ビキニ環礁について見ていきましょう。原子爆実験や水爆実験が度々行われて放射能に汚染された結果、現在、人間は定住できないとされている島々です。
第二次世界大戦後、アメリカとソ連を中心に多くの核実験が行われた核兵器開発競争が本格化していき、それによって地球の一部地域は放射能に汚染されることになりました。
その、放射能に汚染された地域として歴史に名を残す場所の一つが「ビキニ環礁」。
度重なる核実験が実施された後、ビキニ環礁は何十年もの間、放射能に汚染されることとなり、ビキニ環礁へ定住することは未だに許可されていません。
一方で、周辺の生態系を見ていくと、驚くべき回復を見せていることが分かってきました。
この記事ではビキニ環礁について、基本情報、ビキニ環礁で行われた核実験の歴史、現在の状況の3つのパートに分けて、詳しく紹介していこうと思います。
ビキニ環礁とは?
ビキニ環礁とは、太平洋中央部に浮かぶマーシャル諸島共和国の西部「ラリック列島」に位置する環礁(環状に形成されたサンゴ礁)のこと。
第二次世界大戦後の1946年に最初の原子爆弾実験が行われ、その後も水爆実験が行われるなど、1958年までの12年間の間にアメリカによって23回の核実験が実施された舞台として有名です。
ビキニ環礁は、環状に連なった約20のサンゴ礁の島々(23の島があるとされる)から成り、全ての島々を合わせた面積は約5㎢。楕円上のラグーンを囲むようにして東西に40kim、南北に24km広がり、平均標高は海抜2.1mです。
そのビキニ環礁の中でも最大の島は、主島のビキニ島と、ビキニ島までモーターボートで30分ほど掛かる位置にあるエニュー島。
このうちエニュー島には「ビキニ環礁空港」があり、ビキニ環礁への入り口として観光でこの地へ訪れる人達を迎え入れています(現在のビキニ環礁の放射能濃度は、居住は無理だが短期間の観光なら問題ないレベルとされる)。
(出典:wikipedia)
ちなみに、現在でこそ「ビキニ環礁」という名前が付けられていますが、第二次世界大戦前は「エショルツ環礁」という名で知られていました。
さらに、第二次世界大戦中にアメリカ合衆国が同地を占領した結果、1979年にマーシャル諸島共和国の一部として独立するまで国際連合が承認したアメリカの信託統治領となっていました(その間アメリカは、同地を核実験場と決めて核爆弾の実験を繰り返し行った)。
「ビキニ環礁」と聞くと、「なぜ “ビキニ” が名前になっているんだろう?」とちょっとだけ疑問に思うかもしれません。
ビキニ環礁の「ビキニ」とは、紛れもなく女性用水着の「ビキニ」のことで、1946年7月1日に最初の原子爆実験が行われた4日後、フランスのファッションデザイナー「ルイ・レアール」が、プロモーション用のキャッチコピーとしてこの島を利用したのが始まり。
そのプロモーションの中でレアールは、
- 小さい水着ながらも(=小さな爆弾ながらも)
- 周囲の男性を虜にする大きな破壊力を持つ(=周囲を破壊する圧倒的破壊力を持つ)
といった感じで、発売した小さな水着を実験に用いた原子爆弾にかけてプロモーションし、その水着を「ビキニ」と名付けたことで、同地はビキニ環礁と呼ばれるようになったというのです。
ビキニ環礁で起こった原子爆実験や水爆実験の歴史
1944年にマーシャル諸島から日本軍が撤退すると、ビキニ環礁を含む同地はアメリカ海軍の占領下に置かれました。
そして1946年、アメリカ合衆国は、軍艦に対する核兵器の影響を試す大規模な軍事科学実験「クロスロード作戦(アメリカが同地で行った2回の核実験のこと)」の場所としてビキニ環礁を選出。
このクロスロード作戦のために、ビキニ環礁に住んでいたミクロネシア人167人が、800kmほど南東に離れたロンゲリック環礁、後にキリ島に強制的に移住させられました。
初の原子爆弾が投下されて水爆実験にまで繋がっていった
戦後初の核実験は1946年7月1日にビキニ環礁で行われました。
目的地に並んだ80以上もの第二次世界大戦の無人の老朽艦(駆逐艦や航空母艦など)の上に、21キロトンの威力を持つ原子爆弾が飛行機から投下されたのです。
