アインシュタインの子供達について見ていきましょう。2人の息子と1人の娘のそれぞれの生涯や、父との関係までを確認していきます。
人類の歴史上で最高の物理学者の一人と言われ、相対性理論を始めとして世の中に数々の革命的な理論を送り出した現代物理学の父と言えば「アルバート・アインシュタイン」。
その圧倒的な業績から、彼について語られる時は基本的に、科学における足跡のみであることが一般的です。
そのため、アインシュタインの家族に関して触れられることはあまり多くありません。
この記事では、科学とは異なるアインシュタインの別な側面を理解するためにも、アインシュタインの下に生まれた3人の子供達の生涯や、父との関係などを詳しく見ていきたいと思います。
アインシュタインの子供① リーゼル・アインシュタイン(長女)
リーゼル・アインシュタイン(1902年1月27日〜1903年9月18日?)は、アインシュタインにとっては大学時代の学友で最初の妻「ミレヴァ・マリッチ」との間に出来た第一子であり長女です。
両親の間で交わされた手紙によると、リーゼルは2人が結婚する1年前の1902年1月27日に、現在のセルビア、当時のオーストリア・ハンガリー帝国ヴォイヴォディナ自治州の街「ノヴィ・サド」で産まれ、父アインシュタインが働いていたスイスに母ミレヴァが単身で合流するまでの短い期間、母親が世話をしていました。
ただし、アインシュタインとミレヴァが結婚したのは1903年になってからのことで、1902年に出産したばかりの頃、リーゼルはいわゆる私生児で、また、彼女の妊娠によってミレヴァは、学業を断念せざるをえませんでした。
全く世間に知られていなかったアインシュタインの娘の存在
娘リーゼルの存在は、1986年にアルバート・アインシュタインとミレヴァ・マリッチの間で交わされた手紙の束が、息子の1人「ハンス・アルベルト・アインシュタイン」の娘、つまりアインシュタインにとっては孫に当たる「エヴァリン」によって発見されるまで、世間には知られていませんでした(※ただし、エヴァリンは養女のため、アインシュタインとは血のつながりがない)。
またこれついては、
- 両親はまだ結婚していなかったために、リーゼルが生まれた時は私生児だった
- アインシュタインは男の子を望んでいた
- 男の子の場合は「ハンゼル」という名前を予定していた
- ミレヴァは女の子を望んでいたらしい
- 1903年に死亡したか養子に出されてしまった
といった理由から、アインシュタインは生涯の中で、ほとんど彼女について語ることはなかったため、アインシュタインに関する記録の中にその存在を見つけるのが困難だったのが理由です。
一方で、アインシュタインの子孫のエヴェリンが発見した手紙の中には、
リーゼルのことは喜ばしく思っています。バレないようにこっそりと心のなかでハンゼルと呼んでいたりするけどね。
(1901年12月12日の手紙)
とユーモアをまじえてリーゼルについて触れていたり、
あなたが望む通り、本当にリーゼルでしたね。元気ですか?ちゃんと泣きますか?(中略)まだ会ってもいないうちから愛しくてたまりません。
(1902年2月4日辺りの手紙)
といったリーゼルへの気持ちが綴られている部分が確認されています。
リーゼル・アインシュタインの行方
現存するアインスタインが綴った手紙のなかで、娘リーゼルについて書かれている最後の物は、彼が1903年9月19日に送ったもので、しょう紅熱(小児に多い発疹性伝染病)を患った娘を案じています。
さらに、アインシュタインは手紙のなかで、
子供はどのように登録されている?
後々問題にならないように充分用心しなければ
と書いてもいるため、これによって「娘を手放して養子に出すことを示唆しているのではないか?」とも考えられているのです。
その結果、リーゼルのその後に関しては、
- リーゼルは母方の親族に育てられた後、おそらくしょう紅熱で1903年9月に亡くなったのではないか?
- リーゼルはミレヴァの親しい友人であるヘレン・サヴィッチの養女として「ゾルカ・サヴィッチ(Zorka Savić)」の名で、1990年代まで生存していたのではないか?
