キューバ革命はキューバで1959年に達成された独裁政権打倒の革命です。その歴史を見ていくと、指導者の確固たる決意、長年の戦い、そして多くの犠牲によって成功したことが分かります。
1958年も残すところあとわずか数日となった頃、指導者フィデル・カストロに率いられた革命軍は、当時のキューバの独裁者フルヘンシオ・バティスタに忠誠を誓う政府軍を追放する作戦を開始。
この作戦は成功し、フィデル・カストロ、チェ・ゲバラ、ラウル・カストロ、カミロ・シエンフェゴスおよびその同士たちが、意気揚々とハバナ入りしてここに「キューバ革命」と呼ばれる歴史的な革命が成功しました。
一方で、キューバ革命は1日にして成功したわけではなく、その歴史を見ていくとかなり以前から始まっており、革命軍の最終的な勝利は、長年にわたる苦難、プロパガンダ運動、そしてゲリラ戦の末にようやく勝ち得たものだったことが分かります。
この記事ではキューバ革命について、歴史的な背景を含めて詳しく紹介していこうと思います。
キューバ革命とは?
キューバ革命とは、1953年から開始され、1959年にキューバのバティスタ独裁政権が打倒されたことで実現した革命または武装解放闘争のこと。
- 独裁政権によって虐げられていた貧しい農民や労働者らの利益を代弁する政府の樹立
- 社会正義に基づく理想社会の建設
を掲げて隆起した、その後にキューバの最高指導者となったフィデル・カストロと、カストロの理想に賛同したチェ・ゲバラが中心となって達成されました。
一方で、このキューバ革命は社会主義革命という側面も持ち、革命後のキューバは社会主義化へと向かっていくことになります。
その結果、当時は冷静時代だったこと、そして地理的にアメリカへ近いこともあり、キューバはアメリカにとって大きな脅威となっていき、ついにはアメリカによって経済封鎖が行われるにまでいたり、キューバは東西冷戦に完全に巻き込まれていくことになったのです。
このように、キューバ革命はキューバにとって大きな転機を迎えることになった革命であると同時に、その後の長い間、キューバの運命を決定づけた歴史的出来事なのです。
キューバ革命の歴史
バティスタによる権力の掌握がキューバ革命の大きな原因となった
キューバ革命の種が蒔かれたのは、元軍曹のフルヘンシオ・バティスタが、接戦の総選挙中に無理やり権力を掌握した時でした。
1940年から1944年まで大統領職にあったバティスタは、1952年の大統領選挙に勝利できない見通しが明らかになると、投票に先立って軍事クーデターを起こして権力を掌握。
直ちに選挙を中止してしまいました。
しかし、このバティスタの暴挙に対して、欠点があっても民主主義国家であることを望んだ多くのキューバ国民は強い反感を抱きます。
そうしたキューバ人の一人が、日の出の勢いのスター政治家「フィデル・カストロ」でした。
カストロは、もしも1952年の選挙が実施されていたならば、議席を獲得した可能性が高い人物で、彼はバティスタ大統領を失脚させるための構想を練り始めていくのです。
フィデル・カストロによるモンカダ兵営の襲撃
1953年7月26日朝、カストロは行動を起こしました。
革命を成功させるためには武器が必要だったこともあり、カストロは孤立していたモンカダ兵営を標的に選びます。
138名の男たちが、未明、モンカダ兵営に奇襲攻撃を仕掛けたのです。
カストロが率いた革命軍(反乱軍)は、人数や武器の数的不利を奇襲によってカバーできると望みをかけていたものの、この攻撃は始めからほぼ失敗で、革命軍は数時間続いた銃撃戦の末に完敗。
革命軍兵士の多くは捕えられてしまいました。
一方で、政府軍側には19名の死者が出でいたことから、生き残った政府軍兵士の怒りは逮捕された革命軍兵士に向けられ、また、見せしめの目的もあり、その多くは銃殺されてしまいました。
そして、フィデルとラウルのカストロ兄弟はなんとか逃亡したものの、後には捕まってしまいます。
「歴史が私に無罪を宣告するであろう」
カストロ兄弟と革命軍の生存者は、裁判にかけられました。
しかし、元々弁護士として活動をしていたフィデルは、裁判の争点をバティスタの権力掌握に当て、独裁者バティスタに対する形勢を一旦は逆転することに成功。
国家に従順なキューバ人として武力行為に訴えたのは、バティスタの独裁政治に反抗してのことであり、それはキューバ市民としての義務であるからだ
というのがフィデルの基本的な主張でした。
この主張も含めてフィデルは長い演説を行い、それに対して不利を悟った政府は、遅ればせながらフィデルを黙らせるために、以降、「フィデルは体調不良で裁判に出廷できない」と主張。
このように高度に政治的な裁判が進められた結果、フィデル・カストロは15年の実刑判決を受けることとなってしまいます。
