとして残っています。

(出典:wikipedia

そしてリンカーンが9才の時、実母ナンシーと死別しましたが、その後の父が再婚した継母のサラ・ブッシュ・ジョンストンとの関係は非常に良好。

その継母との関係を表す一つのエピソードがあります。

リンカーンの実母と実父は無学だったこともあり、リンカーンの受けた正式な教育は、当時、地域を巡回していた何人かの教師によるものであり、合わせても1年分にしか相当した基礎教育だけ。

それ以外は、自ら進んで読書などをこなして独学で学んでいきました。

そして、彼の読書欲を掻き立ててくれたのが実は継母

彼女がリンカーンへ読書の魅力を教え、その結果、正規の教育はほとんど受ける機会はなかったものの、自ら率先して読書をこなし、リンカーンは手にしたあらゆる書物から知識を得ていったのです。

結婚と子供達

1842年11月4日、当時弁護士として法律事務所を運営していたリンカーンは、比較的裕福な家庭出身のメアリー・トッドと結婚しました。

リンカーンとメアリーは4人の子供を授かりましたが、そのうち3人は幼くして命を落としています

次男のエドワードは1850年に3才で亡くなり、三男のウィリアム・ウォレスは12才でこの世を去り、四男のトーマス「タッド」は18歳で命を落としています。

そのため、唯一無事に成人したのは長男のロバート・トッド・リンカーンだけで、後には政治家、弁護士、外交官(=駐イギリス公使)などになっています。

大統領になる前の経歴

お店の経営者から軍人となる

1832年、リンカーンはもう一人の人間と一緒に借金をしてニューセイラムに小さな雑貨屋を購入し、その店を切り盛りするようになります。

(出典:wikipedia

しかし、経営に難航したリンカーンは、その事業の持ち分を手放すと、同年にブラック・ホーク戦争(注)で戦うために入隊。

間もなくリンカーンは、民兵隊の大尉となってザカリー・テイラー大佐が率いる正規軍に組み込まれましたが、リンカーンのそこでの従軍期間はわずか30日でした。

リンカーンは次にマウンテッド・レンジャーズという騎兵部隊へ参加し、後にインディペンデント・スパイ・コープスというスパイ部隊に入りましたが、結局、軍人としての期間は短期間で終了し、また、リンカーンが実戦に遭遇することもありませんでした。

(注釈)ブラック・ホーク戦争とは、1832年、アメリカのイリノイとウィスコンシンで白人とインディアンとの間で行われた戦争で、インディアン達から領土を奪い、植民地とするために起こされた北米植民地戦争のこと。

政治家を目指し始めたリンカーン

軍を除隊したリンカーンは、政治家としてのキャリアに興味を持ち始めます

1832年、イリノイ州の議会議員に立候補しますが落選。

しかしリンカーンは、アンドリュー・ジャクソン大統領(1833年~1836年)からニューセイラム郵便局長に任命されます。

その後の1834年、この時までにホイッグ党員となっていたリンカーンは、州議会議員へ2回目の立候補をし、見事、イリノイ州議会議員に選出されます(任期1834年~1842年)

さらに、以前から独学で法律を勉強していたリンカーンは、1836年に法廷弁護士として認められました。

それから少しの間、弁護士業に集中していた時期もあったものの、リンカーンは1846年に国政へ進出。

1847年から2年間、アメリカ合衆国下院議員を務めました。

そして1854年、リンカーンは州議会議員に選出されて上院議員選挙に立候補したものの敗北してしまいました。

ちなみにこれ以降、1854年に黒人奴隷制反対を掲げて1854年に結成された「共和党員」として、リンカーンは政治に関わっていくようになります。

奴隷制度反対論者としての性格が伺える二つの演説

1857年、後に「ドレッド・スコット対サンフォード事件」と呼ばれるようになった、重大な判決がアメリカ合衆国最高裁によって下されました。

これは、

アフリカ人の子孫が奴隷であるか否かに拘らず、アメリカ合衆国の市民にはなれないとし、アメリカ合衆国議会は連邦の領土内で奴隷制を禁じる権限がないとした

(引用:wikipedia

というものであり、簡単に言ってしまえば、奴隷制の合法性が確認され、奴隷制を禁止した「自由州」においてさえも奴隷の所有を許可し、南部州側の肩を持つ判決でした。

この判決が下された結果、奴隷制度廃止運動家として知られた「ジョン・ブラウン」が1859年、ハーパーズ・フェリー襲撃事件(武器庫の武器で奴隷たちを武装させて蜂起しようとした事件)を起こします。

