マリア・テレジアの子供達|マリーアントワネットやヨーゼフ2世など

マリア・テレジアの子供達16人を紹介していきます。有名なマリー・アントワネットやヨーゼフ2世を始め、個性豊かな娘や息子達を見ていきましょう。

18世紀に、ハプスブルク家出身の神聖ローマ帝国皇帝カール6世の娘とした生まれたマリア・テレジアは、その後、夫フランツ1世の共同統治者として国内を治めるなどし、実質的な女帝として知られる歴史的に有名な女性です。

そしてマリア・テレジアは、生涯の中で16人の子供を産んだことでも知られています。

この16人の子供は全てマリア・テレジアとフランツ1世の子供で、そこには11人の娘と5人の息子が含まれていました。

また、この16人の子供達は皆、とても個性豊かで、中には後世において広く知られることになる者達もいました。

この記事では、そんなマリア・テレジアの子供達16人を、それぞれ簡単に紹介していこうと思います。

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マリア・テレジアの子供1:マリア・エリーザベト

(出典:wikipedia

マリア・エリーザベト(1737〜1740年)は、マリア・テレジアにとっては第一子にあたる女の子で長女。

ただし、3歳の時に命を落としてしまった、幼くして亡くなった3人の子供のうちの一人です。

生きていた当時はとても活発な性格の持ち主だったと言われますが、1740年6月7日に突然激しい嘔吐を繰り返し、その日のうちになくなってしまったのです。

マリア・テレジアの子供2:マリア・アンナ

(出典:wikipedia

マリア・テレジアにとっては第二子にあたり、第一子のマリア・エリザベートが生まれた翌年に誕生したのが、マリア・アンナ(1738〜1789年)という名前の次女。

病弱で、さらに成長するにつれて背中が湾曲してしまうなど、身体的な弱点があったこともあり、政略結婚によって王家に嫁ぐことは出来ず、独身のまま、オーストリアの首都ウィーンで一生を過ごしました。

まあ、物静かで内向的な性格によって父親にお気に入りだったマリア・アンナは、絵を描いたり、読書をしたりして日々を過ごしていました。

一方で、身体的には弱かったものの聡明だったため、当時は女性に不向きと考えられていた分野である、自然科学、物理学、考古学などに興味を持ち、化学実験を行ったり、考古学の発掘や芸術家や科学者に対して資金を提供したことでも知られます。

マリア・テレジアの子供3:マリア・カロリーナ

(出典:wikipedia

マリア・テレジアにとっては3番目の子供として誕生したのは、これまた女の子のマリア・カロリーナ(1740〜1741年)

しかし、第一子のマリア・エリーザベトと同様に幼くして亡くなってしまった一人で、一歳の誕生日を迎えてから2週間ほどした1741年1月24日、突然痙攣を起こし、翌日の25日には命を落としてしまいました。

マリア・テレジアの子供4:ヨーゼフ・ベネディクト(ヨーゼフ2世)

マリア・テレジアにとっては4番目の子供に当たり、待望の初の男の子であり長男として誕生したのがヨーゼフ・ベネディクト(ヨーゼフ2世:1741~1790年)

父であるフランツ1世が1765年に他界してからは、神聖ローマ帝国の皇帝となり、母であるマリア・テレジアと一緒に共同統治をしたことでも知られます。

一方で、ヨーゼフ2世は母との間に確執があったと言われます。

と言うのも、両者は思想に違いがあり、ヨーゼフ2世とマリア・テレジアは度々衝突していたから。

また、内向的な性格を持つヨーゼフ2世は若い頃、宮殿で母親と顔を合わせることを避け、フランスの作家ボルテールやルソーの書物を読むことに喜びを見いだす日々を過ごしていたことも、二人の関係に影響したと言えるでしょう。

そんなフランツ1世は、啓蒙思想(注)の影響を受けながらも絶対主義の君主であろうとした啓蒙専制君主の一人で、彼の推し進めた考えはヨーゼフ主義と呼ばれることがあります。

(注釈)啓蒙思想とは、合理的・批判的精神に基づき、中世以来のキリスト教会によって代表される伝統的権威や旧来の思想を徹底的に批判し、理性の啓発によって人間生活の進歩・改善を図ろうとした思想

マリア・テレジアの子供5:マリア・クリスティーナ

(出典:wikipedia

5番目の子供で四女として生まれてきたマリア・クリスティーナ(1742年~1798)は、母であるマリア・テレジアの誕生日に生まれただけでなく、幼少期から様々な分野で才能を示したことで、マリア・テレジアのお気に入りとなり、可愛がられました。