一回目の実験(エイブル実験)では、海面に届く前に爆弾が空中で爆発。
続いて7月25日に行われた2回目の実験では、史上初めて「海中で」原子爆弾を爆発させることに成功。
これにより、放射線に汚染された海水が巨大なドームを形成し、また9つの船が沈没します。
そして、1954年から1958年にかけては、水爆実験を含む数多くの核実験がこのビキニ環礁、そしてエニウェトク環礁(マーシャル諸島に含まれる環礁の一つ)において行われ、アメリカ原子力委員会の太平洋上における主要な実験場となりました。
特に1956年、ビキニ諸島は世界初の水爆実験(広島に投下された原子爆弾の1100倍の威力だとされる)の舞台となったことでも有名です。
放射能汚染が広がったビキニ諸島
しかしこれらの実験により、ビキニ環礁は深刻な放射線汚染を受けました。
1958年からアメリカは、度重なる核実験による残留放射能の調査を開始。
1968年、アメリカ政府は土地を復旧させ、元々住んでいた島民が再びビキニで生活できるようにするための長期計画を始め、同年8月には「居住は安全である」という結論が出されます。
(出典:wikipedia)
その結果、離れていた島民達の多くがビキニ環礁へ戻ってきたものの、身体的異常が多く発生するなど安全性に疑問が持たれ、戻ってきた島民の中には自主的にビキニ環礁を離れるものも出てきました。
そして、1978年の計測でビキニの放射線汚染がまだ「危険なレベルにある」ことが分かった時、全ての島民は再びキリ島などに移住せざるを得なくなりました。
放射能除染開始から観光目的の訪問なら可能となったビキニ環礁
1985年にビキニ環礁の元住民達が訴訟を起こすと、アメリカ政府は島々を除染するための予算を捻出。
除染作業は1991年に開始され、その除染プロジェクトは1998年まで続き、
- 放射線レベルは定住可能になるまで低下していない(居住は出来ない)ものの、短期間の訪問や観光には問題ない
と結論付けられます。
その結果、数多くの軍艦が沈むラグーンではスキューバダイビングが行われるようになったり、スポーツフィッシングの大会などが開催されるようになり、現在では、マーシャル諸島観光の際に訪れる一つの目的地になっています。
放射能汚染から復活しつつある現在のビキニ環礁の状況とは?
上で挙げた通り、ビキニ環礁は現在、観光目的での訪問は許可されているものの、そこに定住して得られる食料を摂取し続けることは安全ではないと考えられているため、未だに定住は許可されていません。
一方で、かつては楽園として言われることもあったビキニ環礁の自然は、核実験後から70年近く経つ時間の中で、ゆっくりとその姿を取り戻しつつあると言われます。
ここからは、The Guardianに掲載された記事を元にして、そんな復活しつつあるビキニ環礁の現状を紹介していきたいと思います。
劇的な回復を見せているビキニ環礁
科学者らによると、1950年代には不毛の地とされたビキニ環礁は「劇的に回復している」ようなのです。
(出典:wikipedia)
中でも、2017年にこの地を訪れたスタンフォード大学の研究チームは、ビキニ環礁のクレーターで繁殖したと考えられる海洋生物の豊かさに驚きを表しています。
同大学に所属し、海洋科学が専門のスティーブ・パルンビ教授が率いるチームの研究は、
チェルノブイリ原子力発電所事故(1986年にウクライナのチェルノブイリで起きた原発事故)によって引き起こされた周辺地域の生態系への悪影響に比べて、ビキニ環礁の海洋生物は圧倒的に良い状態にある
ことを示唆していました。
パルンビ教授のチームは、核実験の際にできたクレーターの内部とその周辺において、
- 多様な生態系が存在する
- 車ほどの大きさの珊瑚
- マグロ
- サメ
- タイの仲間などの魚の大群
- 浜で放射能を含んだココナッツをむさぼるヤシガニ など
- 海洋生物は完璧なまでに正常かつ健全に見える(肉眼では)
ことを発見したのです。
また、サンゴの中にはビキニ環礁で何十年も生息しているものもあり、これらサンゴは最後の核実験から10年後には同地で成長を始めたようなのです。
人が干渉しなかったことで生態系が回復して豊かになった?