これによってアメリカ国内は、

  • 奴隷制に反対する北部
  • 奴隷制に賛成する南部

の間でさらに緊張が高まることになったのです。

そして、この状況に対してリンカーンは、1858年の共和党州大会で上院議員候補に指名された後、かの有名な「分かれたる家」演説を行っています。

その演説内容とは具体的に、以下のようなものです。

A house divided against itself cannot stand. I believe this government cannot endure permanently half-slave and half-free. I do not expect the Union to be dissolved – I do not expect the house to fall – but I do expect it will cease to be divided.

家が内輪で分かれ争うなら、その家は立ち行かつことも能(あた)わないであろう。この国は半ば奴隷、半ば自由の状態で、永続することはできないと私は信じる。私は連邦が瓦解することは望まないー家が倒れることは望まないー。私が期待することは連邦が分かれ争うことをやめることだ。

リンカーン・ダグラス論争

1858年から始まった上院議員選挙へ向けての選挙活動中にリンカーンは、対立候補であったスティーブン・ダグラスと7回に渡る討論を繰り返し、これは「リンカーン・ダグラス論争」としてよく知られています。

(スティーブン・ダグラス)

両者は多くの問題について意見が一致していたものの、奴隷制度に対しては異なる意見を持っていました

リンカーンは「奴隷制度をこれ以上広めるべきではない」と主張し、ダグラスは人民主権論(奴隷制の可否を各州の政府と住民に決定させるという概念)を主張。

この論争の中でリンカーンは、

誰かが平等な権利を要求するまでもなく、アフリカ系アメリカ人(黒人)はアメリカ独立宣言で謳われている『生命、自由、および幸福の追求』の権利を手に入れるべきだ

という趣旨の演説を行ったのです。

しかし、リンカーンは結局、この上院議員選挙でダクラスに敗北してしまいました。

大統領としてのリンカーン

アメリカ史上最も偉大な大統領」とさえ言われるリンカーンの大統領時代は、1860年の大統領選挙へ、ハンニバル・ハムリンを副大統領候補に伴って、共和党大統領候補に指名されたことから始まりました。

一方の民主党からは北部民主党の代表スティーブン・ダグラスと、南部民主党(保守系民主党)代表のジョン・ブレッキンリッジが大統領候補に指名され、また、立憲連合党からはジョン・ベルが指名されました。

この選挙の中で、リンカーンは国の分断を非難し、準州における奴隷制度の廃止を訴えて多くの支持を得、またジョン・ベルがダグラスの票を奪ったことで最大のライバルの脅威が薄らいだ結果、リンカーンは、

  • 一般投票
    • → およそ40%
  • 選挙人投票
    • → 303票のうち180票

を獲得して他の候補を抑えて当選。

1861年3月4日にリンカーンは大統領に就任したのです。

そして、1864年の大統領選では「国民統一党」へと名前を変えた共和党に指名され、副大統領にはアンドリュー・ジョンソンを伴って大統領に再選されています。

ちなみに、この1864年大統領選挙では、かつてリンカーンによって南北戦争における北軍の総司令官を解任された人物「ジョージ・マクレラン」が対立候補として参加し、

南北戦争を起こしたのは過ちであり、リンカーンは多くの市民の自由を奪った。

とリンカーンを非難しましたが、選挙運動の期間中に北軍が南軍に対して有利に戦いを展開した結果、国民はマクレランの主張を支持することなく、リンカーンは無事に再選を果たすことが出来ました。

大統領時代におきた出来事とリンカーン大統領の功績

南北戦争

リンカーンの大統領任期中に起こった最も大きな出来事と言えば、1861年~1865年にかけて続いた南北戦争でしょう。

全体で11州が連邦(アメリカ合衆国)から離脱しましたが、リンカーンは、

重要なことは、離脱した11州によって結成されたアメリカ連合国を倒すことだけではなく、北部と南部を最終的に再統一することだ

と固く信じていたのです。

奴隷解放宣言

そしてもう一つは、1862年9月に宣言された奴隷解放宣言でしょう。

当時の南北戦争の一局面であるアンティータムの戦いで北軍側が勝利したことに合わせて、リンカーンは、

1863年1月1日以降、アメリカが合衆国が戦っていたアメリカ連合国が支配する地域における全ての奴隷たちを解放する

とした奴隷解放宣言を行いました。

アメリカ合衆国憲法修正第13条の批准

また、奴隷解放を宣言しただけでなく実体のあるものとするために、リンカーンは公式に奴隷制を禁じて廃止する目的で、憲法へ修正を加えた憲法修正第13条を1865年1月31日に議会へ提案。