愛称の「ミミ」と呼ばれていたことで知られます。

一方で、マリア・クリスティーナは他の兄弟たちからとても嫌われていたことでも有名。

彼女は、兄弟や姉妹の秘密を母親に告げ口をしていたことに加え、非常に冷淡で無口な性格だったからです。

ただし、美人で聡明で、多才だったことは変わらず、彼女は母親を巧みに操る方法を心得ていたため、姉妹の中で彼女だけが自分の好きな相手と恋愛結婚することを許されました。

マリア・テレジアの子供6:マリア・エリーザベト

(出典:wikipedia

マリア・エリザベート(1743~1808年)は、マリア・テレジアの娘の中で最も美人だと評判だった女性。

かつては「男たらし」で有名で、時折、うるさい母親の怒りを買っていたと言われます。

しかし、その美しさは長くは続きませんでした。

彼女が成人して間もない20才代前半の頃、ちょうどフランス王ルイ15世の再婚相手の候補と目されていた時、不幸にも天然痘を患ってしまったのです。

その後、なんとか一命を取り留めたものの、顔面には醜い痕が残って美貌を失い、結婚話も破綻してしまいました。

また、マリア・エリザベートは口が悪いことでも有名でしたが、病気を患った後はさらに生意気になったと言います。

これはおそらく、虚栄心の強い彼女が美貌を失い、人々から注目されなくなったからでしょう。

結局、彼女は生涯独身となり、姉のマリア・アンナと共に暮らしました。

マリア・テレジアの子供7:カール・ヨーゼフ

(出典:wikipedia

マリア・テレジアにとっては7人目の子供で次男として生まれたカール・ヨーゼフ(1745~1761年)は、内気な兄のヨーゼフとは逆で非常に明るくて社交的な性格の持ち主でした。

そのため、マリア・テレジアのお気に入りとなり、母の関心と愛情を欲しいままにしていました。

また、兄のヨーゼフを軽蔑していたカールは、ヨーゼフと衝突することが頻繁にありましたが、この時、母はいつもカールの肩を持ったと言います。

しかし、姉マリア・エリーザベトと同じく天然痘に罹患した結果、16歳の誕生日の2週間前に死去してしまったのです。

マリア・テレジアの子供8:マリア・アマーリア

(出典:wikipedia

 

マリア・テレジアにとっては第8子で6番目の女の子であるマリア・アマーリア(1746~1804年)は、美人で誇り高くて魅力的な女性でした。

音楽や美術に秀でていたと言われ、さらに、他の姉妹や兄弟達と同様に、歴史、ダンス、絵画、簡単な数学などの教養を学びました。

そんなマリア・アマーリアは22歳になった時、ツヴァイブリュッケン公子のカール・アウグストと恋に落ちます。

しかし、結婚は認められず、結局、好きでもないパルマ公フェルナンドと結婚させられたのです。

恋愛が成就せずに反感を抱いたマリア・アマーリアは母親と疎遠になり、最終的には母から勘当され、オーストリアへ帰国することすら禁じられていました。

マリア・テレジアの子供9:ペーター・レオポルト(レオポルト2世)

(出典:wikipedia

マリア・テレジア9番目の子供で、三男のペーター・レオポルト(1747~1792)は、啓蒙主義に関して同様の考えを持っていたこともあり、一番上の兄ヨーゼフと仲が良いことで知られていました。

幼少期に聖職者になるための教育を受けたことが逆に、レオポルトがキリスト教の教会に対して反感を抱いたキッカケになったとされています。

実際、トスカーナ大公の身分を引き継いでから5年後の1770年にマリア・テレジアの摂政が終わると、レオポルトはトスカーナにおいて啓蒙的改革に着手します。

また、兄のヨーゼフ2世が1790年に亡くなってからは、短期間であったものの、神聖ローマ帝国皇帝の座についた時期もありました。

ちなみに、レオポルトは1764年にスペインのマリア・ルドヴィカ(マリア・ルイサ)と結婚すると、彼女との間に、母のマリア・テレジアと同じ16人の子供をもうけました。

マリア・テレジアの子供10:マリア・カロリーナ

マリア・テレジア10番目の子供で、第7女にあたるマリア・カロリーナ(1748年)に関しては、ほとんど記録が残っていません。

と言うのも、マリア・カロリーナは生まれたその日に死んでしまったからです。

そのため、他の子供たちのように肖像画も残っていません。

一方で、幸いなことに、マリア・カロリーナはキリスト教の洗礼を受けることが出来、そのことはマリア・テレジアにとって大きな救いとなったと言われます。

マリア・テレジアの子供11:マリア・ヨハンナ・ガブリエーラ

(出典:wikipedia

マリア・テレジア11番目の子供で第8女にあたるのが、マリア・ヨハンナ・ガブリエーラ(1750~1762)