しかし、それとは対照的に、多くの貧しいキューバ人にとってフィデル・カストロは、国民的英雄となっていったのです。
ちなみに、フィデル・カストロがこの裁判における演説のなかで発言した、
歴史が私に無罪を宣告するであろう
という言葉は、彼が発した最も有名な言葉として歴史に刻まれています。
メキシコとグランマ号
1955年5月、改革を迫る国際社会からの圧力に屈したバティスタ政権は、全ての政治犯を恩赦として釈放し、その中にはフィデル・カストロを含めたモンカダ兵営襲撃に加担した者もいました。
これによって自由の身となったフィデルとラウルのカストロ兄弟は、革命軍組織の再編と革命の次なる段階を計画するためメキシコへ向かいます。
そこで、不満を抱く多くの追放されたキューバ人と会い、その者達も、モンカダ兵営襲撃の日に因んで命名された新たな「7月26日運動」に加わりました。
新たな参加者のなかには、追放されたキューバ人でカリスマ的存在だった「カミロ・シエンフェゴス」や、アルゼンチン人医師の「エルネスト・チェ・ゲバラ」もいました。
そして1956年11月、82名の男たちが小さなヨット「グランマ号」に乗り込み、キューバへと革命に向けて出帆したのです。
山間部におけるゲリラ活動
しかし、事前にカストロがキューバへ戻ることを公言していたこともあり、バティスタ派の支持者並びにバティスタ軍は、反逆者の一団がキューバに戻ってくるという噂を嗅ぎ付け、待ち伏せ攻撃を仕掛けました。
これにより、メキシコから共にやってきた多くの仲間が失われ、フィデルとラウルのカストロ兄弟は、残ったわずかな生存者とともにかろうじて森林に覆われた中央の山間部に逃げ込みます。
そのメンバーにはシエンフェゴスやゲバラもいました。
しかし、山間部へ逃げ込んだことは、フィデル・カストロ率いる革命軍にとっては革命成功への重要な転機となります。
キューバの山間部は入り込むのが困難であるため、バティスタ軍やバティスタ支持者から身を隠すのに適しており、ここで革命軍は、
- グループの立て直し
- 新たな加入者の確保
- 武器の収集
が可能となると同時に、軍事目標に対するゲリラ攻撃を計画的に実施出来るようになったのです。
実際、バティスタはゲリラ掃討を試みましたが、完全に制圧することは出来なかったのです。
また、革命の指導者たちは外国人ジャーナリストの来訪を許可したため、インタビュー記事は世界中に配信され、国際世論も味方につけていくこととなりました。
反政府の動きが加速していく
「7月26日運動」がキューバ山間部で台頭すると、他の反政府グループも戦闘を開始。
都市部ではカストロと緩い同盟関係を結んだ反政府グループが一撃離脱の攻撃を実行し、もう少しでバティスタの暗殺が成功するところまでいったこともありました。
このような状況の中でバティスタは、1958年の夏、大胆にもキューバ山間部へ、政府軍の大部分の派遣を決定。
これを機にカストロらゲリラ軍の一掃を試みたのです。
しかし、この企ては裏目に出てしまいました。
機敏な反逆者たちは、バティスタ軍兵士に対しゲリラ攻撃を実行し続けただけでなく、政府軍兵士に対して仲間に加わるようにも説得。
これによって、攻撃を受けた兵士の多くは政府軍を裏切るか、そうでなくても脱走行為に走ったのです。
そして1958年末までに、バティスタ政権に対してとどめの一撃を実行する準備が、革命軍側では着々と整っていきました。
政府の敗北が決定的となってついに革命が成功した
1958年末、フィデル・カストロは革命軍を「カラム」と呼ばれる2つの部隊に分けて進軍させることを決定。
カミロ・シエンフェゴスおよびチェ・ゲバラ率いる少数の軍勢は平原地帯へ、カストロ兄弟とフアン・アルメイダカストロ率いる残りの革命軍は西方と首都ハバナへ進軍しました。
この進軍において革命軍は、その経路にある街や村を解放の名の下で占拠し、そこでは解放軍として人々に歓迎されたのです。
そしてカミロ・シエンフェゴスは12月30日、「ヤガイェイの戦い」で小さな駐屯地を占拠し、また、チェ・ゲバラは、12月28日から30日まで続いた「サンタクララの決戦」で、数的不利な状況を覆してはるかに大軍の政府軍に勝利。
また、この過程でゲバラは貴重な武器弾薬を手に入れました。
このように政府側に不利な態勢となっていった結果、政府はカストロと交渉を通じて事態の収拾を図り、流血の戦いを終わらせようと試みましたが、バティスタとその側近たちは、もはやカストロ軍の勝利は避けられないと考え、1958年12月31日の夜、ついにバティスタは辞任演説を始め、翌日には集められるだけの略奪品を手に国外へ逃亡したのです。
政権打倒の夢が叶った
