ナイル川の氾濫について詳しく見ていきます。その原因からエジプト文明との関係、そして氾濫が収まった背景についてまでを解説していきます。
ギリシャの歴史家ヘロドトスは「エジプトはナイルの賜物」という言葉を残したことで知られていますが、この言葉は、
エジプトの壮大な文明・国家が築かれたのは、ナイル川が運ぶ肥沃な土のおかげである
という意味を持ち、古代のエジプトに生きた人々の生活がナイル川に支えられていたことを示唆しています。
しかし一方で、ナイル川はまた毎年氾濫が起きる川としても知られ、時には人々から恐れられる対象となっていました。
そんなナイル川の氾濫について、この記事では主に、「原因」、「エジプトにおける重要性」、そして「ナイル川の氾濫の終結」の3つに分けて見ていきたいと思います。
ナイル川の氾濫とは?その原因とエジプトにおける重要性
ナイル川は古代からすでに、頻繁に氾濫を起こしてきたことで知られており、世界四大文明の一つに含まれるエジプト文明は、このナイル川の氾濫と共に繁栄していったことが分かっています。
氾濫により、ナイル川の氾濫原に沿って肥沃なシルト(沈泥:砂より小さく粘土より粗い砕屑物)が堆積。
その結果、農業が栄え、何千年もの間、エジプトのナイル川下流の河谷やデルタ地帯に密集する人々の生活が支えられてきたのです。
また、当時の古代エジプト人達は、ナイル川の氾濫の原因は「女神イシスが夫オシリスの死を悲しむ涙によるものである」と信じていたと言われます。
しかし、これに対して現代の発展した科学は、ナイル川の氾濫の原因について異なる見解を示しています。
ナイル川の氾濫について理解するためにも、まずはその原因について見ていきましょう。
ナイル川の氾濫の原因
ナイル川の氾濫にはある種の「規則性」があり、毎年夏季に発生するという特徴がありました。
というのも、このナイル川の氾濫は「毎年5月から8月の間にエチオピア高原で発生するモンスーン」が原因となるから。
つまり、何がナイル川の氾濫を引き起こしているかを簡単に述べるのであれば、その答えは「モンスーン」となるのです。
モンスーンによって影響を受ける青ナイル
さらに、氾濫の原因の詳しい仕組みを理解していく上で大切になってくるのが「青ナイル」の存在です。
(青ナイル)
ナイル川の主流は、上流の2つの大河がハルツームで合流して形成されるわけですが、その2つの大河とはそれぞれ以下の通り。
- アフリカ大湖沼から流れ出す「白ナイル」
- 全長:3700km
- 西方のエチオピア高原から流れる「青ナイル」
- 全長:1450km
この中で、白ナイルは「スッド」と呼ばれる大湿地帯を流れ、このスッドは上流からの水流を長期間停滞させることもありますが、夏季に氾濫を起こす原因となるのは、モンスーンが起きるエチオピア高原から流れる「青ナイル」の方です。
ナイル川の氾濫の仕組み
つまり、ナイル川が氾濫を起こす仕組みとは以下の通りです。
- 5月から8月の間、北半球と南半球の貿易風が入り混じる赤道低圧帯北方の気候変動が生じる
- それによってエチオピア高原にモンスーンが発生して大量の雨を降らせる
- エチオピア高原に降り注いだ雨のほとんどは青ナイル(とアトバラ川)に流れ込む
- アトバラ川もナイル川の支流の一つ
- 水量が増した青ナイル(とアトバラ川)がナイル川主流を増水させる
- この時期、青ナイルとアトバラ川は主流の水量の最大90%にもなると言われる
- 最終的にナイル川の氾濫が起こる
このようにして、ナイル川の氾濫は夏に引き起こされるのです。
エジプトにおけるナイル川氾濫の重要性
一方で、ナイル川の氾濫は必ずしも悪いというわけではありませんでした。
