マリーアントワネットの子供|マリーテレーズやルイシャルルの悲劇

マリー・アントワネットの子供達の生涯は、悲劇の物語と言っても良いでしょう。マリー・テレーズやルイ・シャルルなど、彼らが辿った生涯を見ていきます。

フランス革命中に悲劇的な最後を迎えたマリー・アントワネットは、世界的に有名な人物でその物語は語り草となっています。

しかし同時に、この悲劇的な物語はマリー・アントワネット自身だけでなく、彼女の子供達に関しても同じでした。

オーストリアからフランスへ嫁いだマリー・アントワネットは、夫のルイ16世との間に4人の子供をもうけましたが、そのうち二人はフランス革命の前に病気で亡くなり、一人はフランス革命中に幽閉されて衰弱した結果病死し、最後の一人は生き残ったものの、若い頃に受けた苦痛や苦しみから生涯解放されることはありませんでした。

この記事では、マリー・アントワネットの子供達の生涯を、歴史の流れを追いながら見ていきたいと思います。

また、途中には各子供のプロフィールも挿入してあるので確認してください。

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マリー・アントワネットの子供達の生涯のストーリー

マリーアントワネットと夫のフランス王太子「ルイ=オーギュスト(後のルイ16世)」は、1770年に結婚したものの、その後ずっと子供に恵まれませんでした。

(出典:wikipedia

このことは、マリーアントワネットの家族、特に批判的な母であった神聖ローマ帝国の女帝マリア・テレジアにとっては非常に残念なことでした。

というのも、マリー・アントワネットがフランスへ嫁いだのは、元々は因縁関係にあったフランスとオーストリアが新たな同盟関係を結んだ結果としてであり、お互いの関係を確固たるものにするというのが最大で唯一の理由だったからです。

そのため、1774年にルイ=オーギュストがルイ16世としてフランス王に即位する以前からすでに、フランス王室におけるマリー・アントワネットの地位は、男子の世継ぎを産むことにかかっている部分が非常に大きかったのです。

そして、結婚生活7年目にしてようやく待望の子供が誕生しました。

マリー・アントワネットの子供達

第一子は女の子

マリーアントワネットの最初の子供は女の子で、マリー・アントワネットの母「マリア・テレジア」の名をとって、「マリー・テレーズ」と名付けられました。

「マリー・テレーズ」のプロフィール

マリー・テレーズは、マリー・アントワネットとフランス国王ルイ16世の間に生まれた第一子で長女。

(出典:wikipedia

成長してからは、フランス国王ルイ16世の弟シャルル10世の長男として生まれた「ルイ・アントワーヌ王太子」と1799年に結婚した。

しかし、フランス革命後は夫と共に亡命生活を余儀なくされてしまう。

一方で、フランス革命によって悲劇的な結末を迎えたマリー・アントワネット一家の中では、唯一天寿を全うした人物として知られ、1778年12月19日に生を受けてから1851年10月19日まで生きた(72歳の時に死亡)。

1778年12月19日にマリア・テレーズが生まれた時、マリーアントワネットはひきつけを起こして倒れたと言います。

風通しの悪い部屋で12時間に及ぶ分娩を終えたことを考えると、これは驚くことではないかもしれません。

また、マリー・アントワネットは、第一子の性別を数時間後まで知らされませんでした。

そして出産後の疲れから目覚めて性別を知った時、マリー・アントワネットはこう言ったとされています。

かわいそうな子、あなたは望まれた子供ではありません。でもそれ故に、あなたはわたしにとってまさに愛しい子供なのです。

息子だったら国家のものとなるでしょう。しかし、娘のあなたは私のものです。

第二子は待望の男の子

結婚生活を始めてようやく7年目にして初の子供が生まれたものの、女の子であったため、フランス王室におけるマリー・アントワネットの地位は未だに不安定だっと言わざるを得ませんでした。

しかし、その状況はマリー・テレーズが生まれてからおよそ3年後に好転します。

1781年10月22日に第二子が生まれ、その子供は待望の男の子だったのです。

そして、この男の子は「ルイ=ジョゼフ」と名付けられました。

「ルイ・ジョゼフ」のプロフィール

ルイ・ジョゼフは1781年10月22日、マリー・アントワネットとフランス国王ルイ16世の間に生まれた第二子で長男。

(出典:wikipedia

二人の間に生まれた待望の男の子であり、それまで男の子が生まれなかったために王位継承者第一となっていたルイ16世の弟「ルイ・スタニスラス・グザヴィエ(プロヴァンス伯、後のルイ18世)」の野望を打ち砕くことになった。