暗殺される前の段階で、この憲法修正第13条はすでに多くの州で批准される状況となりました。

ホームステッド法の制定

リンカーンは大統領任期中の1862年5月20日、ホームステッド法に署名し発効させています。

この法律は、未開発の土地に5年間定住して開拓すれば1区画160エーカー(約65ヘクタール)の土地を無償で払い下げるという法律で、西部の開拓を促すものでした。

結果、1986年までの間に160万件の土地の払い下げが認められ、その面積はアメリカ国土の10%にも達したと言われます。

エイブラハム・リンカーンの暗殺

1865年4月14日、エイブラハム・リンカーンは、ワシントンD.C.にあるフォード劇場で観劇中に拳銃で後頭部を左から撃ち抜かれました。

そして翌日の朝、リンカーンの死亡が宣告されたのです。

ちなみにその犯人とは、メリーランド出身の俳優ジョン・ウィルクス・ブースで、リンカーンの後頭部を狙撃した後に舞台へ飛び降りて逃亡しましたが、およそ12日間におよぶ逃走後に発見されて警察官に射殺されています。

リンカーンにまつわる3つの豆知識

最後に、ちょっとした豆知識としてリンカーンにまつわる3つの話を紹介しておきましょう。

大柄でレスリングでも偉大だった

最も偉大な大統領と言われるエイブラハム・リンカーンは、レスリングでも偉大だったという逸話が残っています。

実はリンカーン、193cmにもなる巨漢で、平均身長が今より低かった当時としては、まさに「鬼のような迫力」を持っていたんだとかなんとか。

そして、ただ大きかっただけでなく、その長い手足のお陰で、若かりし頃はレスリング選手としても名声を得ていたそう。

その戦歴は一説によると「約300回の対戦でたった1回しか負けたことがない」というほどで、

我こそが最強の雄鹿だ!挑戦したい者がいれば角を研いでかかって来たまえ!

という言葉を吐いたこともあるようです。

ちなみに、アメリカの「ナショナルレスリングホール・オブ・フェイム」という団体は、その偉業を讃えて「偉大なるアメリカ人」の栄誉をリンカーンに送っています。

21歳になるまで「リンカーンの地」には住んでいなかった

イリノイ州には当時リンカーンが住んでいた場所として、「リンカーンの地」や「リンカーンゆかりの地」と呼ばれる場所が存在し、イリノイ州自体がそのように呼ばれることもあります。

しかし、エイブラハム・リンカーンが、人格形成に大切な時期を過ごしたのはインディアナ州。

1809年にケンタッキー州の丸太小屋で生まれた後、1816年にリンカーンは、家族と一緒にオハイオ川の反対側の南インディアナにある土地へ引っ越しました。

そして、その土地で成人するまで過ごし、イリノイに移ったのは1830年になってからでした。

特許を持つ唯一の大統領

凧を用いた実験を行い、雷が電気であることを明らかにしたベンジャミン・フランクリンは、物理学者や気象学者であると同時に、アメリカで政治家として活躍した人物として知られています。

(ベンジャミン・フランクリン)

しかし、創造的発想力を発揮したアメリカの政治家は、ベンジャミン・フランクリンだけではなく、実はエイブラハム・リンカーンもそうだったのです。

リンカーンが外国にいたある時、蒸気船が砂州に座礁したために、一度、積荷を降ろさないといけなくなったことがありました。

機械をいじくりまわすのが大好きだったリンカーンは、空にした金属のエアーチャンバーを船の脇にくっつけることで、浅瀬を横切る時に船が沈まないようにしておく方法を設計。

この設計で、リンカーンは1849年に特許番号6469を取っていたんです。

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エイブラハム・リンカーン大統領はどんな人?名言・演説・生涯を見ていこう!のまとめ

アメリカ史上最も偉大な大統領と言われるエイブラハム・リンカーンについて、その生涯を中心に詳しく見てきました。

リンカーンによる功績は、バラバラになりかけていたアメリカを再び一つにまとめあげただけでなく、奴隷制を廃止することで多くの黒人奴隷たちを苦しみから解放し、世界に誇れるアメリカの礎を作り上げたのです。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

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