最初の方で触れた通り、毎年のように起こるナイル川の氾濫があったからこそ、肥沃なシルトが周辺地域に堆積していき、そこでは農業が栄えて人々の暮らしが安定し、人口が増えていったことから、古代エジプト文明は当時の世界において非常に大きな勢力にまで発展したのです。
また、ナイル川は砂漠地帯における唯一の水源であり、加えて、北の地中海につながることから、未知なる世界への入り口としても重要な存在でした。
そのため、古代からエジプトに住む人々の間でナイル川の氾濫は、「神自身の訪問」だとか「神がもたらしたもの」と捉えられ、ある意味で神話化されていたと言えるのです。
例えば、ナイル川の氾濫の度合いによって、以下のようにそれぞれ異なる神話的解釈がなされたという話が残ります。
- ナイル川の適度な氾濫
- ナイル川の神である「ハピ」がもたらした恵みとして歓迎された(※ハピは神オシリスと同一視される)
- ナイル川の度を超えた氾濫
- 破壊神「セト」の怒りによるものとして恐れられた(※セトはオシリスの弟で、神話の中ではオシリスを殺したとされる)
ナイロメーター
ちなみに、毎年、ナイル川の氾濫はその度合いが異なるため、エジプトに住む人たちにとって、その年のナイル川の水量を予測することは死活問題でした。
そのため、古代エジプトでは「ナイロメーター」と呼ばれる建築物を利用して、夏に起こるナイル川の氾濫の規模を予測していました。
そして、当時はこの重要な役割を聖職者達が担うことで、その神秘性や信ぴょう性を高めていたようです。
ナイル川の氾濫の終結
現在、ナイル川周辺の地域ではかつてのような氾濫を経験しなくなっています。
これは、19世紀に入ってからエジプトはイギリスの支配下に入ったこと、そして、産業革命が起こった結果、それまでの農業方法が必要なくなったことで、むしろナイル川が氾濫しないようにコントルールする必要に迫られたというのが理由です。
(アスワン・ハイ・ダム)
氾濫を防ぐ目的でエジプトへ進出したイギリスは初期の頃、当時利用されていた灌漑設備の改善と拡大に着手したものの、氾濫を防ぐほどには至りませんでした。
そこで、アスワン・ロウ・ダムと呼ばれるダムが1901年に建設されますが、まだナイル川の氾濫を完全にコントロールするには十分ではありませんでした。
そのため、以降何度かに渡ってアスワン・ロウ・ダムは拡張されたものの、時折、エジプトの人々やナイル川周辺地域は、古代からの氾濫に見舞われ続ける状況が続いたのです。
この問題を解決するためにも、1956年から1970年までエジプトの大統領となったガマール・アブドゥル=ナーセルは、アスワン・ハイ・ダム計画を推し進め、1970年、アスワン・ロウ・ダムから6.4m上流に、「アスワン・ハイ・ダム」と呼ばれる新しいダムを完成。
これによって、水かさが増したナイル川の水はダム湖となったエジプト南部のナセル湖に注ぐことになったため、大規模なナイル川の氾濫にも完全に対応出来るようになり、ナイル川の氾濫は終結することとなったのです。
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ナイル川の氾濫|エジプト文明における意味から原因そして歴史までのまとめ
「エジプトはナイルの賜物」と言う言葉の根底には、ナイル川で毎年夏に起こる氾濫がありました。
このナイル川の氾濫は、夏季に発生するモンスーンによって大量の雨がエチオピア高原に降り注ぎ、その水のほとんどが青ナイル川に注ぐことで引き起こされるのです。
一方で、氾濫を起こしながらも、ナイル川は周辺地域に肥沃なシルトを運んでいき、それによって、エジプトを始めた周辺地域では古代から文明が発展してきました。
しかし現在では、近代化によってナイル川の定期的な氾濫は必要なくなり、1970年に完成したダムによって、完全に抑えられています。