しかし、元々病弱だったこともあり、1789年6月4日、わずか7歳でその生涯を閉じた。

第三子も男の子

ようやく世継ぎとなれる長男のルイ・ジョゼフが誕生したマリー・アントワネットとルイ16世には、さらなる幸運が訪れます。

ルイ・ジョゼフが生まれてからおよそ3年半後の1785年3月には、第三子で次男となる「ルイ・シャルル」が誕生したのです。

「ルイ・シャルル」のプロフィール

ルイ・シャルルはルイ16世とマリー・アントワネットの3番目の子供としてまた次男として、1785年3月27日に生まれた。

(出典:wikipedia

元々はそうでなかったものの、1789年に兄のルイ・ジョゼフが死んでしまったため、王位継承第一の「王太子」となった。

また、フランス革命によって父のルイ16世が処刑されると、名目上のフランス国王として1793年1月21日に即位して「ルイ17世」となった。

しかし、その後に母のマリー・アントワネットが処刑されて以降も、革命派によって監禁され続け、衰弱しきったルイ・シャルルは1795年6月8日、病死してしまった。

第四子は女の子

そして、ルイ・シャルルが誕生した翌日には、マリー・アントワネットの最後の子供となる第四子で次女の「マリー・ソフィー・エレーヌ(通称ソフィー」が誕生しました。

「ソフィー」のプロフィール

ソフィーはルイ16世とマリー・アントワネットの4番目の子供として生まれた女の子で、1786年7月29日に誕生。

(出典:wikipedia

しかし、1歳の誕生日を迎えるおよそ1ヶ月前の1787年6月19日に、結核によって短い生涯を閉じた。

フランス革命とマリー・アントワネットと子供達

マリー・アントワネットが期待された妻としての役割を果たし、ベルサイユ宮殿で煌びやかな生活を送っていた頃、フランス国民のほとんどは飢餓状態に瀕していました。

そして、イギリスから独立しようとするアメリカ植民地を支援するために、ルイ16世がアメリカへ巨額の支援金を送り続けると、フランスの国家としての負債は爆発的に増加。

その結果、税金は増え、非常に不公平なことにそれは貧しい人々にのし掛かりました。

さらに、失業の蔓延と作物の不作が組み合わさったことで、1780年代後半までにフランスは、まさに「紛争、怒り、恨みの火薬庫」と言って良い状況になっていたのです。

そして、爆発寸前のフランス国民が怒りの矛先を向けたのが、そもそも政略結婚でやってきたオーストリア人女性(外国人女性)であるにも関わらず、国民の窮状を無視するかのようにフランス人の血税を使って豪華な生活を満喫するマリー・アントワネットでした。

もちろん、彼女の行動は国民の怒りを買うには十分でしたが、マリー・アントワネットはある意味で、責任転嫁の身代わりとなってしまったとも言えるでしょう。

マリア・テレーズ以外は命を落とした

1789年7月14日、王政に反感を持ったパリの民衆がバスティーユ牢獄を主撃した「バスティーユ襲撃」が起こり、フランス革命の導火線に火が点きました。

ちなみに、この時までに第一子で長男のルイ・ジョゼフと、第四子で次女のソフィーは亡くなっています。

同年10月5日には、ヴェルサイユ行進と呼ばれるパリ市民がヴェルサイユ宮殿まで行進する事件が起こり、これによって国王一家(マリーアントワネット、ルイ16世、生き残った2人の子供たち)は、ベルサイユから離され、パリのテュイルリー宮殿へと移されると、そこで軟禁状態に置かれます。

それからおよそ3年後の1792年8月、ルイ16世は退位させられ、国王一家はテュイルリー宮殿から、より脱出が困難なタンプル塔に移されてそこで幽閉されました。

そして、ルイ16世は1793年1月21日に処刑され、マリー・アントワネットはその10か月後の10月16日に同じ道を辿ります。

さらに1795年6月8日、王太子であり、王党派がルイ17世と名付けたマリー・アントワネットの息子「ルイ・シャルル」は10歳で亡くなりました

牢獄のひどい状態のせいで病気(結核?)が悪化し、衰弱によって短い生涯を閉じたのです。

マリー・アントワネットの子供で唯一生き残ったマリー・テレーズのその後

マリー・アントワネットにとっては一番目の子供で長女であったマリー・テレーズは、こうして孤児となりました

両親は殺され、弟や妹は皆亡くなり、1795年12月に17歳で釈放されるまで、タンプル刑務所で孤独な時間を過ごしたのです。

(出典:wikipedia

マリー・テレーズは釈放された後、フランス王座の目下の世継ぎであったルイ・アントワーヌ(アングレーム公)と結婚。

しかし、アングルーム公爵夫人となっても人生は好転しませんでした。

結婚生活は完全なものではなく、決して床入りすることはなかったと言われます。

また、幼少期の幽閉時に起こった様々な悲劇的出来事や状況が、マリー・テレーズに苦痛と怒りの感情を残し、彼女を苦しめ続けました。

加えて、フサンス革命によって夫と一緒に亡命生活を余儀なくされ、残りの人生のほとんどをフランスから追放されて過ごすことになったのです。

そして、1844年に夫のルイ・アントワーヌが癌によって当時のオーストリア帝国領内で死去し、マリー・テレーズ自身は肺炎のため、1851年10月19日に亡くなりました。

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マリーアントワネットの子供|マリーテレーズやルイシャルルの悲劇のまとめ

フランス革命中の悲劇の生涯によって知られるマリー・アントワネットの子供達について、彼ら彼女らの生涯を見てきました。

マリー・アントワネットの子供達もまた、母と同じような悲劇の生涯を送ったのです。

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