とても愛嬌があって優しい性格をしていたと言われ、家族を含めた宮殿の人々ととても良好な関係を築いていましたが、中でも妹のマリア・ヨーゼファとは特に仲が良く、シェーンブルン宮殿で同じ子供部屋を使い、同じ教育係に教わっていました。

しかし、不幸なことにヨハンナは1762年、12才時にこの世を去ってしまいます。予防接種をしたにもかかわらず天然痘にかかってしまったのは、とても皮肉なことでした。

ヨハンナはその短い人生の中で、多くの分野で優れた才能を見せ、とりわけ絵画、歌、演劇に対しては高い関心を持っていたようです。

マリア・テレジアの子供12:マリア・ヨーゼファ

(出典:wikipedia

マリア・テレジアの12番目の子供で9番目の女児であるマリア・ヨーゼファ(1751~1767年)は、1751年に生まれました。

一つ年上のマリア・ヨハンナと非常に仲が良かったため、ヨハンナが若くして亡くなったことを悲しみ、それ以降、天然痘で命を落とすことをひどく恐れるようになったと言います。

しかし、マリア・ヨーゼファと同い年のナポリ・シチリア王子フェルディナンドと結婚する直前だった16歳の時、恐れていたことが現実になってしまいました。

1767年10月、フェルディナンドの元へ嫁ぐためナポリへ出発する予定でしたが、天然痘によって苦しめられ、10月15日にこの世を去ってしまったのです。

マリア・テレジアの子供13:マリア・カロリーナ

(出典:wikipedia

マリア・カロリーナ(1752~1814年)は、姉であるマリア・エリザベート(マリア・テレジアの6番目の子供)と同じ誕生日に誕生した、マリア・テレジアにとっては13番目の子供で11番目の娘。

兄弟と姉妹の中でも特に、妹のマリア・アントニア(マリー・アントワネット)と仲良くしていたことで知られます。

一方で、姉のマリア・ヨーゼファが亡くなってしまったため、マリア・カロリーナは若干13歳の時、代わりにナポリのフェルディナンドと結婚することになりました。

この結婚は突然のことで周りも予想していなかったため、特に仲が良く同じ部屋で暮らしていたマリア・アントニアはひどく悲しんだと言います。

また、結婚後はフェルナンドに代わって政治の実権を握って国を動かしていたことでも知られます。

さらに、彼女は母親のマリア・テレジア以上の子宝に恵まれ、その生涯の中で18人の子供を産みました(※ただし、多くは若くして死亡した)

マリア・テレジアの子供14:フェルディナント

(出典:wikipedia

フェルディナント(1754〜1806年)は、マリア・テレジア14番目の子供で四男。

イタリア北西部に存在した、モデナ=レッジョ公国を1796年まで支配したエステ家出身のマリーア・ベアトリーチェ・デステと結婚し、10人の子供をもうけました。

そして、13世紀から続くハプスブルク家の本家であるオーストリア=ハプスブルク家から分かれた分家、「オーストリア=エステ家」の始祖となったことで知られています。

マリア・テレジアの子供15:マリー・アントワネット

マリア・テレジアの子供として、おそらく最も有名な人物と言えば、このマリア・アントニアことマリー・アントワネット(1755~1793年)

楽しいことが大好きな性格を持ち、華々しく芸術の才能に恵まれた女性で、彼女の立ち振る舞いや容姿は優雅なものだったと言います。

その反面、フランスに嫁いでからは貧しい民衆を無視して華やかな生活を続けたため、フランスの民衆から強い反感を買うことになりました。

そして、王政妥当を目指した市民達によるフランス革命の中で、マリー・アントワネットは反革命の中心人物として1793年に処刑され、悲劇的な最期を遂げたのです。

マリア・テレジアの子供16:マクシミリアン・フランツ

(出典:wikipedia

第16子であり五男として生まれたマクシミリアン・フランツ(1756~1801年)は、マリア・テレジアにとっては最後の子供です。

他の兄弟達とは違い、マクシミリアンは聖職者としての道を歩むようになり、最終的にはケルン大司教となりました。

また、マクシミリアンは音楽家や芸術家を支援しており、有名な作曲家ベートーヴェンのパトロンであったことでも知られています。

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マリア・テレジアの子供達|マリーアントワネットやヨーゼフ2世などのまとめ

歴史的に有名な女帝であるマリア・テレジアの子供達16人について見てきました。

その名が世界的にも広く知られたマリー・アントワネットを始め、他にもヨーゼフ2世やマリア・アマーリアなど、11人の娘と5人の息子を産んだことでも、マリア・テレジアは歴史に名を残しています。

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