歓喜に沸いたキューバ市民は街頭に繰り出し、反乱軍兵士を歓迎しました。
カミロ・シエンフェゴスとチェ・ゲバラおよびその兵士たちは1959年1月2日にハバナ入りを果たし、残っていた軍事施設を武装解除しました。
また、カストロ兄弟はゆっくりとハバナへ向かい、行く先々の街や都市、村々で歓声に沸く民衆に対し演説を行い、最終的には1959年1月9日にハバナに入りました。
キューバ革命後のその後
キューバ革命の始まりから成功までを見てきましたが、キューバ革命を理解するためには、この革命以降のキューバについても言及しておく必要があるでしょう。
権力を集約していったカストロ兄弟
カストロ兄弟は迅速に権力の集約を図り、バティスタ政権の残党勢力を一掃し、カストロ軍が勢力を増す過程で支援を受けてきたライバルの反政府グループをすべて力でねじ伏せました。
その中で、ラウル・カストロとチェ・ゲバラは、バティスタ政権時代の「戦犯」を一斉検挙するための部隊編成をまかされています。
そうした「戦犯」とは、旧政権時代下で裁判や処刑に持ち込むため、拷問や殺人の任務を担っていた人々でした。
社会主義国家の誕生
また、カストロは当初、自身をナショナリストであると位置づけていましたが、ほどなくして社会主義(共産主義)へ傾倒するようになったことでキューバは社会主義国家となり、また、カストロはソ連指導部と公に接触しようと試みます。
そしてこのラテンアメリカにおける社会主義国家キューバの誕生は、その後、数十年にわたってアメリカにとって悩みの種となり、「ピッグス湾事件」や「キューバ危機」をはじめとする国際的な重大事件の引き金となりました。
さらに、キューバ国内に目をやると、1962年、アメリカがキューバに対して経済制裁を発動したことで、キューバの人々は長年、困窮を強いられることとなりました。
例えば、キューバ国内で困窮した人々が、自国を去ってアメリカのフロリダ州南部に多く押し寄せ、この地域にはエスニック集団が形成されたほどです。
1980年だけを見ても、12万5千人以上のキューバ人が間に合わせのボートでキューバを出国したと言います。
国際部隊に躍り出たキューバ
一方で、革命を成功させたカストロ政権下のキューバは、影響力を持つ国家として国際舞台に躍り出ました。
例えば、1975年からアフリカのアンゴラで続いたアンゴラ内戦において、急進左派を支援するために、キューバは何千もの兵士を現地へ派遣するなど、国際部隊で実際に目立った行動を行うようになりました。
また、キューバ革命はラテンアメリカ全土に刺激的影響を及ぼし、触発された理想主義に燃える若年男女が、国民から嫌われた政府を新政府に変革しようと、武器を手に立ち上がった結果、
- ニカラグアでは
- 反政府組織のサンディニスタ民族解放戦線が、最終的には政府を転覆させ、政権を掌握した
- 南アメリカの南部では
- チリの左翼革命運動(MIR)や、ウルグアイのツパマロスなど、マルクス主義の革命グループが急増して右翼軍事政府が権力を掌握した
といった歴史的出来事が起こることとなりました。
フィデル・カストロが最高権力から退いた後のキューバ
しかし、革命後のキューバを率いてきたフィデル・カストロも、老いには勝てませんでした。
2008年、年老いたフィデル・カストロはキューバ国家評議会議長の職を退き、代わって弟のラウルを就任させます。
(ラウル・カストロ)
そして、この後の5年間、キューバ政府は海外渡航に関する厳しい規制を段階的に緩和し、また、キューバ市民に対して「ある程度の私的な経済活動」も許可し始めます。
さらに、アメリカはキューバをオバマ大統領主導の対キューバ政策の交渉に引き込み、2015年には長年にわたる経済制裁措置を段階的に緩和することを発表。
この発表がなされた結果、アメリカからキューバへの渡航について関心が高まり、両国間における文化交流が促進されました(※ただし、2016年のアメリカ大統領選でドナルド・トランプが大統領に選出されると、両国関係は流動的になった)。
フィデル・カストロは、2016年11月25日に死去。
ラウル・カストロは2017年10月に国民議会選挙を実施すると発表し、キューバ人民権力全国会議は、ミゲル・ディアス・カネルを新たな国家元首として承認すると公式に発表しました。
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キューバ革命|指導者カストロやゲバラに率いられた革命の歴史のまとめ
1959年にキューバで実現したキューバ革命について見てきました。
キューバ革命は、キューバにとっては大きな転機となり、また、国際的にも強い影響力を与えた革命でした。
その成功の裏には、長年の運動と多くの苦しみがあったのです。