この発見についてパルンビ教授は、
ビキニ環礁で行われた悲劇(核実験)が、ビキニ環礁周辺の海を守っている
と考えいます。
つまり、
- 核実験によってビキニ環礁に人が近づけなくなった
- 人の手がほとんど入らなかったことで、多くの生き物が生息し始めた
- 人間による破壊を免れて何十年もゆっくりと育ったサンゴの中には、とても大きく成長出来た個体も出てきた
ということが起こり、皮肉にも核実験後のビキニ環礁は、海洋生物にとっては素晴らしい環境となったようなのです。
また、核実験により最も深刻な影響を受けた魚は、既に数十年前に死に絶えており、現在ビキニ環礁に生息している魚は、一帯を頻繁に出入りするために被爆レベルが低く抑えられていると考えられています。
ビキニ環礁の自然は立ち直ろうとしている
とにかく、23回にも渡る核実験によって破壊的なダメージがあったにも関わらず、ビキニ環礁の海は生き返ろうとしているのです。
パルンビ教授も、
ビキニ環礁の海で起きていることは、ここで息づく生命の営みそのものであり、人間が行った酷い暴力的な仕打ちから立ち直ろうとしている。これは非常に希望が持てることだ。
と言っています。
しかし人間が住むにはまだ難しい現状がある
動植物や海洋生物が回復の兆しを強く示している一方で、この地で人間が日常生活を送ることはいまだに禁じられています。
現在、例外的に島々の設備維持のために数人の管理員達が上陸していますが、生活に必要な食料や飲み水は外から持ち込まれています。
- 水は汚染され続けているために飲むことは出来ない
- 低い濃度であっても魚介類は汚染されているため、食べ続けるのは危険である
- 土壌が汚染されているため作物を育てて食べることは出来ない
といった状況が続いているからです。
実際、2012年に公開された国連の報告書によれば、放射能の影響は長く続いており、その中では、
「ほぼ不可逆的な環境汚染」が人々の暮らしを奪い、今もなお人々は「無期限の強制退去」を強いられている
としています。
元島民達の現状
ビキニ環礁の核実験実施にともない強制的に移住させられた島民は、167人いるとされていますが、そのうち半数以上が既に亡くなっており、最期まで故郷に戻ることを望んでいた人も多くいました。
彼らの多くは、1960年代から被爆によるガンを発症し始め、爆風の風下に居た人々の中には火傷や血球数の減少といった症状も見られたようです(死の灰で汚染された島民達は結果的に、かなりの量の放射能を呼吸や飲食により体内に取り込んでいた)。
また他にも、甲状腺ガンと白血病のリスクが高まるといった不安を抱えながら生きてきた上に、何十年もの間、消えない放射能を避けて、島から島へ転々とする生活を送らなくてはいけない憂き目にあってきたのです。
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過去、アメリカによって幾度にも渡る核実験が行われてきたビキニ環礁について見てきました。
ビキニ環礁は核兵器の恐ろしさを伝えると同時に、酷いダメージを受けたにも関わらずに復活しようとする自然の強さを物語る場所なのです。