といったいくつかの説が浮上していますが、今のところ1903年に亡くなったとする説が最も支持を集めています。
アインシュタインの子供② ハンス・アルベルト・アインシュタイン(長男)
リーゼルが生まれてから2年後、アルバート・アインシュタインとミレヴァ・マリッチが結婚した翌年に生まれたのが、ハンス・アルベルト・アインシュタイン(ハンス・アルアバート, 1904年5月14日〜1973年7月26日)という男の子。
長男ハンス・アルバートは、1904年5月14日にスイスのベルンにあるクラムガッセ49番地で生まれました。
息子を欲しがっていたアインシュタインは、ベルンの特許事務所での仕事の他に物理の理論研究のために家で長時間作業をしていたにも関わらず、よくハンス・アルバートの世話をしていたと言います。
また、その後には次男エドゥアルドも生まれ、ハンス・アルバートは幸せな家族生活を送っていくかのように思われました。
しかし、アインシュタイン一家が1914年にベルリンへ引っ越すと状況は一変します。
ミレヴァはベルリンに馴染めず結婚生活も破綻したため、ほどなくして息子たちと一緒にチューリッヒに戻り、別居が5年続いた1919年、両親は離婚してしまったのです。
ハンス・アルバートは1919年の両親の離婚によってひどく苦しんだと言います。
しかし、離婚してからもアインシュタインは、息子たちとミレヴァに会いにチューリッヒを訪れ、時には息子たちと小旅行にも出かけたといいます。
ハンス・アルバートは母の手によって育てられた
チューリッヒで母ミレヴァは、子供達の教育を全て行いました。
その結果、ハンス・アルバートは自立した知性のある賢明な若者に育ちます。
ハンス・アルバートは非常に優秀な学生で、チューリッヒにあるスイス工科大学でエンジニアリングを学びます。
そして1926年に卒業したハンス・アルバートは土木技師になり、ドイツのドルトムントで鉄鋼の分野で設計者として働きました。
4人の子供に恵まれたハンス・アルバート
ハンス・アルバートが1927年に、最初の妻フリーダ・クネヒトと結婚しましたが、この頃になってようやく、父アルバート・アインシュタインとの親子関係が修復されたと言います。
一方でハンス・アルバートとフリーダは、4人の子供に恵まれました。
- 1930年・・・長男のベルンハルト
- 1933年・・・次男のクラウス・マーティン
- クラウスはジフテリアに感染してわずか6歳で亡くなってしまう
- 1939年・・・三男のデビッド
- 10月に誕生したが1ヶ月後の11月に亡くなってしまう
- 1941年・・・長女のエヴァリン
- エヴァリンは1941年に養女として迎えられた
その後、妻フリーダは1958年に急死し、その翌年ハンス・アルバートは医師だったエリザベス・ロボーツと再婚しますが、2人の間には子供は出来ませんでした。
アメリカへ移住したハンス・アルバート
父のアルバート・アインシュタインと同様にユダヤ人であったハンス・アルバートは、第二次世界大戦中の1930年後半になると、ナチスドイツによるユダヤ人を対象とした大虐殺「ホロコースト」から安全な場所へ避難するため、アメリカへの移住を検討し始めます。
仕事を探して1937年に渡米後、1938年1月に一度はスイスに戻りますが、1938年6月にはアメリカに住む家族(父アルバート・アインシュタインは1933年からアメリカへ移住していた)を頼り再び渡米。
サウス・カロライナ州クレムゾンにある農事試験場で、調査技師として働くようになりました。
その後、1947年までパサデナにあるカリフォルニア技術研究所で調査技師として勤務し、1947年に家族と一緒にバークレーに引っ越しました。
ハンス・アルバートの死
ハンス・アルバートは、1947年から1971年までカリフォルニア大学バークレー校で水力学の教授として勤務し、国際的な評価を受けるまでとなります。
さらに、この頃には父親との関係も十分に改善し、2人でアメリカ中を旅行したとさえ言われています。
実際、アインシュタインが1955年にプリンストンで亡くなる前、息子のハンス・アルバートは病床に伏す父親の側で何時間も付き添っていました。
そしてハンス・アルバート自身は、1973年7月26日に心不全によって帰らぬ人となりました。
アインシュタインの子供③ エドゥアルド・アインシュタイン(次男)
エドゥアルド・アインシュタイン(1910年7月28日〜1965年10月25日)は1910年、長男のハンス・アルバートが誕生してからおよそ6年後、スイスのチューリッヒで物理学者アルベルト・アインシュタインの次男として、妻ミレヴァ・マリッチとの間に産まれました。
エドゥアルドは兄のハンス・アルバートと同じように優等生で、さらに音楽の才能にも恵まれていました。
そして、中等教育機関にあたるギムナジウムを卒業後、精神科医を志して医学の道に進みます。
しかし、20歳頃には統合失調症と診断され、発病から2年後に施設に入所することとなってしまったのです。
その後、エドゥアルドの病状は酷く悪化してしまったとされますが、その理由が、
- 精神病施設で当時投与された「薬物」や行われた「治療方法」
にあると言われ、特に兄ハンス・アルバートは、
エドゥアルドの記憶や認知機能は、入院中に行われた電気ショック療法が原因で著しく損なわれた。
と考えていました。
しかし、それでもエドゥアルドの音楽や芸術への関心は薄れることはなく、詩を書くこともあったと言います。
またオーストリア出身の精神科医として歴史にも名を残したジークムント・フロイドを信奉しており、寝室にはフロイドの写真を貼っていたらしいです。
父アルバートシュタインとの関係
統合失調症を発病後、エドゥアルドは父に対して「憎んでいた」ことを伝えました。
さらに、父アルバート・アインシュタインは、1933年にドイツ国内のナチス台頭を受けてアメリカに移住したこともあり、その後、エドゥアルドとは二度と会うことはありませんでした。
ただし、父アルベルトは「petit=小さい」からきた「ティート」という愛称でエドゥアルドを呼び、発病する前から定期的に手紙のやり取りをしていました。
そして、この手紙のやり取りはエドゥアルドの発病後だけでなく、アメリカ移住後も続きました。
エドゥアルドの晩年と死
精神病に苦しんだエドゥアルドは生涯自立することが出来ず、母ミルヴァが看病し続けることになりました。
しかし、その母も1948年に亡くなってしまった結果、それ以降はチューリッヒ大学付属の精神病院で過ごすことが多くなります。
そして1965年、その病院の中で脳卒中を起こし、55歳で亡くなりました。
合わせて読みたい世界雑学記事
- アインシュタインの脳の違いと大きさから盗まれた事件とその後の研究
- アインシュタインの名言集|格言から分かる性格や人生に対する指針
- アルバート・アインシュタインの生涯と人生15の興味深い話
- →こちらから世界の人々に関する情報をさらに確認出来ます
アインシュタインの子供達|2人の息子と1人の娘の生涯とは?のまとめ
世紀の大物理学者アルバート・アインシュタインの子供達について、その生涯から父との関係までを見てきました。
アインシュタインについては科学における業績がクローズアップされがちですが、子供達を含めたそれ以外の部分もたまには注目してみましょう。